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甘えん坊の泣き虫兵士④

 日が傾く前に水を汲みに行くことにした。当然のようにマリウスはついてくる。目が見えないのにエミーユのあとをちゃんとついてくる。そんなマリウスのあとを馬がついてくる。 「ここには井戸がないんだね」 「私しか住んでいないからね。草原に小屋があっただけでもマシでした」 「エミーユはいつからここに住んでるの?」 「いつからでしょう。忘れました」  エミーユは自分の過去を話したくはなかったために、とぼけてみせた。 「エミーユには家族はいないの?」 「いない。気づいたときからここに一人だ」  エミーユは、それ以上訊かれないように、訊き返すことにした。 「あなたには家族がいるんでしょう? ご両親に大切に育てられたはずだ」  マリウスは憮然と言った。 「俺にも両親はいない」  甘えて育ったようにしか見えないマリウスは意外にも複雑な生育をしているらしかった。 「でも乳母はいたんでしょう。甘やかされて育ったはずだ」 「ばあやはいたよ。でも、甘やかされてはないよ!」  マリウスは頬を膨らませる。それだけで、乳母に愛情たっぷりに育てられたことは一目瞭然だ。 「いいや、甘やかされてるはずです」 「甘やかされてなんかいないもん」 「ブラックベリー、マリウスは甘やかされて育ってるよね?」 「ちがうもん! 俺は甘やかされてなんかないよね、ブラックベリー?」  話しているうちに小川の源泉についた。 「山が近いの?」  マリウスは木々の鳴らす音を聞き取ったらしく、そう言ってきた。 「ここは小川の源泉です。山のふもとの岩場に湧いた泉です。今は黄色い花が辺り一面に咲いて、とてもきれいです」 「俺も見たい」 「目が治ったらね」 「いつになったら治るのかなあ」 「あと半月はかかるかな」 「そんなにかかるのかあ。早くエミーユの顔が見たいな」  マリウスは失明するとのエミーユの説明を一切疑っていない。  自分に懐いてくるマリウスに、エミーユの胸が傷んだ。  マリウスはエミーユの顔を見ないままになるだろう。町に置き去りにするというエミーユの予定は変わらない。 「私の顔なんか見たってつまらないよ」 「つまらなくなんかない。お、おれ、エミーユのこと、なんでも知りたいんだ」 「私のことなんか知っても、しようがない」 「しようがなくなんかない!」 「しようがないよ」 (だって、あなたはもうじき、私のもとを去るのだから) 「エミーユはずっと一人なの?」 「うん、ずっと一人です」 「一人で、さ、寂しくはなかった?」  マリウスは自分のほうが寂しがっているような声を出した。 「私はあなたとは違う。泣き虫でもないし怖がりでもない。だから寂しくはない」  しかし、マリウスが来る前は寂しかったのだ。だから、バイオリンを良く弾いた。けれども、マリウスが来てからはすっかりバイオリンから遠ざかっている。 (ふふ、マリウスがうるさいんだもの)  隣で唇を突き出していたマリウスがすねたように言った。 「俺、泣き虫じゃないもん! 泣いたのはエミーユの前が初めてだもん。そりゃ、幼い頃はよく泣いてたらしいけど」 「今でもあなたは幼い」 「お、おれ、もっとしっかりする。そして、もっとエミーユの役に立つ。明日からも毎日、水汲みでも何でも手伝う!」  マリウスはまるでずっとここに住むつもりでいるような口ぶりだった。  エミーユの胸がまた痛む。すっかり懐かれてしまった。  それにエミーユにとってもマリウスが可愛くてしようがなくなっている。 (でも、このまま小屋に住まわせるわけにはいかない。だって……、あなたは親の仇で、そして、あなたは獣人で、私は妖人なのだから)  妖人のエミーユと獣人のマリウスが一緒に過ごしていればどうなるかはわかっている。 (発情がまだ先でよかった)  発情してしまえば、エミーユはマリウスを妖かしてしまう。  エミーユは甘えん坊のマリウスに庇護欲は抱いても、情欲はない。 (けれども、私にはそういう性質があるはずだ)  発情したとき、エミーユは人恋しくてしようがなくなった。  そして、自分の中から凶暴な衝動がわき起こってくる。  エミーユはそれをよくわかっている。  月に一度の発情が来てしまえばマリウスを求め、マリウスを惑わせてしまうだろう。そしてそうなれば子ができる。  子は自分のように妖人かもしれない。そうであれば、グレンのような国がある限り、悲惨な目に遭ってしまうに違いなかった。  わざわざそんな可哀そうな子を作りたくはない。  エミーユはこの先もずっと一人で生きていくつもりだ。だからこうして草原に一人住んでいる。 (早くマリウスを追い出さなければ)  その夜、マリウスの傷口を確かめると、かなり回復していた。抜糸することにした。 「だいぶ治りましたね。明日はブラックベリーに乗ってみますか」 「ほんと? 乗っていいの?」 「ええ」 「目が見えなくても乗れますか?」 「うん、俺、できる!」 「では、明日のために、もう寝ましょうね」  ベッドに横になれば、マリウスは安心しきった顔を向けてくる。  エミーユが頭や肩を撫でてやると、マリウスはすぐに寝息を立て始めた。その安らかな寝息に、エミーユの目に涙が浮かんできた。 (マリウス……。明日、お前を町に捨ててくる…………)  もうマリウスの怪我は大丈夫だろう。これ以上、小屋にいさせ続けるわけにはいかない。 (マリウス、可愛いマリウス……)  そのとき、エミーユはマリウスにすでに深い情が湧いていた。  あられもなく泣いたマリウス。甘えん坊のマリウス。  マリウスはエミーユの人生にとってはひととき温かで優しい時間を与えてくれた存在だった。  マリウスの寝顔を見るエミーユの目から涙がこぼれた。 (可愛い、可愛いマリウス……。でも、あなたとは今日限りだ)  エミーユはマリウスの頭に、口づけを落とした。

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