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第1章:異世界へ 第1話①

 湖畔の岸辺に生えている数十種類の薬草。収穫の頃合いを迎えた草を見極め、一人のエルフが抱えたザルへと摘んでいく。彼の背には幼い子供が一人入るくらいの籠。その中にも様々な薬草が入っていた。 「今日はこれくらいにしとこうかな」  フゥと一息吐き、ザルいっぱいになった薬草を背負っていた籠の中へと入れる。籠の半分程度まで薬草で満ちていた。  本音を言えば、もう少し採取しておきたい。しかし、あまり帰宅が遅くなると双子の兄の小言がやかましいのだ。太陽の位置はもうすぐ夕刻を迎える場所にある。これ以上遅くなれば、狩りに出ている兄の方が先に家へと戻って来てしまうだろう。それよりは早く帰っておきたい。  空の色が徐々に橙色へと染まりつつある。これは少しばかり急いだほうが良いかもしれない。慣れた山道を駆け下りて行く。せっかく詰んだ籠の中の薬草を落とさないように気を付けながら。  途中で休憩を入れることなく走ること約三十分。木々の隙間から茅葺の屋根が見えてくる。 (げっ、やば……)  垣間見えた里の様子は賑やかだった。狩りに出ていた族長一行が既に戻ってきているのだろう。里の数か所から煙が上がっている。もう夕飯の支度を始めている家があるという証拠だ。多くの家庭では狩りの獲物を使って夕食を作るから。 「ただいまー!」 「遅いぞ、セイル!!」  息せき切って開いた扉の先には、仁王立ちしている双子の兄。 「ノア、ごめんね。今日、薬草採りに行くの遅くなっちゃって」 「いつも言ってるだろ。俺たちが狩りから戻る前には戻って来いと」  玄関先に籠を置き、キッチンへ行こうとするも、兄からギュウゥと抱き締められる。 「のあ~、ぐるじぃよぉ……」  背骨まで折られてしまうのではないかと危惧するほど強い抱擁。これもあるから早く帰って来たかった。心配性の兄による過保護なまでの干渉は約30年前に母が亡くなってから、より一層ひどくなった。  こんな光景を誰かに見られようものなら、またしても誤解を与えてしまう。兄には既に婚約者がいるのだ。以前も何度かこんな場面を目撃されて、婚約者に告げ口された。兄の性格をよく分かっている婚約者はそんなことを聞いても全てを見透かしている。「取るに足らないこと」とケラケラ笑っていた。付き合いの長さ故だ。  随分と長い時間「抱擁」という名のお仕置き染みた行為を受け入れていたが、やっと兄が満足したようだ。解放してもらえた時には、もはや虫の息だ。窒息寸前で脳に酸素が満足に行き届かず、少しばかりクラクラする。その場で目を回していると、更に兄が心配するという悪循環に陥る。毎度このパターンの連続だ。今後きちんと回避するためにも、もっと早く帰宅せねばと改めて心に留める。 「父様、お帰りなさい」 「セイルか。お前もお帰り。今日は少し遅かったのか? ノアリスが騒いでいたようだが」 「湖畔の薬草が結構育っちゃってて、詰むのに夢中になってしまっていました」  愛用の弓の手入れをしていた父の元へと顔を出し、ただいまのハグをする。左右の頬へと軽いキスをして互いに今日も無事に一日を過ごし、戻って来られたことを神へと感謝する。 「夕飯の支度しますね。今日は随分と早いお戻りのようでしたが、余程収穫があったんですか?」 「ああ。一角牛が二頭も獲れてな。これ以上獲っても持ち帰れないから早々に帰ってきたんだ」 「一角牛が二頭も!? それは大収穫でしたね」  パチンと音を鳴らして両手を合わせ、セイルは目をキラキラと輝かせた。一角牛といえば、肉は臭みがなくて柔らかく、長期保存にも向いている。肉付きが良くて一頭だけでもそれなりに食べられる量が多い。それが二頭ともなれば、今日は大収穫だ。それなら想定よりも早い帰宅も納得できる。 「それなら、今日はちょっと豪華にステーキにしましょう! すぐに用意しますね」  父へと一礼し、キッチンへと小走りで向かう。エプロンを身に着け、すぐに調理の準備を始めた。  母が亡くなってからというもの、台所仕事は全てセイルの役割となっていた。料理だけではない。洗濯や掃除など、家事のほとんどを担っている。父は族長としての務めが忙しく、その次代を担う兄・ノアリスも同様だ。家の中のことをしている時間などほとんどない。  ノアリス自身はよく「手伝う」と言ってはくれるものの、丁重に断っている。ノアリスの家事スキルは壊滅的で、掃除をすれば物を壊し、洗濯をすれば服を破く。やればやるほど余計な手間が増えてしまうのだ。物事には向き不向きがある。その不向きの部分が兄にとっては家事であるというだけだ。  セイルと双子の兄・ノアリスは全てにおいて対照的だった。ノアリスは父親に似て、エルフ族の中でも逞しい肉体を持っている。弓だけでなく剣術まで得意で、その実力はエルフ族の中でも随一だ。  更には魔術にも長けている。エルフ族は往々にして魔力を持っているが、使える魔法というのは様々だ。攻撃魔法が得意な者もいれば、回復魔法などに特化している者もいる。威力も個人差が激しい。  ただ一つ言えることは、程度の差こそあれ、エルフであれば誰しもが魔法を使うことができた。  セイル一人を除いては。  兄のノアリスの魔法の腕は凄まじい。攻撃魔法も回復魔法も彼の右に出る者はいない。歴代のエルフの中でもここまで特出して魔法を極めた者などいないだろう。誰もがノアリスを羨望し、一目置いている。  その一方で、セイルは剣を持ってもヨロつくだけ。まともに構えることすらできず、魔法など何一つ使えなかった。双子として同じ親の腹から生まれ出でたというのに。ノアリスはセイルが持っていない全てを体得していた。  しかし、彼は驕り高ぶることなど微塵もない。判断も素早く的確で、リーダーシップも兼ね備えている。当然ながら人望も厚い。まさに族長となるべくして生まれてきたも同然だった。  そんなノアリスを支えたいと、セイルは家のことを一手に引き受けていた。狩りに出たところで足手まといになってしまうだけだし、セイル自身がいくら食べるためとはいえ、殺生を好まない性分だから。それに、エルフであれば誰もが得意とする弓の腕前もからっきしだった。  代わりとばかりに、里に残る文献を読み漁り、薬草の知識を頭の中へと叩き込んだ。  魔法で傷は治せるが、病は癒せない。そのため、母を助けることができなかったのだ。  大切な家族をこれ以上失いたくない。その一心でがむしゃらに勉強したお陰で、薬草を見れば大抵がどんな種類か、何に効果のあるものかを見極められるようになった。  それでも、常にセイルには後ろめたさがあった。  ノアリスと違い、何もできない自分が歯がゆい。  全てを持つノアリス。  そして、何も持たない自分。  香草を千切りながらハッとする。ブンブンと首を横に振った。 (いけない、いけない……)  気を抜くとすぐに後ろ向きな思考になってしまう。こんなことを考えたって何にもならないのに。  それに、セイルが気落ちしていると父と兄が心配をする。だから、努めて笑顔で振る舞おうと心掛けていた。  その奥底には鬱屈としたものを抱えながら。

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