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潜入 -6-

あの日、神崎徹と再会して以来、相葉隼人の行動は、ある一点において、極めて戦略的になった。 すなわち――エース弁護士・桐島圭吾の、徹底マークである。 圭吾のスケジュールをそれとなく把握し、彼が外部の人間…つまり、神崎とミーティングを入れる日は、朝からそわそわと落ち着かなくなる。憧れの人が、いつこの事務所に現れてもいいように。 「桐島先生、コーヒー淹れました。どうぞ」 ある日の昼下がり。隼人は、完璧なタイミングで圭吾のデスクに、香り高い淹れたてのコーヒーを置いた。そして、まるで当然のように、もう一つのカップを隣に添える。 「神崎さんも、そろそろいらっしゃる頃かと思いまして。ブラックがお好きなんですよね、確か」 その言葉に、圭吾は面白いものを見るように、片方の眉を上げた。どうやらこの若者は、神崎の好みまでリサーチ済らしい。 またある日は、昼食の時間。 「桐島先生!駅裏に美味い鯖サンドの店ができたんです!神崎さん、好きそうな気がして!先生の分も買ってきましたから!」 また別の日の、 昼食の時間。 「桐島先生!銀座の木村屋のあんぱん、買ってきました!神崎さん、ああいう老舗の味、好きそうな気がして!先生の分も、もちろんありますから!」 そう言って、毎度毎度、彼は二つの紙袋を圭吾のデスクに置いていく。その必死な姿は、最初のうち、圭吾の目にも微笑ましく映っていた。 (徹のやつ、とんでもなく懐っこい子犬に慕われたもんだな) からかい甲斐のあるオモチャが、この退屈なオフィスに紛れ込んできた、と。 でも、その執着は、次第にプロフェッショナルな領域を侵食し始める。 「桐島先生。今先生が神崎さんに依頼している案件、俺に手伝えることはありませんか?どんな雑用でもやります!」 やる気があるのはいいことだ。けれど、事務所の管理をしている者がすべてそう思っているわけではなかった。 ◇◆◇◆◇ 「――桐島先生、お呼びでしょうか」 相葉隼人がミーティングルームに入ってくると、桐島圭吾は組んでいた腕をほどき、やれやれという顔で彼に向き直った。 まったく、面倒なことになった。徹への、あのわかりやすすぎる過剰なアピールが、ついに所長の耳にまで入ってしまったのだ。面白がっていたのは俺だけで、所長は「事務所の風紀を著しく乱す問題だ」と、この俺に直々に「指導」を命じてきた。 「ああ、相葉君。座ってくれ」 圭吾は、内心の面白がりを完璧なポーカーフェイスの下に隠し、エース弁護士としての冷静な仮面を被る。 「単刀直入に言う。これは、所長からの正式な指示だ。神崎徹への、個人的な接触を改めるように、とのことだ」 隼人の表情が、わずかにこわばる。圭吾は構わず、用意していた、いかにも弁護士らしい理屈を並べ立てた。 「いいかい。我々と神崎探偵事務所は、クライアントと業務委託先という、明確なビジネス上の関係にある。事務所のアルバイトである君が、委託先の代表に個人的感情で接触することは、コンプライアンス上、問題があると判断された。君の行動が、事務所間の信頼関係に影響を及ぼす可能性も…」 そこまで言ったところで、圭吾は内心で付け加えた。 (…と、所長はご懸念だ。俺個人としては、あの氷みたいに無愛想な徹が、迷惑そうに眉をひそめるのを見るのは、割と面白いんだがな) 圭吾は、完璧なポーカーフェイスで説明を終えた。 「…以上が、所長からの伝言だ。理解したかね」 隼人は、神妙な顔で黙って聞いていた。そして、深く、深く頷く。 「はい。所長がご懸念されている件、よく理解いたしました。ご指導、ありがとうございます」 そのあまりに素直な返答に、圭吾は「よし、これで俺の役目は終わりだ」と、話を切り上げようとした。 けれど、隼人は続けた。すっと顔を上げ、一点の曇りもない瞳で、圭吾をまっすぐに見て。 「ですが」 「…なんだ?」 隼人は、にこり、と笑った。それは、一点の悪びれもない、太陽みたいな笑顔だった。 「俺の初恋ですから」 「…………」 その言葉が、静かな部屋に、ことり、と落ちた。 圭吾の完璧なポーカーフェイスに、初めて、小さなヒビが入る。眉間のシワが消え、代わりに口元に、どうしようもない笑みが浮かんでしまった。 「…はつこい、か」 圭吾は、椅子の背もたれに深く寄りかかると、天を仰いだ。 そうか、初恋。 あの猪突猛進ぶりも、常識が一切通用しないのも、全てはこの一言で説明がつく。法律も、理論も、この感情の前では、なんて無力なんだろう。 「…なるほどな」 圭吾は、くつくつと喉の奥で笑いを噛み殺した。 「それは、仕方ない」 「!…では」 「いや、ダメだ」 希望の光を見出した隼人を、圭吾はすかさず手で制した。 「理屈はそうだが、俺も所長に『指導しました』と報告しなければならない立場がある。だから、これは命令でも、指導でもない。俺個人からの『提案』だ」 圭吾は、片目をつぶって、悪戯っぽく笑った。 「――職場では、控えるように。いいな?」 その言葉の裏にある「職場以外なら、俺は知らないし、むしろ、もっとやれ」という優しいニュアンスを、隼人は瞬時に読み取った。 彼の顔が、ぱあっと、花が咲くように輝く。 「はい!ご指導、ありがとうございます、桐島先生!」 満面の笑みでミーティングルームを去っていく、嵐のような後輩を見送りながら、圭吾は一人、呟いた。 「…徹のやつ、とんでもないのをひっかけたもんだ」 その声は、どこまでも楽しそうで、そして、親友の未来に、ほんの少しだけ、温かい光が差したことを喜んでいるようにも聞こえた。

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