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第5章:満月の別れ 第1話

 重い瞼をうっすらと開いた時、視界に入ってきたのは昔からずっと共にいる相手の顔だった。 「セイル! セイル、目を覚ましたのか!」 「ノア……」  握られていた手に力が籠められる。少し痛いくらいの力に僅かに眉を顰めれば、すぐに察して触れるだけの繋がりに留めてくれる。コミュニケーションに長けている兄らしい気のつきようだ。  ノアリスがいるということは、ここは里なのだろう。多分、長い夢を見ていたのだと思う。とても克明で、今にもすぐに全てを思い出せるほどのリアルな夢。  里の外にも大切な人がたくさんできた。  その中でも、殊更愛おしい存在ができた。その人のためであれば、己の命すらも全く惜しいとは思わない。唯一無二の存在。  でも、よくよく考えてみれば、そんなはずなんてない。今まで、百八十年以上にわたってそんな存在などできたことがないのだから。たかだか数か月という、長命なエルフの営みの中において瞬き程度の時間でなど出会えるはずもない。 「痛いところはないか?」  フルフルと小さく首を横に振る。あえて言うのであれば、体が怠いくらいのことだろうか。  カサリと掛布団が小さく鳴った。軽くて保温性にも優れている羽毛布団はセイルが里から出て驚いたものの一つ。こんな素晴らしい物が里にもあれば、もっと睡眠環境は各段に改善されるだろうなと何度も思ったものだ。  まだ頭の中は霞みがかったようにボンヤリする。考え事をするのが大層億劫だった。もう少し寝ていても怒られないだろうか。眠ったのに、体力が回復しているとは言い難い。胸元までかかっていた布団を引っ張り上げ、口元まで覆い隠す。鼻さえ出ていれば呼吸するには問題ない。  体の訴えに耳を傾け、もう一眠りさせてもらおうと瞼を閉じたところだった。  どうしてノアリスがいるというのに、羽毛布団を掛けられているというのだ。ハッとして目を開く。  反射的に上半身を起こした。 「うっ……」  頭がクラクラする。咄嗟に敷布団へと手を突き、態勢が崩れるのを防いだ。 「セイル、どうした。急にそんな動けば、体に障るだろう」  枕元にいたノアリスがセイルを支えた。大きな手で支えられると、安心感がある。  起き抜けに動いたからか、眩暈のようなものに加えて混乱している頭は上手く思考が働かない。目元を掌で覆い、眩暈が収まるのを待つ。  しかし、指の隙間から見えた光景に再び目をギョッと剥いた。  ノアリスがセイルの枕元に置かれていたスマホを手に取り、操作している。しかも、ノアリスは画面をタップすると、スマホの画面を耳元へと当てていた。そして、通話相手と繋がったのか、話し始めた内容にも目を丸くする。 「悠真か? セイルの目が覚めた。……ああ、たった今だ」  その光景を見て、再び自分が未だに夢の世界から抜け出せていないと確信した。支えてくれているノアリスの手をやんわりと外し、もう一度布団へと横になる。 「セイル、まだ具合が悪いのか?」 「いえ、どうやらまだ夢の中のようなので、きちんと寝てから今度こそちゃんと起きようと思って」  羽毛布団を頭の先まで被って布団の中で丸くなる。  何とも頓珍漢な夢だ。ノアリスがスマホを使い、日本家屋にいるなんて。あまりにも信ぴょう性の欠片もなさすぎる。  夢は時に自分の見たい物を見せてくれるというが、さすがにこんなおかしな展開を望んだことなどない。  きっと目が覚めれば里の自室にいるに違いない。また朝が訪れ、いつも通りの一日が始まる。狩りに行く兄と父を見送り、薬草を取りに山へ入る。毎日同じことの繰り返しがまた始まるだけだ。  願わくば、里を取り巻く結界の崩壊も全てが夢であれば良い。そうすれば、何の憂いもなくなる。  しかし、随分と長く変わった夢を見たものだ。異世界で生活するなんて、自分の想像力がそこまで豊かだとは知らなかった。車もスマホも里で生活していれば絶対に考え付かないような代物だ。夢の中とはいえ、よくもあそこまで克明に考えられたものだと思う。  これは、ミアナの子供が産まれてきたらおとぎ話として語ってあげよう。こんな発想、里の誰もができるはずもない。きっとビックリして色々と聞いてくるはずだ。今から楽しみになる。  さっさと眠ろうと瞼を閉じたが、廊下を走って来る騒々しい足音で眉間に皺を寄せた。走れるような廊下があるような家と言えば、悠真の母屋や社務所、もしくは拝殿くらいしか思い当たらない。どこも古い建物ゆえに、少し歩くだけでギィギィと大きく軋む音がする。こんなに音がするのでは、こっそり忍び込むなんてできないねと梨々花たちと笑い合ったのはいつのことだったか。  そんなに走らなくても良いだろうに。廊下は老朽化してところどころ床が抜けそうな所もある。穴でも空いたらそれこそまた修繕費の問題に悠真が頭を抱えるだろうし、しばらく穴を避けて通らなければならない。未だに至る所にある雨漏りですら直す見通しが立っていないのだから。それに、その穴に誰か落ちて怪我をするようなことがあれば大変だ。 「ノアリスー!! セイルちゃん起きたって本当!?」  スパーンと軽快な音をさせて襖が開く音が響いた。どかどかと部屋の中に入って来る足音が続く。 「ああ。今、起きたんだが、また寝入ってしまったようだ。もしかしたら、まだ体が本調子でないのかもしれない」 「そっかぁ……。そうだよねぇ。あんな大怪我してたんだもんね。むしろ、生きている方が不思議なくらいだよ。鷹臣もそうだけどさぁ」  ピクリとセイルの長い耳が蠢いた。悠真の話の中に大切な人の名前が出てきたから。  これは悠長に寝ている場合なんかではないだろう。居てもたってもいられず、ガバリと羽毛布団を引っぺがし、上半身を起こした。 「セイルちゃん~~~~~~!!!!」  ガバリと抱き着いて来る悠真。その勢いにのけ反るが、何とか無様に押し倒されることだけは防ぐことができた。 「よがっだぁぁぁぁぁ!! もう、いぢじはどうなるごどがど思っだよぉぉぉぉぉ」  セイルの肩口に顔を埋め、おいおいと号泣する悠真の背をそっと撫でる。こんなに泣くほど心配をかけてしまっていたなんて申し訳ない。  そして、同時に嬉しい気持ちが心に満ちる。家族以外でこんなに誰かから思ってもらえるなんて里では一部を除いて考えられないことだ。不謹慎かもしれないが、感謝の念を抱く。  やっぱり夢ではなかろうかという考えがまたしても湧いてきてしまう。〝愛されたい〟という欲求が見せる都合の良い夢。  もはや現実と夢の違いが分からない。試しに頬を引っ張ってみた。痛い。しっかりと痛覚がある。 「セイル、一体何をしているんだ」  ノアリスが呆れたような顔をしてセイルを見ていた。 「夢じゃ……ないの?」 「夢なはずないだろうが。お前は三日も目を覚まさなかったんだぞ。傷は治したが意識が戻らないし、もう目を覚まさないのではないかと皆、気が気ではなかったんだ」 「うそ……。三日も……?」  愕然とする。もう自分でも死んだものと思っていた。胸を刺したのだ。生きられるはずがない。  そして、次の瞬間、抱きついていた悠真を剥がして詰め寄った。 「鷹臣さんは……鷹臣さんは大丈夫だったんですか!?」 「ああ、鷹臣? あいつならピンピンしてるよ。まあ、僕も一時はヤバいかと思ったけど、よく考えたら鷹臣だもんな~。あいつなら、地獄に行ったところで閻魔様から帰れって追い返されそうじゃん?」  瓶底眼鏡を外して涙を拭き、再び装着する。鼻先などはまだ赤いものの、普段の穏やかな表情に戻り、ヘラリと笑いながら冗談を飛ばすところは相変わらずだ。  ホッとし過ぎて全身から力が抜けそうだった。意識を失う前に鷹臣の傷が治ったのは確認したが、それすらも自分の都合の良いように見せた白昼夢の可能性だってあった。無事だと知り、安堵する。  エルフの血なんて、迷信である可能性だって高かったのだ。一か八かの賭けだった。ダメならそこで二人共に死ぬだけ。セイルに関しては無駄死にとも言われそうだが、大切な人と共に死ねるのなら、それすらも本望だった。 「鷹臣さんはどこへ……?」 「あいつ、あの一件でちょっと東蓮会の中で色々あってさ。今はその残務処理っていうのかな? 黒神連合も東蓮会の中では鷹臣の組に次ぐシノギをあげてたからさ。一応、ドンパチ始まる前に上には一本電話して仁義きったみたいなんだけど、事が事だけにね。でも、仕事以外の時間はずっとココにいて、セイルちゃんが目覚めるのをノアリスと一緒に待ってたんだよ」 「そう、ですか……」  鷹臣がいない理由も知ったことで、心の中にあった不安材料がなくなっていくのを感じていた。  鷹臣には本当に多大なる迷惑をかけてしまった。謝っても謝りきれるものではない。何と言って詫びれば良いのか分からない。今回の件に関しては、セイルの落ち度しかない。 もしかしたら、今この場にいなくて良かったかもしれない。少しは謝罪の言葉を考える余地が与えられたようなものだから。 「でも、セイルちゃん起きたならあいつにも連絡してやらなきゃね。多分、速攻でここ来ると思うよ」  悠真がスマホを取り出しながら立ち上がった。部屋を出て行こうとする悠真へと手を伸ばす。 「悠真さ……」  引き留める前に悠真は退室してしまった。今度はカタンと小さな音をたてて閉まった襖を見つめながら呆然としていた。 「セイルもまだ目覚めたばかりで体力が戻っていないだろう。死を目前とする程の怪我をしたんだ。ゆっくり休んだ方が良い」  ノアリスがセイルの上半身を布団へ横たえようとする。その手首を掴み、動きを止めた。 「ノアもノアだよ。もう、全然状況が分かんない。説明してよ。どうしてこうなってるのか」 「ああ、そうだな。それに関してはきちんと説明しよう。でも、それは横になりながらでも良いだろう?」  優しく諭され、渋々ながらも頷く。ノアリスに体を支えられながら布団へと横たわったが、目だけはジッとノアリスを凝視していた。絶対に全てを話すまで離さないとの意思を込め、ノアリスの服を掴む。  ノアリスはそんなセイルの様子に苦笑しながらも事の顛末をゆっくりと落ち着いた口調で話し始めた。  セイルが里を去ってから、翌朝には湖に身を投げたのだと分かり、ノアリスも追おうとした。しかし、次期族長という立場と妊娠中のミアナを放って死にに行くようなことを誰も許してはくれなかった。忸怩たる思いを抱えながら方法を探しつつ、必死に周囲を説得し続けたらしい。ノアリスの熱意に根負けし、ミアナの出産が無事に終わり、母子共に健やかであることを確認してから転移の法を用いたそうだ。 「へえ! ミアとの子、無事に生まれたんだ」 「ああ。男の子だ。早くセイルにも見せてやりたい。あまりにも可愛くて、本当は大分後ろ髪を引かれたよ」  胸がズキリと痛む。ノアリスがここにいるということは、家族を置いて来たということだ。相当な覚悟の上のことだろう。戻れる確証も方法もないのだから。 「ここに無事に辿り着いたってことは、ノアも海に出たの?」 「海? いや、俺が辿り着いたのはこの神社の池だ」 「ええええ?」  またしてもビックリ発言が飛び出し、目を剥いた。  どうして同じ湖に飛び込んだはずなのに、到着場所が違うのだろうか。分からなすぎて頭がこんがらがってくる。  ノアリスが到着したのは、セイルが連れ去られてからすぐのことだったらしい。池から上がり、付近を見回していたところを偶然通りがかった悠真が見つけたそうだ。耳の形状などから、エルフであることを悟った悠真が神社裏手の駐車場を掃いているセイルへとノアリスと共に報告しに来てくれたものの、そこには倒れている箒が一本あるだけでセイルの姿はない。そこで境内に備え付けている防犯カメラを確認すれば、セイルが連れ去られるところが映っており、大慌てで鷹臣へと連絡したのだという。  鷹臣は心当たりがあったようで、すぐに連れ戻しに行くと動いてくれたそうだが、そこに連れて行ってくれと悠真がゴリ押ししたらしい。一般人を連れていくことに鷹臣は随分と難色を示したが、最後には悠真の粘り勝ちとなった。そして現場の廃旅館までノアリスと共に向かうことになったと語ってくれた。  しかし、さすがに抗争の真っただ中にノアリスまでもが混じるのは危ないということになったらしく、合図をするまで車の中で待たされていたようだ。しばらくすると、血相を変えた悠真が応急処置の施せるような物はないかと探しに来たため、回復の魔法を使えるノアリスが現場に急行したのだという。 「さすがにあれ程までの怪我を治したことなどなかったから心配したが、セイルを母上の所に行かせるようなことがなくて本当に良かった」  ノアリスの服を掴むセイルの指の上に手を重ね、感慨深そうに語っている。セイルが一命を取り留められた背景にはそんなことがあったなんて全く想像もしていなかった。 「ありがとう、ノア。お陰で助かったよ」 「いや、セイルにはこちらこそ全てを押し付けてしまっていたからな。……ところで、結界の修復方法に関しては何か分かったか?」  それまで終止穏やかな表情をしていたノアリスが真面目な顔つきになる。真剣な眼差しに見つめられ、セイルは目を伏せた。  ノアリスが最も知りたがっていることが結界の件であることは分かっている。戻れるかどうかすら不明の中で大切な家族を置いてまで来たのだから。  セイルにしても、見つかっていれば再会して早々に報告をしている。  むしろ、この話題にだけは触れられたくなかった。明るい報告などできず、ノアリスを落胆させてしまうことは明白だから。 「……………………ごめん」  長い沈黙の後、謝罪の言葉を一言だけ告げる。その三文字で全てを悟ったノアリスは一瞬悲し気に目をそばめたが、すぐに横たわるセイルの頭をやんわりと撫でた。 「謝ることなんて何もないよ。セイルが頑張っていただろうことは分かっている。むしろ、一人でよく今まで見知らぬ土地で頑張ってこられたな」  ワシャワシャと撫でられる大きな掌。期待した答えではなく、がっかりしただろう。それなのに、そんなことは口にせず、労わってくれる。  しかし、その優しさがセイルの胸を痛ませた。  何の結果も残せていない。優しくされる価値なんてないのに。 「ごめん……ごめんね、ノア……」  ポロポロと涙が零れ落ちる。結局、役立たずなのはどこにいても変わらない。  ノアリスだったら見つけられていたかもしれない。己の能力のなさが情けなかった。 「大丈夫、誰もセイルを責める者なんていない。泣かないでくれ」  ギュッと握られた手は強く温かい。その温かさが心の中にまで満ちて来るようだ。  次から次へと溢れてくる涙を止められず、ただひたすら涙していると、またしても廊下を走る音が聞こえてきた。 「セイル!!」  勢い良く開かれた襖。額に汗を流した鷹臣が肩で息をしながら部屋の中へと入って来た。 「たかおみさん……」  セイルの枕元にいたノアリスを無理矢理どかすと、ノアリスの座っていた場所に腰を下ろした。 「大丈夫なのか!?」 「すみません……大分、ご心配かけてしまったようで……」 「んなことどうでも良いんだよ! 馬鹿野郎……テメェは本当にいつも無茶苦茶なんだよ……」  布団の中から上半身を起こされ、強く抱き締められた。息が苦しい程の抱擁。鼻孔をくすぐる鷹臣の纏う香水の香り。  二度と嗅ぐことなど叶わないと思っていたこの匂いをもう一度吸えたことに更に涙が溢れた。 「たかおみさん……いきててくれて……ありがとうございます……」 「セイルのお陰だろうが。……ったく、俺に後悔残させたら、どこまでだって連れ戻しに行ってやるからな……」  ゆっくりと広い背中へ腕を回した。  腕の中にある屈強な体。この肉体にもう一度触れられた喜びを胸に、涙でグチャグチャの顔を鷹臣の胸へと埋めた。

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