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潜入 -8-
俺、神崎徹が提出した、あの完璧な調査報告書という名の兵器を手に、桐島圭吾は戦場へと赴いた。
俺はその場にはいない。俺の仕事は、あくまで暗闇から事実を暴き出すこと。その事実を白日の下に晒し、敵を追い詰める「始末」は、光の世界に立つ弁護士の領域だ。
後日、圭吾が語ってくれたその場の様子は、まさに一方的な蹂躙 だったという。
大会議室 の巨大なモニターに、俺が作成した相関図が映し出される。横領の主犯である経理課長・山田の顔写真を中心に、金の流れ、ペーパーカンパニー、そして彼の知らないところで撮られたであろう愛人の顔写真までが、無数の赤い矢印で無慈悲に結ばれていく。山田の顔が、みるみるうちに血の気を失い、土気色に変わっていくのを、圭吾は冷ややかに見ていたという。
「――以上が、我々の調査で判明した、揺るぎなき事実です」
圭吾は、レーザーポインターの赤い光で、相関図の一点を、まるで心臓を突き刺すように指し示した。
「山田課長。あなたのペーパーカンパニーの一つ、『株式会社アトレ』。この会社の登記上の住所ですが…奇遇ですね。あなたの愛人である、銀座のクラブ『アフィーナ』のレイナさんの自宅マンションと、完全に一致します」
反論の余地など、もはや一片も残されていなかった。 山田は、観念したように椅子に崩れ落ち、すべてを認めた。役員たちは、自社の管理体制の甘さに愕然とし、ただ沈黙するしかない。
そこからが、桐島圭吾という弁護士の真骨頂だった。 彼は、怒りに震える役員たちを、静かな、しかし有無を言わせぬ声で制した。
「役員の皆様のお気持ちは、お察しします。もちろん、彼を刑事告訴し、厳しい社会的制裁を与えることは、我々にとって最も簡単な選択です」
「ですが、そうなれば、この不祥事は瞬く間にマスコミに報じられるでしょう。『九州中央建設』の株価と、長年かけて築き上げてこられた社会的信用が、どれほど傷つくか、計り知れません」
圭吾は、そこで一度言葉を切り、絶望に沈む山田に向き直った。
「山田課長。あなたには、横領した全額の返済は当然のこと、この件を**『示談』で済ませるための、相応の『誠意』**を見せていただく必要があります。あなたのご両親やご兄弟に、頭を下げて、援助を頼むことはできますか?」
それは、地獄の宣告だった。 でも、刑事罰という最悪の事態を免れるための、悪魔が差し出した、唯一の蜘蛛の糸でもあった。
◇◆◇◆◇
時刻は、とうに22時を回っていた。 法律事務所のフロアは、常夜灯を除いてほとんどの照明が落とされ、静寂に包まれている。その一角、エース弁護士である桐島圭吾の執務室だけが、煌々と光を放っていた。
重厚なマホガニーのデスクの向かい、客用のソファに、俺は浅く腰掛けていた。
「――というわけで、示談は今日の夕方、正式に成立した」
デスクの向こうで、圭吾がネクタイを緩めながら言った。
その顔には、大きな案件を片付けた安堵と、心地よい疲労が浮かんでいる。 俺が提出した調査報告書を武器に、圭吾は完璧なゲームメイクで、望み得る限り最高の結末を勝ち取ったのだ。
主犯の山田は、親族からかき集めた金で全額を返済し、懲戒解雇。クライアントであるゼネコンは、金を取り戻し、不祥事が表沙汰になる最悪の事態を回避できた。まさに、圭吾の手腕の勝利だった。
「お前の調査のおかげだ、徹。今回も、完璧な仕事だった」
圭吾はデスクの引き出しから一つの封筒を取り出すと、こちらへ滑らせた。
「約束通りの、調査成功報酬だ」
封筒には、俺の探偵事務所の経営を、しばらくは安泰させるに十分な厚みがあった。俺は、礼も言わずにそれを受け取り、ジャケットの内ポケットにしまう。
「…刑事告訴しなかったのは、お前なりの優しさってわけか?」
俺が尋ねると、圭吾は椅子の背もたれに深く体を預け、フッと鼻で笑った。
「まさか。クライアントの利益を最大化しただけだ」
彼は、窓の外に広がる、宝石をちりばめたような東京の夜景に目をやった。
「会社のブランドイメージを守り、かつ、盗られた金はきっちり回収する。刑事裁判になれば、金を取り戻すのに何年かかるかわからん。今回の最適解は、示談だった。ただ、それだけのことさ」
その横顔は、俺がよく知る、怜悧な弁護士のものだった。
俺が一度は捨てた、その世界の住人。
俺が暗闇の中から「事実」という名の弾丸を見つけ出し、圭吾がそれを「法」という銃に込め、最も効果的に的を射抜く。 歪んでいるかもしれない。けれど、これが、俺たち二人にしかできない、唯一無二の連携の形だった。
俺も、圭吾と同じように、窓の外に目をやる。 あのゼネコンのビルも、あの無数の光の一つとなって、この街の夜景を作っている。 俺たちの仕事が、あの光を守ったのか。それとも、ただ、深い闇にそっと蓋をしただけなのか。 その答えを、俺はまだ、知らない。そして、知ろうとも思わない。
「…じゃあな」
俺は短く告げ、ソファから立ち上がった。
「ああ。次の厄介事ができたら、また電話する」
圭吾は、こちらを見ずに、静かに言った。その声には、ビジネスパートナーへの信頼と、古い友人への親しみが、確かに滲んでいた。 俺は、それには答えず、静かに執務室のドアを開け、主のいなくなった深夜のオフィスを、一人、後にした。
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