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ただ一人の人④
晩餐会を終えるなり、部屋に戻ってきたマリウスは、窓辺に立った。夜の城下町に海霧が漂い始めて、絶景だった。
晩餐会のワインだけでは飽き足らず、蒸留酒を傾けた。
(どうりで管弦楽が俺の心を揺さぶるはずだ。エミーユが作曲したんだもんな。俺が眠っている間、エミーユはバイオリンを弾いていたんだ。それを俺はどこかで覚えていたんだ)
エミーユと過ごしたのはほんの数日のこと。しかし、マリウスにとっては人生の他の日々のすべてを合わせても足らないほどにかけがえのない日々だった。
その数日が、その後のマリウスのすべての原動力となった。
(でも、エミーユにとってはそうではなかった。エミーユはとっくに新しい人生を踏み出していた。俺だけがあの小屋に今も置き去りにされている)
マリウスは苦悩に顔を歪めた。エミーユをなじりたい気持ちが湧いてくる。
(ひどい、あなたはひどい人だ。あなたは何度でも俺を簡単に捨てる。俺にはエミーユを見てもエミーユだとわからないが、エミーユは俺を見れば俺だとわかったはずだ。なのに、俺を無視し続けた。知らない人のような目で見てきた。声くらいかけてくれても良かったのに。エミーユが今、幸せなら、それを壊そうとは思わないのに)
マリウスは、エミーユがリージュ公をマリウスと勘違いしたとは思ってもいなかった。
エレナ女王は、エミーユと会ったばかりのときがエミーユが「痩せこけていた」と言ったのを思い出して、胸が締め付けられる。
エミーユの小屋に住んでいたときには、その感触は華奢だったが決して瘠せこけてはいなかった。
(俺がエミーユをそこまで追い詰めたのか。俺が小屋からさっさと出て行っていればエミーユはそんな目に遭わなかったのか)
途端に悔悟に襲われる。
(エミーユ、つらい思いをさせてごめん。俺のせいで小屋を出なければいけない羽目になってごめん)
あんなみすぼらしい小屋でもエミーユを十分守ってきたのだ。
(それなのに、俺のせいで)
マリウスは悔悟に暮れる。涙がぽたぽたと頬に垂れる。
(エミーユ、ごめん)
そこまで考えて、この再会を奇跡だと感じる。
(それでも生きていてくれた。それほど苦しい目に遭ったのに生きていてくれた。無事でいてくれた。その無事を確認できただけでも素晴らしいことじゃないか。そして、エミーユが、もう俺と関わりを持ちたくないのであれば、それを尊重しなければならないんだ。今、エミーユが穏やかに暮らしているのならこんなに嬉しいことはないのだから)
蒸留酒を煽る。
(今、エミーユは家族に支えられている。エレナ女王はそう言った。戦争から家族が戻ったおかげだと言った。俺、少しはあなたに恩返しできたのかな。それなら、それだけで俺は嬉しい。俺にとってはあなたはいつまでも、ただ一人の人だ)
マリウスは涙をこぼして夜景を眺めていた。
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