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第4章_誰よりも_第22話_君を抱きしめたなら1
◇
「……そう、その公園で待っててくれ。俺がそこまで行くから。おお、うん、わかった。じゃあな」
「杉井くん、もう着いたって?」
話がつけやすそうだからということで、まずは杉井くんと話してみようという事になり、薫が彼をここへ呼び出す事になった。当然彼はうちを知るわけがないので、近くの公園まで薫が迎えに行く事になっている。
ただ、杉井くんにとっては僕は全くの他人で、どうしてわざわざ自分が行かなくてはならないのかと言って最初は少し渋っていた。
元々彼は気が強く押しも強い人間で、それが原因で周囲に煙たがられていたようなところがある。
いくら長年の相棒だった薫の頼みとはいえ、隣町に住む見ず知らずの人間の家にわざわざ行かなくてはならないなんて、そう簡単に受け入れられることでは無かったのだろう。
仕方なく、薫は僕が和葉の恋人であること、この場には和葉もいることを説明し、その二人に山井が迷惑をかけ続けているということを話した。
すると、杉井くんはすぐに抗議をやめて、出来るだけ急いで向かうからと言ってくれた。そして、本当にすぐに行動を起こしてくれた。
——もしかしたら、杉井くんはかなり山井くんを好きなのかも知れないな。
僕はふと、そう思った。
「じゃあ、俺行ってくるから。あいつにとってはここは自分が怪我を負わせた人の恋人の家なわけだから、きっと針の筵だと思ってるはずだ。めちゃくちゃ緊張して入ってくると思うから、その辺よろしくな。あんまり話が進まないようだったら、お前が一発殴ってやれよ」
薫はそう言いながら和葉に向かってファイティングポーズをする。そして、シャドーボクシングのような動きをして見せた。すると、
「そんなこと言って、どさくさに紛れて僕の事を殴ろうとしてるだろ? その手には乗らないよ」
と言いながら、和葉は薫の拳を捌く。流れるように制された攻撃は、自分へと還る。それを見て、薫が以前僕に教えてくれた事を思い出した。
——これは、僕を守るために磨かれた技術なんだよね……。
それを思い出すと、不意に胸が詰まるような感じがした。そんな事を知る由もない和葉は、薫に向かってにこりと笑うと、
「残念でした、素人の拳なんか当たらないよ。それなりに反射神経はいい方だからね。あの事故の時だってさ、車だって避けようと思えばできたと思うんだ。ただ、あの子を抱えてたから無理だっただけなんだ。それに、僕が怪我をしたのはよろけて勝手に頭を打っただけで、車に轢かれたわけじゃ無いんだし、彼が気にすることなんかないんだよ。だから、僕は別に怒ってないから、大丈夫だよって先に杉井くんに伝えててよ」
と言った。そして、そう言いながら薫の両頬目掛けて大きく開いた手を振りかぶり、バチンと音がするほどの強い力で、その精悍な顔を挟んだ。
「いてっ! いきなり何すんだよ」
「いやいや、仕掛けて来たのは薫でしょ? やり返されて悔しいからって、被害者ぶったらダメだよ」
「はあ? お前、本当に俺にだけは当たりが強いよな。少しは優しくしろよ、失恋したてなんだぞ」
不服そうに唇を尖らせた薫は、赤くなった頬を両手で擦る。すると和葉は、呆れたように肩を竦めて見せた。
「いや、そのことで怒ってるんじゃないか。薫ずっとここぞとばかりに朋樹にベタベタ触ってただろ? いくら僕が不甲斐ないからって、何もせずにそれを許せるほどいい人じゃないんだよ」
和葉はそう言いながら薫の体をくるりと回転させ、ドアへと押し進めていく。ぐいぐいと追い出されるように外へ出された薫は、
「戻って来るんだから、イチャつくなよ!」
と言いながら出かけて行った。
「はいはい、行ってらっしゃい」
そう言って困ったような笑顔を浮かべた和葉は、柔らかな笑顔を浮かべて薫に手を振る。僕も和葉越しに薫に向かって手を振る。彼はそれに、優しい笑顔を浮かべて応えてくれた。
ふと見ると、和葉の指先が少し震えている。ああは言っても、杉井くんが来ると思うと怒りが湧いて来たんだろうか。
「和葉、本当に大丈夫?」
強がっているのは間違いない。
杉井くんが和葉を直接撥ねたのでは無いと分かっていても、彼が山井に唆されて車で彼を脅すなんていうバカなことをしなければ、あの事故は起きなかった。それは間違い無い。その後の和葉の苦悩を思えば、手が震えるほどに憎んでいても不思議は無いだろう。
そして、それは僕も同じだ。僕の大切な和葉を苦しませた人がやって来るのだと思うと、どうしようもない怒りが湧いている。そうなるのは仕方無いと思うし、隠そうとも思ってない。
あの日から一ヶ月間のあの孤独、そして今も続く悲しみを思うと、胸の奥の方にいいようのないドス黒い思いが湧いて来る。二人で同じスピードで成長していけていれば、僕自身もあんなに泣く必要は無かっただろうと、どうしてもそう考えてしまうからだ。
——本当、僕って嫌なやつだな。
最近そう思うことが増えた気がする。そうなってしまったことを、杉井くんのせいにしてしまいそうで怖い。
「朋樹」
僕の隣に戻って来た和葉が、その美しい顔を近づけて来る。ふと見上げると彼の髪が僕の額に触れた。僕の体を、レモンバームとジャスミンの香りが包む。それは僕の中の黒い感情を押し流して、ささくれた心を潤していくようだった。
「ああは言ったけれど、もしかしたら僕怒ってしまうかも知れないから、その時は朋樹が止めてね」
僕を抱きしめながら、弱々しげに彼はそう零した。少し幼稚な発言だと思っているのか、声は恥じらいを含んでいるように聞こえる。それがおかしくて、思わずくすりと音を立ててしまった。
「どうしたの? 僕、何かおかしいこと言った?」
戸惑って僕の表情を見ようとする和葉に、僕はそれをさせまいとしてしがみついた。
こうしているのが、当然のように思える。それが、泣けるほどに嬉しかった。
◇
階下に薫の声が聞こえた。もう一人男の声が混じっている。そして、母さんが少し驚いているような声も聞こえる。
「あ、おばさんも怒っちゃうかも知れないね」
「あー、母さん結構激しいところがあるから……。大丈夫かな、お仕置きだとか言って杉井くん叩いちゃうかも」
そう言って笑い合っていると、軽いノックの後に扉がすぐに開かれた。
「おばさんの睨んだ顔がすげー怖かった……。朋樹、後でうまく言っといてくれよ」
「あはは、ごめんね。母さんは樋野のおばさんに付き添って杉井くんと話してるだろうから、良く思ってないかもね」
僕は薫に「ありがとう」と言いながらクッションを手渡した。そして、その薫の後ろに隠れている杉井くんへと声をかける。
「ごめんね、でも母さんの気持ちもわかってあげてくれる? 僕たち、夏の間ずっと悲しかったんだ。和葉はもう戻ってこないかも知れないって思って、でも諦めたくもなくて……。すごく苦しんだんだよ。だから、ね?」
「……大丈夫、その辺はわかってるつもりだから」
申し訳なさに潰されそうな顔で彼はそう言うと、薫に促されてクッションのそばに座り込んだ。
「ありがとう」
そう言った僕に、申し訳なさそうに被りを振る。どうやら彼は、僕が思っているよりも話の通じる人のようだ。これなら落ち着いて話せるかも知れないと思い、僕は安堵した。
「じゃあ、ちょっと待っててくれる? 僕飲み物を作って来るよ。杉井くんは苦手なものとかある?」
そう声をかけながら、彼の隣を通り過ぎようとした。
「いや特には……。あ、待ってくれ! 俺は構わなくていいから……」
そう言って杉井くんが振り返った時だった。
そこに、ふわりと濃密な香りが巻き上がった。それは爽やかな柑橘の香りの中にスッキリとした僅かな甘さを感じるもので、その奥に僅かながらも濃厚で華やかな別の種類の甘さが潜んでいるものだった。その香りに、僕はなぜか強烈な既知感に襲われた。
「え……? なに、これ」
驚いて思わず彼を凝視してしまう。彼の方はというと、初めて会った僕の突飛な言動に目を丸くしていた。
「は? 俺何かした?」
ただでさえ糾弾されるかも知れないと思ってここへ来ている彼にとって、僕の行動は恐ろしいものだったのだろう。ビクビクと体を震わせながら、忙しなく視線を泳がせていた。
「朋樹? どうかしたの?」
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