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ただ一人の人①
皇帝に女王らが港湾視察をしている頃、エミーユは、楽団室にいた。
楽団室の真ん中に居座って話の中心にいるのはリージュ公だ。
床に座り込んだリージュ公を、同じく床に座り込んだ楽団員が、取り囲んでいる。
楽団員にとって、グレン帝国の軍務大臣など雲の上の人だ。そんな人と話せるなんてこんな光栄なことはない。リージュ公の側近のグレン兵士らも加わり、ちょっとした交流会のようになっている。
リージュ公は如才ない人だった。皇帝と自分たちがどうやってクーデターを起こしたのか、などをいかにも情緒的に語り、楽団員の喜怒哀楽を誘う。楽団員はすっかり心を開いてしまった。
すっかり打ち解けた楽団員は自らの身の上話を始めたために、エミーユも自分のことを話さなければならなくなってしまった。
(私のことなど完全に忘れているようだから、隠すこともないか)
息子と母親と暮らしていることを話せば、古なじみの楽団員が口を挟んだ。
「楽長は、グレンの兵士を助けて、その兵士との間に息子さんができたんですよね」
エミーユに子がいると知ってリージュ公は意外そうな目を向けてきたが、リージュ公の思い当たる節もなさそうな顔つきにエミーユは失望と同時に安堵を感じた。
(やはり草原でのことをすっかり忘れてしまったんだ……。けれども、これでいいんだ……)
エミーユは目を伏せて言った。
「グレン兵士を助けたことに後悔はありませんが、子に父親がいないことだけは残念です」
楽団員がしみじみと言う。
「グレン兵士もまた犠牲者です。上に立つ人が悪かっただけで」
「新政権になってグレンは大転換しました」
「人民のことを思う人がトップに立てば、国民はこれほど幸せなことはない。もちろん周辺国にとっても幸運です」
リージュ公はそこで口を開いた。
「今の皇帝は別に人民を思っているわけじゃないぞ。あいつはただ一人の人を思っているだけだからな。ただ一人のために前皇帝を殺し、戦争を終わらせた」
「ただ一人の人?」
「あいつには想い人がいるんだ」
「へえ、皇帝って意外に情熱的なんですね」
「皇帝だけじゃねえぞ、俺たちはみんなそうだ。人民のためなんかじゃない」
「では、リージュ公も愛する人のために?」
リージュ公は苦々しく口を曲げた。
「俺の場合は恨みだ。俺の母は妖人だった。俺の父である先代リージュ公の、何人もいる愛人のうちの一人だった。父は、気前よく母を戦場に差し出し、母は死んだ。それどころか、父が妖人を傷のゴミ入れにすることを提案した人物だった。前皇帝は、それをすんなり受け入れて妖人狩りを始めたんだ。それを知って、ためらいはなかったね。俺たちは容赦なく父たちを殺した。前体制側の人間は親だろうと師だろうとことごとく葬り去った」
そう言うリージュ公には軽薄さはなかった。苦しみと悲しみが漂っていた。
「グレン軍の苦しい自浄のおかげで、大陸の平和があるんですね」
「リージュ公らのおかげで、俺たち、今こんなに穏やかに過ごせてるんだ」
そう言いだした皆に、リージュ公は慌てて言った。
「持ち上げるのはやめてくれ。俺たちは好き勝手やっただけだ。気に入らねえ親父たちをぶっ殺しただけだ。クーデターなんか屁でもなかったさ。そのあとの平定はきつかったけどな。俺も禿げたし、皇帝なんか白髪になっちまった。俺の禿げは治ったけど、あいつは白髪のままだ」
「皇帝とリージュ公は従兄弟なんですよね? よく似てらっしゃいます」
「それを言ってくれるな。あいつが赤毛じゃなくなってやっと間違われなくなったんだからよ。12歳までおねしょしてたやつと一緒にされちゃ困るっつの」
「え、12歳まで?!」
他国の楽団員にまで、皇帝のおねしょ歴が知れ渡った瞬間だった。
リージュ公はまだまだ皇帝をこき下ろす。
「あいつ、泣き虫だしな。ああそう、昨晩も泣いてた。あいつごまかしたけど絶対泣いてた。あいつ怖そうに見えて中身は弱っちいのよ。暗がりも雷もいまだに怖がるしな。強ぶってるけど、すんごい怖がり」
リージュ公の口ぶりには親愛の情がこもっている。楽団員にはそれがよくわかり、ほほ笑ましい目でリージュ公を眺めている。
しかし、エミーユは顔色を変えていた。
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