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正義の在処 -2-

あの日、圭吾との魂をかけた約束を交わして以来、俺、神崎徹の日常は一変した。 探偵事務所は一時休業。俺は再び、このガラス張りのオフィスにデスクを構え、来る日も来る日も、『新星ジャーナル』の膨大な資料と向き合っていた。 そして、それはつまり、相葉隼人との距離が、物理的にゼロになったことを意味した。 「神崎さん! 集中してると糖分が足りなくなるって聞きました! これ、差し入れです!」 「神崎さん! 肩、凝ってませんか?俺、マッサージ得意なんですよ!」 「神崎さん! この判例の要約、俺がやります!」 …うるさい。とにかく、うるさい。 まるで、俺という太陽だけを追いかける、人間の形をした向日葵だ。 そのあまりにまっすぐな好意は、正直、どう扱っていいのかわからない。 でも、その熱意が仕事に向いている限り、攻撃的なことを言って拒むのも。なにせ同じ職場にいるのだから、角を立てない方法をとりたい。俺は徹底した無視を貫き、彼が持ってくる資料の要約に、赤ペンでびっしりと修正を入れて返す、という奇妙なコミュニケーションだけが、俺たちの間に存在していた。 その危うい均衡が崩れたのは、調査が本格化し、チーム全体でのミーティングが増え始めた頃だった。 「――以上を踏まえ、まずは新星ジャーナル側の制作担当者へのヒアリングから始めたいと思います」 圭吾がホワイトボードに書かれた文字を指し示す。その場の全員が頷く中、それまで黙って議事録を取っていた隼人が、勢いよく手を挙げた。 「はい!桐島先生!」 圭吾が、少し嫌な予感を滲ませた顔で彼を見る。 「…なんだね、相葉君」 「そのヒアリング、俺も同行させてください!神崎さんのサポートをします!どんなことでもやりますから!」 その瞳は、一点の曇りもなく、ただ純粋な熱意に燃えていた。 力になりたい。 愛する人の、役に立ちたい。 その痛いほどの想いが、まっすぐに伝わってくる。 でも、圭吾は静かに、そしてきっぱりと首を横に振った。 「…相葉君。君のその熱意は買う。でも、君をこの案件に関わらせることは、絶対にできない」 「え…? なんで、ですか…?」 隼人の顔から、太陽みたいな笑顔がすっと消える。圭吾は、弁護士としての厳しい顔で、彼に現実を告げた。 「クライアントは、わかっているよね」 「…新星ジャーナルですけど…」 「その代表取締役は?」 「……俺の、養父です」 その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、いくつかのピースが繋がった。 学生の身でありながら、豊洲のタワーマンションに一人で住んでいられる理由(ワケ)とか。 「そうだ。君がこのチームにいれば、それは『利益相反』行為にあたる。クライアントとの間に私的な関係がある人間を、案件の担当に加えることは、弁護士倫理の根幹に反するんだ」 圭吾が言っていることは正しい。 法律家として、決して越えてはならない一線だった。隼人は、唇を噛みしめていた。 「わかっています。でも…!俺は、絶対にそんなことはしません…!それに、父さんの会社のやり方なら、俺の方が詳しいかもしれない…!」 「君を信用しないわけじゃないが、これは法律と規則で定められたものだ。アルバイトやパラリーガルだとしても、我々には監督責任がある。法で勝たなければならない以上、守らないわけにはいかない。理解してくれ」 圭吾は、諭すように、でも、決して譲らない口調で言った。 「明日から、君はこの案件に関する全てのミーティングから外れてもらう。関連資料へのアクセスも禁止する。いいね」 それは、非情な宣告だった。 隼人は、何も言い返せず、ただ俯いた。その肩が、悔しさに小さく震えているのが見えた。 彼の顔から、血の気が引いていく。 「…そう、ですよね。すみません、出過ぎたことを…」 俺は、そのやり取りを、ただ黙って見ていた。 (…初めて見る顔だった) いつもの、自信に満ちた太陽のような笑顔じゃない。 ただ純粋に、力になりたいと願い、そして、それが決して叶わないのだと知った時の、子供みたいな、絶望の顔。 うるさいのがいなくなって、せいせいする。 そう思うはずだったのに。 胸の奥が、ほんの少しだけ、ちくりと痛んだ。まるで、遠い昔の自分を見ているような気がして。

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