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アウグスト帝異聞②
まだエミーユの腹が出て来ていない頃、エミーユはマリウスに遠慮がちに言ってきた。
「マリウス、お願いがあるんだけど」
エミーユの願いなら何でも受け入れるつもりのマリウスは鷹揚に言った。
「いいよ、大丈夫!」
「いいの? マリウス、ありがとう!」
エミーユの後ろからひょっこりと子どもが顔を出した。リベルよりも少し大きいだけのまだ幼い子どもだ。
「彼が、ケヴィン。ケヴィン、この人がマリウスだよ。今日からあなたは私たちの家族だ」
マリウスはエミーユの願いがわかって驚きもせずにすぐさま受け入れた。こうして、もう一人、花屋の二階に子どもが加わった。
ケヴィンは、茶目茶髪で、賢そうな目をしていた。
「やあ、ケヴィン。久しぶりだね」
ケヴィンは、リベルに釣られてマリウスを「おとうしゃん」と呼び、皇帝だったマリウスの膝の上に乗った男の子だ。戦争で父親を失っている。記憶力の良いマリウスはその男の子をちゃんと覚えていた。
「へいか! ぼくのこと、おぼえてたの?」
「もちろんだよ! それにもう陛下じゃない。ただのおじさんだ」
ケヴィンはリベルの一つ上だった。母子で粗末な暮らしをしており、母親はときおり帰ってこない夜もあったが、いよいよ本格的に出て行ってしまったらしい。
商店通りの住人らは、ケヴィンの窮状を何とかしてやりたいと思っているが、みなにも自身の生活がある。それならば、とエミーユが引き受けることにした。
エミーユは花屋の二階で質素な生活をしているが、もう一人くらい家族が増えても何とか大丈夫だし、転がり込んできた亭主のマリウスは、一見ヒモにしか見えないものの、グレンに戻れば公爵様で広い領地も所有しており、代官に任せきりだが数万の領民を養っている。
なので、一人くらい増えても、それどころかあと数百人くらい増えても、いいはずだった。
案の定、マリウスは二つ返事で受け入れた。
リベルはケヴィンという遊び相手が常に一緒にいることになり、たいそう喜んで、ケヴィンはすんなりとレルシュ家の一員となった。
マリウスは、新入りのケヴィンを迎えても、瞬時に順位を抜かされて下っ端のままだった。家の中の順位は、ヘレナを筆頭に、エミーユ、ケヴィンとリベルが同順位で、かけ離れて下っ端がマリウスだ。
それでもマリウスはこのうえなく幸せだった。
ソファでくつろいでいるエミーユ、その足元で遊んでいるリベルにケヴィン。
マリウスは台所から振り返って眺める情景にひどく満足した。
しかし、気がかりが一つ増えた。
(ケヴィンだって、まだ四歳の甘えたい盛りだ。俺はケヴィンもリベルも可愛がってやれる自信はあるが、でも、エミーユは赤ちゃんにつきっきりになるし、ケヴィンもリベルも寂しくなるよなあ。よし、こうなったら、俺が徹底的に二人を甘やかして、二人には絶対つらい思いをさせない!)
そんなとき、廊下にいると部屋の中からリベルにケヴィンの声が聞こえてきた。
「マリウスにはないしょだよ、あのね、マリウス、あまえんぼうだよね」
「しょうなの、しゅごく、あまえんぼうなの」
「あかちゃんきたら、マリウスはエミーユにあまえられなくなって、かわいそうだね」
「しょうなの、まりうしゅ、かわいしょうなの。だから、りべるが、いっぱいあまやかして、あげるの。ケヴィンもりべるといっしょに、まりうしゅをあまやかすの」
「うん、まかせておいて。マリウスがないたら、ぼくがいいこいいこしてあげる。トイレだっていっしょについていってあげる。はみがきだってちゃんとできたかみてあげる。ぼくたちがしっかりしようね!」
マリウスは胸が熱くなるも、三歳児と四歳児にそこまで心配されているとなると、多少、情けなくなってきた。
そこにヘレナの声が聞こえてきた。
「あらまあ、お二人さん、マリウスさんのことは心配ありませんよ」
(ばぁ……、お義母さん……!)
ヘレナはてっきりマリウスの擁護をしてくれるものだと思っていたが、そうではなかった。
「ばぁばもマリウスさんがちゃんと歯を磨くか見張っておきますからね」
「うん、ぼくたちでがんばろう」
「うん、まりうしゅのおしぇわ、がんばる」
マリウスは愕然とするも、次の彼らの言葉に舞い上がる。
「だって、ぼくたち、マリウスのことがすきだもんな」
「ええ、私も好きです」
「りべるも、まりうしゅ、しゅき、だいしゅき」
「みんなで、あかちゃんとエミーユとマリウスのために、がんばろうな!」
「ええ!」
「がんばる!」
(ケヴィン、リベル、ばぁば………、天使たちに大天使様……)
マリウスは号泣しそうになって、ぐっとこらえた。
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