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正義の在処 -4-

相葉隼人(あいば はやと)は、自分が周囲からどう見られているかについて、驚くほど無頓着だった。 彼が通う九州大学の法学部キャンパス。昼休みの喧騒の中、彼はいつも通り、数人の男女グループの中心で笑っていた。彼自身は、ただ学年と所属ゼミが同じという理由で、そこそこうまくやっている「ただの学友」だと思っている。家柄や育ちが似ている彼らとの、当たり障りのない会話は、特に苦ではなかったから。 「――というわけで、隼人君。もしよかったら、今度、二人で…」 目の前で、頬を染めて俯く文学部の女生徒。彼女がこの告白のために、どれほどの勇気を振り絞ったか、隼人には痛いほどわかった。だから、彼は決してぞんざいには扱わない。どんな時も、まっすぐ向き合う。 「話してくれて、ありがとう。告白って、すごく勇気がいることでしょう。本当に、ありがとう」 彼は、まず心からの感謝を口にする。そして、少しだけ申し訳なさそうに、でも、一点の曇りもない、爽やかな笑顔を向けた。 「でも、ごめんなさい。あなたと付き合うことはできません。俺、好きな人がいるから」 その、あまりに清々しい笑顔と断り文句に、女生徒は泣くこともできず、ただ「ありがとう」とだけ言って走り去っていく。 周りでは「あーあ、また振られた」「相葉を落とせる奴いんのかよ」と、男子学生たちの羨望と嫉妬が入り混じった囁きが聞こえる。でも、そんな声は、隼人の耳には届いていない。彼の思考は、もうとっくに別の場所にあったから。 (神崎さん、今頃、ちゃんとお昼、食べてるだろうか) 彼は、自分が目立つ存在だとは、本気で思っていなかった。 ただ普通に過ごしているだけ。 その、誰もが見惚れるような容姿と、誰に対しても変わらない優しい態度、そして時折見せる、常人には理解しがたい一途さが、彼をどこか「浮世離れした存在」として際立たせていることに、彼だけが気づいていない。 その独特の価値観の根源は、彼の生い立ちにあった。 幼い頃に両親を事故で亡くし、父の親友であった現在の養父、城戸に引き取られた。独身だった城戸は、隼人をどう育てていいかわからなかったのだろう。 彼は、隼人を子供としてではなく、常に「小さな大人」として扱った。 幼い隼人は、城戸に連れられていく会食の場で、完璧なテーブルマナーを身につけた。きらびやかな社交の場で、大人たちの会話に愛想よく頷き、「期待されるふるまい」をこなした。 城戸は、そんな隼人を気遣い、深い愛情を注いでくれた。隼人も、そんな城戸を心から尊敬している。 でも、一つだけ、どうしても好きになれない部分があった。城戸の、徹底した効率主義だ。 ビジネスのためなら、時に敵を作り、誰かを切り捨てることも厭わない。それは、城戸なりの正義で、会社を守るための最善手なのだと、頭では理解できた。 それでも、隼人の心はそれを是としなかった。 隼人と養父の関係は、戸籍に記された法的な親子ではなかった。 隼人の両親が亡くなった後、彼らの無二の親友であった城戸が、家庭裁判所によって隼人の「未成年後見人」に選任されたのだ。それは、親権者のいない未成年者の心と財産を、法的に守るための代理人。 城戸は、隼人が成人するまで、その役目を、誠実に、そして愛情をもって果たしてくれた。 そして、隼人が18歳になった日。 法的な後見関係が解消されたその日、城戸は、隼人にごまかし一つなく、彼が相続した資産のすべてを引き渡した。 「これからも、この家に住み続けて構わんよ」という城戸の言葉に、隼人は静かに首を振った。一人の大人として、自分の足で立ちたい。その一心で、彼は一人暮らしの道を選んだ。 相続した資産の一部を使い、彼は豊洲のタワーマンションの一室を、ローンも組まずに一括で購入した。 だから、隼人は養父に対して、一切の経済的な依存をしていない。 二人を繋ぐものは、金銭や法的な義務じゃない。共に過ごした長い時間と、感謝、尊敬、そして、簡単には割り切れない複雑な感情の積み重ねなのだ。 その、親子でありながら、どこか一歩引いた特殊な関係性と、経済的な自立が、隼人に養父の生き方を客観的に見つめさせたのかもしれない。 養父の効率主義が生む圧倒的な成果を尊敬しつつも、そのために生まれる軋轢や、切り捨てられる者の痛みを、彼は常に間近で感じてきた。だからこそ、彼は強く思うのだ。 遠回りに見えても、全員が納得できる道を探す方が、最終的には、より大きな利益と、より良い未来に繋がるはずだ、と。 その青臭いと笑われるかもしれない理想こそが、相葉隼人という男の揺るぎない信念だった。 チームから外されたあの日から、相葉隼人の戦いは、たった一人で始まった。 夜。九州大学の中央図書館。 閉館を告げるアナウンスが流れても、隼人は法学部の資料が並ぶ書架の奥で、一人、背を丸めていた。目の前には、積み上げられた専門書の山。 『企業再生の判例』 『CSR—企業の社会的責任と未来』 『紛争解決における創造的アプローチ』…。 (…ダメだ。これじゃない) 隼人は、苛立ちに唇を噛んだ。 彼が探しているのは、裁判で「勝つ」ための方法ではなかった。そんなものは、神崎さんや桐島先生の方が、よほど詳しい。 彼が求めているのは、法律の条文の、その先にある答えだ。 父も、原告側 ── つまり被害者も、そして何より、あの人の魂も、すべてを救えるような、そんな道が、あるはずだ。 彼は、パソコンを開き、検索ワードを変えた。 『敵対的買収からの再生事例』 『不祥事を起こした企業の、社会貢献活動』 『歴史的紛争の、和解プロセス』 法律だけでなく、経営学、歴史学、社会学…あらゆる分野から、彼は貪欲に「再生」のヒントを探し続けた。 その時、ある海外企業のケーススタディが、彼の目に留まった。 環境汚染で地域社会の信頼を失った企業が、賠償金だけでなく、地域の環境を再生させるための財団を設立し、住民を雇用することで、結果的に以前よりも大きな信頼と利益を得た、という事例だった。 ―― 財団。 その単語が、隼人の頭の中で、まるで雷のように閃いた。 そうだ。罰じゃない。償いでもない。 『創造』だ。 失われたもの以上の価値を、未来に創り出す。それしか、道はない。 そこからは、パズルのピースが組み合わさるように、思考が繋がっていった。 父さんが得意なのは、金の力で人を動かすことだ。ならば、その力を、人を育てるために使えばいい。 被害者の未来を創り、過去の名誉を回復し、そして父さんの罪を、未来への貢献へと昇華させる――。 でも、それだけでは神崎さんのあの苦しそうな眉間のしわはきっと消えない。 なにか、なにかもう少しで掴める気がする。 「…あった」 隼人は、誰にも聞こえない声で呟いた。 閉館し、誰もいなくなった図書館の静寂の中、ノートに走り書きされた計画案だけが、確かな光を放っていた。 (見ててください、神崎さん) あんたを縛り付ける、過去の亡霊も、どうしようもない現実も。 俺が、全部まとめて、ひっくり返してやる。 あんたを、今度こそ俺が守る。 ノートを握りしめる隼人の瞳には、もう迷いはなかった。 それは、一人の青年が、愛する人を救うために、ヒーローになることを決意した瞬間だった。

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