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アウグスト帝異聞①

 グレン帝国最後の皇帝、アウグスト帝は在位年数は短いものの稀に見る賢帝として名を残したが、一説によると大層な泣き虫だったと伝わる。しかし、戦場では常に先陣を切る勇猛果敢な将軍であったとの記録が幾つも残っていることからして、それは根拠のない巷説に過ぎないとされている。 ***  エルラント王都、花屋の二階、エミーユの自宅にて。  結婚式の翌日のことだった。  夕食を終え、くつろいでいるときだった。  マリウスはエミーユが一瞬、何を言ったのかわからなくて、訊き返した。 「えっと?」  エミーユは顔を赤らめて言った。 「腹に子が」 「?!」  マリウスはほお張っていた干しイモで喉がつっかえそうになった。  リベルの小さな手が、マリウスの背中を撫で始めた。 「まりうしゅ、おちつきなしゃい。ゆっくり、たべなしゃい」 「うん、んあ、んごっ」  すごい音を立てて何とか喉のものを腹に押し込んだマリウスは、リベルを抱き上げるとエミーユのそばに行った。 「腹に子?!」 「はい」 「?!」 「ここに子が」 「?!」  リベルは、お腹に手を当てたエミーユの手の上に、小さな手を重ねた。 「あかちゃん?」 「!!」 「うん、そう」 「!!!」  マリウスは赤毛と同じくらい顔が真っ赤になっていく。  リベルが笑いかける。 「まりうしゅ、おおきなリンゴ」 「また、リンゴになっちゃったね」 「………うえっ、うっ」  目を見開いたまま固まっていたマリウスは、やがて、泣き声を上げ始めた。  リベルを抱く反対の手で、エミーユを抱きしめる。  一度はエミーユを自分の手元に置くために孕ませようと考えたこともあったが、エミーユと結婚した今、そんな自分勝手な考えは抱いていないものの、エミーユの妊娠は声にならないほどに嬉しい。  そこにちょうどヘレナが居間に入ってきた。 「騒がしいけど、なんです?」 「ばぁば、ば、や、おがあざん、べびーびゅが、べ、べ、べびーびゅが、べ、ベ」  使い物にならないマリウスの替わりに、リベルが言った。 「えみーゆのおなかに、あかちゃん、きたの」 「まあ………!」  ヘレナも近寄ってきて、マリウスとエミーユとリベルと三人が団子になっているのに加わる。  泣き出したマリウスに釣られてエミーユも目に涙を浮かべ、エミーユに釣られてヘレナも涙を浮かべた。  リベルは困って、自分がしっかりしなきゃ、というようにエミーユのお腹に向けて語った。 「あかちゃん、りべるがいるから、あんしんしてね」  耳にしたときには大声で泣くほどに嬉しかったエミーユの妊娠だったが、しばらく経つと、マリウスは日に日に不安になってきた。 (嬉しいことは嬉しいが、でも、俺たちに子どもができたら)  そのころには、すっかり家事も上手になってきたマリウス。主夫としてエプロン姿が板についてきた。エプロンの裾をやきもきと両手で絞る。  まずは心配なのはリベルのことだ。   (リベル、大丈夫かなあ)  マリウスにとっては血のつながりはともかく、リベルも可愛い我が子だ。実際、マリウスの子だが、マリウスはまだそれをわかっていない。 (俺はリベルも今以上に可愛がってやれる自信はあるが、でも、エミーユは赤ちゃんにつきっきりになるから、リベルは寂しくなるよなあ。ああ、どうしよう。リベルが可哀そうだ。よし、こうなったら、俺が徹底的にリベルを甘やかして、リベルには絶対つらい思いをさせない!)  そう思っているさなか、リベルとエミーユの声が聞こえてきた。 「あのね、まりうしゅには、ないしょ。まりうしゅ、こわがりのなきむしのあまえんぼう」 「そうだね」 「あかちゃん、きたら、まりうしゅがえみーゆにあまえられなくなって、かわいしょう」 「マリウスが心配だね」 「だから、だからね、りべるがいっぱい、いっぱぁい、まりうしゅをあまやかしてあげるの。いっしょにそいねして、ねかせるの。ないたら、よしよし、してあげるの。はみがきもわしゅれないから。えみーゆ、しんぱいしないでね」  それを細く開いたドアの後ろで聞いていたマリウスは号泣しそうになって、ぐっとこらえた。 (リベル、て、天使……)

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