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正義の在処 -9-
桐島は、高槻や隼人、そして数人の若手パラリーガルを、一番大きな会議室に集めた。その場の中心には、外部協力者であるはずの俺、神崎徹も、なぜか当然のように座っている。
「―――急な召集になったが、今日は君たちに、緊急の『勉強会』に参加してもらう」
桐島は、ホワイトボードの前に立ち、エース弁護士としての威厳に満ちた声で言った。
「議題は、企業コンプライアンスと、未来的和解の可能性について。具体的に、架空の事例を基にした、模擬裁判形式で議論したい」
彼は、マーカーを手に取ると、ホワイトボードに、今回の「設定」を書き出していく。
「下請けの番組制作会社**『T社』が、大手メディア企業『A社』**を、制作費の不当な減額を理由に、多額の損害賠償請求訴訟を起こされている。A社は、T社が納品した成果物の品質が契約内容に満たないと主張。両者の言い分は、真っ向から対立している…」
桐島が淡々と説明する間、会議室には、奇妙な緊張感が漂っていた。 集められた若手たちは、誰一人として口には出さない。でも、その視線の動きや、ごくりと喉を鳴らす音で、お互いに理解し合っているのがわかった。
『A社』が、今まさに事務所の存続を揺るがしている、巨大クライアント『新星ジャーナル』であること。
そして、この勉強会が、単なる研修などではなく、その絶望的な案件を打破するための、藁にもすがるような、最後の作戦会議であることを。
この、あまりに回りくどい茶番劇が必要な理由は、ただ一つ。 利益相反を理由に、本来であればこの場にいるはずのない、相葉隼人というイレギュラーな存在を、この議論に参加させるためだ。
俺は、そんな事務所内の暗黙の了解を、冷めた頭で観察していた。 桐島が、一体どんな狙いでこの舞台を用意したのか。そして、この状況を知ってか知らずか、真剣な顔でホワイトボードを見つめる隼人が、一体何を語るのか。 静かな好奇心が、胸の奥で、小さく疼いた。
桐島が、会議室に集まった若手たちを見渡す。その場にいる全員が、この「勉強会」が持つ、本当の意味を理解し、緊張した面持ちで、彼の次の言葉を待っていた。
桐島は、満足げに頷くと、芝居がかった口調で、この模擬裁判のキャストを発表し始めた。
「さて、まずは被告A社側の代理人。これは、高槻君、君にやってもらおう。A社の主張に沿って、我々を納得させられるだけの、最も常識的で、最も堅実な弁護を展開してくれたまえ」
「はい!」
高槻は、背筋を伸ばし、固い声で返事をした。新人である彼にとって、これはまたとない成長の機会だ。その顔には、真剣な使命感が浮かんでいる。
「そして、原告T社側だが…」
桐島は、そこで一度、言葉を切ると、じっと相葉隼人の目を見た。
「相葉君。君には、ただ相手を打ち負かす弁論を求めるつもりはない。君には、**『原告側の代理人として、誰もが予想しない、全く新しい和解案を提示する』**という、特別な課題を与える」
その言葉に、隼人の瞳に、挑戦的な光が宿った。 桐島は、自分に反発するでもなく、かといって、ただ落ち込むでもなく、独力で何かを掴もうともがいていた、この規格外の才能に賭けてみることにしたのだ。
そして、桐島は、最後に俺、神崎徹と自分を指し示した。
「そして、私と…そこにいる神崎君は、審判役だ」
「私は、君たちの弁論を**『法的な観点』から評価する。そして、外部協力者である彼は、『事実調査の観点』**から、その主張の根拠が、どれだけ現実に即しているかを評価する。異論はないな?」
異論など、あるはずもなかった。
桐島が作り上げた、完璧な舞台。
絶望的な状況を打破するため、一人の学生の、未知数の才能にすべてを託すという、あまりに大胆で、奇跡を待つような作戦。
俺は、静かに頷いた。
隼人が、どんな言葉を紡ぐのか。
高槻が、どんな弁護を見せるのか。
そして、この茶番劇にも似た勉強会が、本当に俺たちの希望となりうるのか。
俺は、腕を組み、これから始まるであろう、奇妙な裁判の行く末を、ただ静かに、見守ることにした。
◇◆◇◆◇
「――では、これより勉強会を始める。まずは、被告A社側代理人、高槻君から、弁論を」
桐島の、静かだが、よく通る声が響き渡る。 会議室の空気が、ピンと張り詰めた。俺、神崎徹は、審判役として、腕を組んで、その光景をただ黙って見つめていた。
高槻は、一度、深く息を吸うと、立ち上がった。 数ヶ月前、隼人の前でおどおどしていた、あの頃の彼とは、もう別人だった。その弁論は、新人とは思えないほど、理路整然として、そして、見事なものだった。
「…以上の事実に基づき、被告A社は、契約条項に則り、納品された成果物の品質を正当に評価し、代金の減額を行ったものであります。これは、契約自由の原則に則った、何ら違法性のない権利行使であり、原告T社の主張する『不当な買いたたき』には、あたらないと結論せざるを得ません」
彼は、膨大な資料の中から、A社(新星ジャーナル)に有利な部分だけを巧みに抜き出し、完璧な理論武装で自陣を固めていく。その手腕は、弁護士として、間違いなく優秀だった。
でも、俺にはわかった。 彼の弁論が、見事であればあるほど、その先にあるのが、深い、深い「絶望」であるということが。 そうだ。それが、俺と圭吾が、この数週間、もがき苦しんできた袋小路そのものだった。 正論を振りかざし、法廷で勝つ。でも、その先には、5年前と同じ、誰の心も救われない、空虚な結末が待っているだけだ。高槻は、その絶望への道を、あまりにも正確に、トレースして見せていた。
彼の弁論が終わると、部屋には、重い沈黙が落ちた。 桐島が、いくつか、鋭い質問を投げかける。高槻は、それに必死に食らいつく。 だが、議論は平行線を辿るだけだった。
「…そこまでだ」
桐島は、議論を打ち切ると、静かに、もう一人の主役に視線を向けた。
「――では、次に、原告T社側代理人、相葉君。君の『和解案』を聞かせてもらおうか」
指名された隼人は、ゆっくりと立ち上がった。 その瞬間、彼が纏う空気が、変わった。
それまでの、人懐っこい学生アルバ-イトの顔ではない。 これから、誰も見たことのない未来を語る、革命家の顔だった。
彼は、手元の資料に一度も目を落とさず、まっすぐに、俺たち審判役と、そして、仮想の敵である高槻を見据えた。
「――弁論を始める前に、まず、皆さんに一つ、問いかけたいと思います」
その声は、若々しく、しかし、不思議なほどの説得力に満ちていた。
「そもそも、我々が目指すべき『解決』とは、一体、何なのでしょうか」
法廷で、白黒をつけることか。賠償金を取ることか。相手を打ち負かすことか。 違う。 彼の瞳は、そう、雄弁に語っていた。
「私が、これからご提案するのは、単なる『和解案』ではありません。被告A社が、過去に犯したかもしれない過ちをも清算し、そして、原告T社の失われた未来をも取り戻すための…」
隼人は、そこで、一度だけ、俺の目を、まっすぐに見た。
「『未来を創造する』ための、全く新しい契約です」
模擬裁判のなかで隼人は、情熱的に、そして堂々と、画期的な「仲介案」の骨子を語り始める。被害者の未来を創造し、加害者の罪を貢献へと昇華させる、そのあまりにも眩しいビジョン。
…その、あまりにも眩しいビジョン。聞き終えた神崎と、新人弁護士の高槻は、ただ圧倒され、言葉を失っていた。
しかし、審判役の桐島だけが、冷静な目で、静かに口を開いた。
「…アイデアの核は、面白い。面白いが、これでは仮想のクライアントである『A社』のM社長は、絶対に首を縦に振らん」
「え…」
桐島は、プロの弁護士として、隼人の案が持つ、いくつもの法的な「穴」を、的確に、そして淡々と指摘していく。
税務上の問題、株主代表訴訟のリスク…。次々と指摘される、学生では考慮しきれない現実の壁に、隼人の顔から自信の色が消え、悔しさに唇を噛みしめていた。
やがて、桐島は「時間だ」と、冷徹に議論を打ち切った。
「今日の勉強会は、ここまでとする。各自、今日の議論を踏まえて、レポートを提出するように。…解散」
高槻たちが、そそくさと部屋を出ていく。一人、呆然と立ち尽くす隼人の横を通り過ぎる時、それまで黙っていた神崎が、静かに、彼にしか聞こえない声で呟いた。
「…アイデア自体は、悪くなかった」
それだけを残して、神崎も部屋を出て行った。 隼人は、その一言の意味を、ただ呆然と、反芻するしかなかった。
◇◆◇◆◇
その夜。
訴訟チーム専用の「作戦司令室 」と化した会議室で、神崎と桐島は、二人きりで向き合っていた。
「…今日の、相葉君のプレゼンだが」
桐島が、疲れたように切り出した。
「穴だらけだったな。理想論ばかりで、実務が全く見えていない」
「ああ。青臭い、ただの夢物語だ」
俺は、同意しながら、ホワイトボードに向かった。
「だがな、徹」と、桐島が続ける。「あの、誰も傷つけない『夢』みたいな解決策は、俺たちの頭からは、絶対に出てこない発想だ」
「…そうだな」
俺は、隼人が語った荒削りなビジョンを、ホワイトボードに書き出していく。
「でも、あの穴は、埋められる」
俺は、今回の調査で掴んだ、まだ誰にも見せていない情報を、次々と書き殴っていった。M社長(城戸)の個人的な資産背景、そして、彼が最も恐れているであろう、追加のスキャンダルの火種…。
「俺が見つけ出したこの『事実 』を交渉のカードとして使えば、お前が指摘した株主への説明責任も、税務上の問題も、城戸社長個人にリスクを負わせる形でクリアできる。…そうだろ、桐島」
神崎の言葉に、桐島は、まるで待ち構えていたかのように、にやりと笑った。
「ああ。その通りだ。…お前の『事実 』と、あいつの『理想 』。その二つが揃えば、俺が、それを無敵の『論理 』にしてみせる」
出口のない迷路に、ようやく、一条の光が差し込んだ瞬間だった。
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