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ただ一人の人③
港湾から王宮に戻ると、マリウスはよろよろと馬車から降りてきた。
体は健康そのものだが、心は満身創痍だ。指で押すどころか、息を吹きかけただけで倒れそうだった。
マリウスが晩餐会に現れれば、さすがに側近中の側近だけあって、リージュ公はひと目で、マリウスの変調に気づいた。
いつもは食欲旺盛なマリウスが晩餐会でもスプーン一杯ほどしか口にしていない。そして、演奏中の宮廷楽団に目を向けては、じんわりと涙を浮かべる。
リージュ公はマリウスに尋ねた。
「おい、お前何かあったのかよ、港で変なものでも食って来たのか」
リージュ公がそう訊けば、マリウスは陰った目で見返してきた。
「お前は、エミ、レルシュ楽長に懸想しているようだが、無駄だぞ。楽長には妻子がいるぞ」
「妻子?」
「ああ、三人家族だ。スイートホームだ、パパとママとベビーだ」
「俺が仕入れた情報と違ってるな。レルシュ楽長は自分の母親と息子と三人で暮らしているらしい」
「どっちにしろ、子どもがいるんだ。奥さんもいるさ」
「奥さんかどうかは知らないが、相手はグレン兵士だってよ」
「へえ………、奥さんは女兵士だったのか」
エミーユが妻を持ったと思い込んだマリウスには、その考えは覆らない。まさかグレン兵士が自分だとは思いもつかない。そんなマリウスにリージュ公は断言する。
「ともかく、エミーユは自分の母親と息子と住んでいる。本人の口から聞いたんだ、それは間違いない」
(奥さんと一緒には住んでいない……? 奥さんはひょっとして戦死したのか……?)
そう思えば、途端にエミーユを憐れに思う。
(そ、それは可哀そうだ……!)
マリウスはエミーユの身上を思って胸がつぶれそうだった。
「エミ、レルシュ楽長は、グレン兵士の遺族には年金が出るって知ってるかな」
片親での子育ては大変だろう。せめて金銭面でも支援があれば助かるはずだ。
「知らないと思うし、知ってても関係ないとは思うけど」
「エレナ女王に、周知してもらえるように頼んでくれないか」
「自分でエミーユに言えばいいんじゃねえの?」
「そ、それでは、皇帝として公平性に欠けてしまう……」
口ごもるマリウスをリージュ公は哀れげな目で見た。
リージュ公は、そのとき、エミーユとマリウスの間に横たわる事情をほぼ正確に見通していた。
楽団室で、エミーユはただならぬ顔でマリウスの傷痕について訊いてきた。マリウスの胸の傷痕を知っているなど、マリウスと深い関係になければありえないことだ。
そこで、エミーユはリージュ公をマリウスだと勘違いして慕わしげに見てきたのだと腑に落ちた。
(こいつのただ一人の人はエミーユだったんだな)
4年前、戦場から消えたマリウスが再び戻ってきたとき、マリウスの顔つきは変わっていた。まだ幼さの残っていた少年は、すっかり大人びていた。
(以前はただの愚鈍なガキでしかなかったのに)
マリウスは、優れた剣士だったが、実戦では足手まといになるばかりだった。初陣で兵を率いれば一個小隊まるごと無傷で帰ってきて、皇帝に殴り殺されそうになっていた。
その後は小さな武勲を立てたのちは、なるべく目立たないように逃げ帰ることに苦心していたようで、マリウスの配下は常に9割以上の兵士が無傷で戻ってきていた。
しかし、逃げを考えているマリウスが無傷のままでいられるはずがなかった。ノルラント侵攻で前線に配備されたとき、マリウスの率いた兵団は総崩れとなった。マリウスも行方不明となり、随分と心配したものだった。
再びマリウスがリージュ公の前に現れたとき、マリウスは胸に決意を抱えていた。そして、クーデターを口にした。
父親の寝首を掻き、みずからを皇帝だと宣言した。抵抗する貴族には夜討ち、間者による毒殺など、平然と卑怯な手を使って一掃してきた。
なのにリージュ公にはマリウスはいまだに純真なままに見える。
(いまだただ一人の人を想っているんだもんな)
となると、エミーユの息子はマリウスとの間の子になる。
しかし、残念なことに、いや、面白いことに、当のマリウスはエミーユが妻との間に子を持ったと誤解をしているようだ。
「マリウス、どうして、エミーユにこだわっているんだ?」
マリウスは下手にごまかしてきた。
「えっ? 俺? いや、俺は、エミ、楽長ではなく、グレン兵士の遺族として気になるだけだ。お前が、エミーユ呼びしているのも、全く気にならないしな、ははっ」
「気になるならエミーユに声をかければ?」
リージュ公には恋のキューピットになるつもりなど微塵もなかった。そんな気味の悪いことはしたくはない。
しかし、皇帝の子とあれば放置もできない。いつどこで誰が気づくとも限らない。そうなる前に保護しておかなければならない。
「俺がエミーユに?」
「部屋に来いって誘えばいいだろ。一介の使用人に皇帝さまの誘いを断れるはずないしな」
「俺は、そ、そんなのはしない」
「じゃあ、俺が頂いちまおう」
「だめだ! それはだめだ!」
「どうして?」
「エミーユは遊び人のお前が相手にしていいような人じゃない!」
「それもそうだな。それに肝心のエミーユはグレン兵士のことをずっと思い続けてるみたいだしな」
リージュ公の言葉が、マリウスの心臓を抉ってくる。
「そ、そうか。奥さんのことを今も思ってるのか……。はは……。今もまだ奥さんのことを……」
マリウスは泣きだしたくなるのをぐっとこらえた。
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