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正義の在処 -1-
秋も深まり、街路樹が赤や黄色に色づき始めた頃。俺、神崎徹は、いつものように圭吾への報告を終え、事務所を後にしようとしていた。その背中に、珍しく焦りを滲ませた圭吾の声がかかる。
「徹、待て。…次の仕事だ」
「断る。今抱えてる件が終わるまでは…」
「今までの仕事とはワケが違う。俺とお前の、二人でやる仕事だ」
圭吾は、俺の前に一枚の企画書を差し出した。そこに書かれたクライアントの名前に、俺は息を呑んだ。心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。
『株式会社 新星ジャーナル』
忘れるはずもない。俺の人生を、俺の心を、根こそぎ狂わせた、あのメディア会社だ。
「下請けの番組制作会社から、不当な買いたたきで訴えられたそうだ。担当弁護士は俺。そして、調査担当は…」
圭吾が、言いにくそうに口ごもる。俺は、その先を聞かずともわかった。喉が、カラカラに乾いていく。
「…俺を、指名してきた、か」
「ああ。当時の担当だった、俺の親父と君の仕事ぶりを高く評価している、と。君をチームに加えないなら、顧問契約を打ち切るとまで言っている」
俺は、企画書を圭吾に突き返した。その手は、自分でも気づかないうちに、小さく震えていた。
「断る。絶対に、やらん」
「徹!」
俺が背を向けたその時、所長室のドアが勢いよく開いた。血相を変えた所長が、まるで懇願するように圭吾に泣きついている。
「桐島君!頼む!新星ジャーナルさんを失ったら、うちは…!」
「わかっています、所長。少し、時間をください」
圭吾は所長をなだめると、俺の腕を掴んだ。その力強さに、俺はなすすべもなく、空いているミーティングルームに引きずり込まれた。
◇◆◇◆◇
二人きりになった部屋で、圭吾は初めて、いつも纏っているエース弁護士の鎧を脱ぎ捨て、ただの友人としての、弱々しい顔を見せた。
「…頼む、徹。今回だけだ。なぜ、お前がそこまで新星ジャーナルを拒絶するのか、理由を教えてくれ」
俺は、しばらくの間、固く口を閉ざしていた。言えるはずがない。お前の尊敬する、亡き父親の罪を。この世でたった一人、俺が失いたくないと思っている、お前との友情を、俺はまだ、自分の手で壊したくない。
でも、圭吾の、すがるような真摯な瞳から、もう、逃げることはできなかった。
「……5年前」
俺は、絞り出すように語り始めた。
「お前の親父…壮介先生と、新星ジャーナルの盗用訴訟を担当した。俺は、彼らの不正の証拠を見つけたんだ。でも、壮介先生は俺に言った。『これは論点が違う。勝つために、出すな』と」
圭吾の顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。
「俺は…先生を信じて、証拠を隠した。俺たちは勝った。そして、訴えられた相手は、自ら命を絶った」
罪を告白するように、俺は俯いた。これで、終わりだ。軽蔑されても仕方ない。
でも、圭吾から返ってきたのは、予想だにしない言葉だった。
「…………やはり、そうか」
その声は、驚くほど静かで、そして、どこまでも深く悲しかった。
「あの人なら、やりかねないと思っていた」
俺が顔を上げると、圭吾は自嘲するように、痛々しく笑っていた。
「徹。お前は知らなかっただろうけど…俺の親父は、家で母さんに、そして、俺に、手を上げる人だった」
「――な…」
「外では、人望の厚い、偉大な弁護士。でも、家の中では、力で全てを支配する暴君だった。だから、わかるんだ。あの人は、自分の勝利のためなら、平気で人の人生を捻じ曲げる。社会でやっていたことも、家でやっていたことも、本質は、何も変わらない」
初めて聞かされた、親友の地獄。かける言葉なんて、見つかるはずもなかった。
二人の間に、それぞれの地獄を共有した、重苦しい沈黙が流れる。
圭吾が、苦悩に満ちた俺の顔を見つめる。その瞬間、彼の脳裏に、若き日の、まだ光だけを信じていた頃の記憶が、鮮やかに蘇った。
あの日の光
(…あれは、確か、7年前の冬だったか)
深夜3時。若手弁護士たちが詰め込まれた共同オフィスは、静まり返っていた。皆が帰った後も、煌々と明かりが灯るデスクが二つ。俺、神崎徹と、隣のデスクの桐島圭吾。俺たちは、ある大手製造メーカーの特許侵害訴訟で、チームを組んでいた。
「――まだやってるのか、徹。根性だけは認めてやるよ」
背後から、呆れたような、でも、どこか楽しげな声が降ってきた。圭吾が、湯気の立つマグカップを二つ持って、俺のデスクの横に立つ。
「お前こそ、口ばっかり動かしてないで手を動かせ。膨大な資料の中から、相手方の特許逃れの痕跡を見つける。それしか、今回の勝ち筋はない」
「理論で覆せる。俺の頭の中では、すでに完璧な弁論が組み上がってる」
「その理論を裏付ける『事実』がなきゃ、ただの空論だ」
俺たちは、いつもこうだった。
天才肌で、華やかな弁論術を得意とする圭吾。
地味だけど、執念深く事実を積み上げる、現場主義の俺。
やり方は正反対。でも、互いの能力は、誰よりも認め合っていた。そして、競い合っていた。この事務所の次代を担うのは、自分だと信じて。
「…くそ、埒が明かん」
俺は、積み上げられた資料の山にうんざりし、椅子に深くもたれかかった。その時、圭吾が俺のデスクのファイルを、ひょいと抜き取った。
「…徹。お前、この海外の関連会社の動き、見落としてるんじゃないか?」
「ああ? そこは関係ないと…」
「いや、見てみろ。この子会社の設立時期と、相手方が新技術を発表した時期が、奇妙に一致する」
圭吾の指摘に、俺は弾かれたように資料を覗き込む。確かに、彼の言う通りだった。俺が事実の森に深く入り込みすぎている時、圭吾は常に、空から森全体を俯瞰するような視点で、俺が見落とした道を指し示してくれた。
「…なるほどな」
「だろ? やはり、俺の頭脳とお前の執念が組み合わされば、親父…いや、壮介先生のチームだって超えられる」
圭吾は、不敵に笑った。その笑顔には、一点の曇りもなかった。
俺たちは、最強のバディになれる。本気で、そう信じていた。
あの事件が、俺たちの未来を、永遠に奪ってしまうまでは。
圭吾は、まっすぐに俺の目を見た。その瞳の奥には、父への憎しみと、そして、どうしようもない愛情が渦巻いていた。
「それでも、俺は親父の罪に報いるつもりで、弁護士になった。あんなやり方じゃない、本当の意味で人を救うために。新星ジャーナルは、親父が残した、巨大な『負の遺産』だ。それを清算できるのは、真実を知るお前と、息子の俺しかいないんだ」
彼は、俺の前に、深々と頭を下げた。
「だから、頼む。もう一度、俺に、お前の力を貸してくれ」
それは、もはや弁護士としての依頼ではなかった。
同じ男に人生を狂わされた二人が、過去の呪縛から逃れるための、魂をかけた共闘の誘いだった。
俺は、もう「ノー」とは、言えなかった。
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