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正義の在処 -3-

その日の昼食は、事務所のビルの一階にある、少し格式の高い和食屋の個室だった。重い案件で行き詰まった時、気分転換に圭吾と二人で利用する場所だ。 でも、今日ばかりは、目の前に並べられた美しい料理も、ただの色のついた置物に見えた。俺たちは、重い溜息をつきながら、調査資料を広げていた。 「…やはり、5年前の壮介先生のやり方が、今回の件でも踏襲されている。でも、決定的な証拠が…」 圭吾が、苦悩の声を漏らす。俺も、同じ暗闇の中でもがいていた。どうすればいい。出口のない迷路に、二人で迷い込んでしまったようだった。 その、息が詰まるような沈黙を、個室のふすまが、勢いよくスパッと開く音がかき消した。 「お疲れ様ですッ!」 そこに立っていたのは、お盆に鮮やかな緑のデザートを二つ乗せた、相葉隼人だった。 「…相葉君。君には、この案件には関わるなと、言ったはずだが」 圭吾が咎めるように言う。でも、隼人は全く気にする素振りも見せない。ずかずかと部屋に入ってくると、俺たちの間に、ひんやりと冷えた抹茶アイスを置いた。 「どうしたんですか、そんな難しい顔してると、ごはんが美味しくなくなりますよ」 俺は、忌々しげに隼人を睨みつけた。 「…仕事の話だ。君には関係ない」 「関係なくないですよ。だって、神崎さんの眉間、すっごいシワが寄ってる。そんな顔、俺は見たくないんです」 隼人は、そう言うと、ふふん、と得意げに胸を張った。 「『苦境(ピンチ)こそ笑え』って言うでしょ。少年漫画の受け売りですけど、あれ、ほんとですから。騙されたと思って、一回笑ってみてください!」 「隼人」 今度は、俺が彼の言葉を遮った。その瞳を、まっすぐに見つめて。 「これは、お前が首を突っ込んでいい遊びじゃない」 「…っ!」 「遊び」という言葉に、隼人の顔から血の気が引いたのがわかった。 「わかったら、ここから出て行け。俺たちの邪魔をするな」 俺には、この青年に俺がかつて絶望した、危険で汚い世界を見せたくないという思いがあった。できることなら引きずり込みたくない。 優しさというよりも、俺が嫌だったからだ。 隼人は、初めて俺が正面から拒んだことにショックを受けたようだった。何も言えず、ただ唇を噛みしめてる。やがて隼人は、テーブルに置いた抹茶アイスには目もくれず、深々と一度だけ頭を下げると、静かに個室を出て行った。 (そうだ。それでいい) 残された部屋には、さっきよりも、さらに重く、冷たい沈黙だけが、横たわっていた。 ◇◆◇◆◇ 午後になって、神崎が、山のような資料を抱えて、訴訟チーム専用の「作戦司令室(ウォールーム)」になっている会議室へ向かうのを見かけた。 「手伝います! 前も見えないでしょう」 隼人がついていくと、神崎が、腕をプルプルさせながらカードキーをドアのセンサーにかざす。「ピッ」という軽い音と共に、ロックが解除される。 「…じゃあな」 神崎が中に入ろうとするから、隼人も慌てて後を追う。 「俺も手伝…」 隼人が自分の社員証をかざした瞬間、センサーは「ピーッ!」という甲高いエラー音と共に、無機質な赤いランプを点滅させた。 訴訟チームの業務エリアへのアクセスが、拒否されている。 扉の向こう側から、神崎が、何も言わずに、ただ、少しだけ困ったような、痛ましげな目で、こちらを見ている。 そして、重いセキュリティドアが、ゆっくりと、しかし確実に閉まっていく。 ガチャン、という冷たいロック音が、二人の世界を完全に分断した。 ◇◆◇◆◇ その夜、隼人は豊洲のタワーマンションの一室でもんもんと考えていた。 窓の外には、宝石のような夜景が広がっている。 けれど、その光も、今の隼人の目には届いていなかった。 彼は、ベッドに突っ伏したまま、今日の昼間の出来事を、何度も、何度も頭の中で繰り返していた。 桐島先生の、冷たい声。 そして、神崎さんの、「遊びじゃない」という、突き放すような言葉。 (わかってるよ、そんなこと…) プロの領域だということも。自分がまだ、学生でしかないということも。 全部、わかってる。でも、あんたが、あの神崎さんが、一人で苦しんで、絶望に飲み込まれそうになっているのに、何も知らされずに、ただ黙って待っているなんて、俺にはできない。 隼人は、勢いよく体を起こした。その瞳には、悔し涙の代わりに、静かで、そして激しい決意の炎が燃えていた。 (あんたたちが俺を締め出すっていうなら) 彼は、自分のノートパソコンを開いた。 (俺が、俺の方法で、真実を見つけ出す) カタカタ、と軽いキーボードの音が、静かな部屋に響き始める。 それは、弁護士を目指す優等生の彼が、愛する人を守るため、初めて禁じられた一線を超えることを決意した、孤独な戦いの始まりの合図だった。

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