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第5章:満月の別れ 第4話
翌日、朝起きたら鷹臣は既にベッドにいなかった。いつものこととはいえ、さすがに今日ばかりは悲しい。
最後の時くらいはずっと一緒にいてくれるかと思っていた。しかし、それはあくまでセイルの希望でしかなかった。
セイル一人を残してもぬけの殻となったクイーンサイズのベッド。鷹臣がいたであろう場所は既に冷たくなっている。どのくらい前に出て行ってしまったのか分からないが、温もりすら残してくれないなんて酷い話だ。
鷹臣が忙しい立場の人間だとは分かっている。そんな中、昨日はセイルが目を覚ましたからと何もかも置いて駆けつけてくれた。それだけでも十分ではないか。
きちんと心配してもらえた。昨夜はたくさん愛してもらえた。それ以上を求める方が図々しいのかもしれない。
「それでも……やっぱり、今日くらいはずっと……一緒にいたかったんですよ……」
ベッドの上で体育座りをしながら顔を埋める。膝を濡らす涙はしばらく止めることができなかった。
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いつものように巫女装束に身を包む。この格好も今日で最後かと思うと感慨深い。姿見に全身を映しながら襟元などを微調整していく。最初はこの不思議な格好の着付け方にも少しばかり戸惑うこともあり、神社についてから悠真に軽く直されることも何度かあったが、それも今では全くない。随分と着慣れたものだとセイル自身も思う。
出かける前に金魚たちへと餌を与えてやる。これももうこれで最後かと思うとさすがに寂しい。
「これからは慎吾さんから餌貰ってくださいね」
鷹臣が餌をやる姿が想像できず、苦笑する。面倒見の良い慎吾のことだから、きっとのこの二匹も甲斐甲斐しくお世話してくれることだろう。慎吾の性格を知っているからこそ心配はしていない。
ただ、鷹臣に別の人ができてしまって、その人がこの部屋に住むようになってしまったらと考えると気が重くなる。さすがに恋人の部屋にあるものをすぐに捨てようなどと言うことはないだろうが、この金魚たちが元恋人との思い出の品だと知っても残しておいてくれるだろうか。鷹臣の部屋の中には以前出て行った恋人の私物らしき物は何一つとして見当たらなかった。セイルの服などは捨ててくれても構わないが、この小さき生命たちに関しては出来る限り寿命が尽きるまで世話を続けてほしいと思うのは勝手だろうか。
いつも通りの時間になり、慎吾との待ち合わせの場所へと行けば、慎吾はきちんと今日も待っていてくれた。さすがに昨日まで目覚めなかったというのに、今日バイトに行くのかと訝しんだそうだが、セイルの性格を考えればきっと行くだろうと考え、半信半疑ながら待っていてくれたらしい。すっかり性格を熟知されていることに笑ってしまった。
神社でも悠真から体調を気に掛けられたが、すっかり元気になったことを伝えれば安心させることができた。普段のように境内の掃き掃除や植物への水やりなどをしていると、随所に思い出が残っていることを知る。何百年もいた訳ではないのに、この場所は様々な思い出に満ちていた。
いつの間にかセイルの中の「当たり前」になっていた日常。大変な目にも遭ったが、それを凌駕する程の楽しい記憶ばかりが溢れている。きっと鷹臣の仕事自体は好きになれる日こそは来ないだろうが、それでも尊重はしたい。大好きな人が命をかけてまで行っていることなのだから。
神社でのバイトをしていれば、いつものようにあっという間に一日が終わる。もう結界に関する心配事もないため、不安を抱いたりどうにかして方法を見つけねばと焦ったりすることもない。ただただ穏やかに一日が過ぎていった。
きっと、明日も今日と変わらない一日がここでは過ぎていくだろう。ただセイル一人がいないだけ。セイルに会いに来てくれる参拝客には申し訳ないが、きっとそれも時間の経過と共に減少し、いつかは記憶の中から忘れ去られていくのだろう。SNSを始めた時には爆発的に参拝客が増えたが、今では混雑という程の人出はない。しかし、常連さんもできて足しげく通ってくれる人などはいるし、以前のような閑古鳥が鳴くこともないが。
以前、梨々花たちが茶飲み話の時にぼやいていた。流行というのはとにかく流行り廃りが早く、それは特に若者の間で顕著だという。今でこそ梨々花はインフルエンサーとしてもてはやされているが、それだっていつまで続くかなんて分からないし、新しく台頭する人たちが後を絶たない。いつでも新しいことを発信し続けなければいつの間にか埋もれてしまうという話を聞き、大変なんだなぁとしみじみと思った。セイルもSNSは行っているが、梨々花たちほど頻繁には投稿していない。自分でできる範囲で負荷と思わない程度に無理なくすることで何とか続けられているようなものだ。
外の掃除を終わらせ、社務所内の掃除も随分と慣れたものだ。最初の頃は天井隅には蜘蛛の巣が張り、大抵の物には埃が被っていた。それも全て今は毎日綺麗にできている。あまり自分の行いを褒めるのは好きではないが、これらのことに関してはそれなりに自信を得られた。
いなくなってからも悠真がきちんと掃除をしてくれると良いのだが、これまでの行動を考えるとあまり期待はできない。こちらに関しても梨々花たちにお願いをすればやってもらえるだろうかと考えていたが、こういう時に限って二人は神社には来なかった。
きっと、セイルが三日間目覚めなかったから今日もいないと思われているのかもしれない。最後にきちんとお別れの挨拶をしたかったが、二人のことだから、もしかしたら別れを渋られるかもしれない。そう考えたら、何も言わずに消えるのも悪くないかという気になった。
授与所のお守りを並べながら感慨に耽る。今では神社の人気商品の一つとなった恋守りや恋御籤。みんなで一緒に作った思い出は昨日のように思い起こされる。新しいことを友人たちと始める楽しさを教えてもらった。どれも全てが良い思い出だ。
何も言わずにいなくなれば梨々花たちは怒るかもしれない。でも、きっとそれも時の流れが解決してくれる。そして、一時の思い出として記憶の一遍になるのだろう。
あっという間に日も暮れて、夕景の空は濃い藍色へと変わり始めていた。一番星を見つけたかと思えば、どんどんと見える光が増えていく。ぼんやりと空を眺めていると、すっかり辺りは暗くなっていた。
東の空にまん丸の月が顔を出す。とうとう昇り始めてしまった。
思えば、里ではあの月を眺めながら「死にたくない」と絶望した。
この月が昇りきった時、この世界ともお別れの時が来る。
普段であれば帰って夕餉の支度をする頃合いだが、今日は母屋の一室を借りて着替えを行っていた。久しぶりに出した舞装束。海で汚れてしまっていたのをクリーニングに出して綺麗にしてもらったため、里で着た時と同様に美しい。
袖を通し、姿見で格好を確認すれば、母の面影を残す姿。これを着た時にはあんなに切羽詰まっていたというのに、今ではこの世界との別れを名残惜しんでいる。不思議な気持ちでいっぱいだった。エルフの生が長いとはいえ、こんなに様々な体験を短期間でした者などそうはいないだろう。
今日一日、悠真は母屋の奥の部屋で文献片手にノアリスと共に結界に関して話し合いを行っていた。当初は参加した方が良いかと思っていたが、そうしたら神社のことをする人がいなくなってしまう。そのため、話し合いに関しては悠真とノアリスに任せることにした。ノアリスは次期族長だし、結界を張るのは悠真だ。そこにセイルがいなくとも話は成り立つ。
もうすぐ午後十一時になろうかという頃、やっと二人が部屋から出て来た。出て早々、憔悴したようなノアリスがセイルへと抱き着いて来る。気丈なノアリスがこんなに疲労困憊しているのだから、相当白熱した談義となったのだろう。エルフ族の未来をかけた一大事だ。そう簡単なことではないだろうと思ってはいたものの、こんなノアリスを見るのは珍しい。
十一時半を回る頃、鷹臣が神社へと姿を現した。これで最後なのだから、もっと早く来てくれるだろうかと期待していたが、ギリギリでの到着だ。これでは、ゆっくりと別れを惜しむ時間すらない。ジトリと鷹臣をねめつけていると、相変わらず煙草をふかしながらポンポンと頭を撫でられる。
鷹臣は分かっているのだろうか。もう二度と逢えないということを。それなのに、こんなにのんきにすら見える態度を取られては知らないのではないかとすら疑ってしまう。
鷹臣のことだから、セイルが帰るとなれば、もっと反対するかと思っていた。しかし、全くと言って良いほど何も言わない。本当はそこまで好かれていないのではないかとすら思えてくるではないか。
もうすぐ満月が頂点に昇ろうかという頃合いになってしまった。いよいよ別れの時がやって来たのだ。
何も最後らしい言葉など話せなかった。周囲に悠真やノアリスたちもいたし、相変わらず鷹臣は寡黙なままだ。昨日、目覚めた時の方が余程、情熱的だった。
このままで良いのだろうか。何も言わず、永久の別れをしてしまって良いのだろうか。無意識の内に隣に立つ鷹臣のスーツの裾を引っ張ってしまっていた。
「何だよ。寂しいのか?」
何事もないかのように平然と告げてくる鷹臣の言葉に少なからずともショックを受ける。そんな他人事のように言ってくるとは思わなかった。
「寂しいに決まってるじゃないですか。鷹臣さんは寂しくないんですか?」
「別に」
スパーと煙草をくゆらせる姿は全くいつもと変わらない。
徐々に涙が込み上げてきた。あんなに愛を交わし合ったのに、独りよがりだったと分かり悔しくなる。
しかし、それ以上にやっぱり鷹臣のことを好きな気持ちが大きすぎた。
鷹臣はボロボロと泣き出すセイルの肩を抱き、ポンポンと頭を撫でてきた。
「お別れ……なんですよぉ……?」
「そうだな。さっさと別れ言ってこい。悔い残さねぇようにな」
「なん、で……そんなそっけないんですかぁ……!」
「俺にとっては別に思い入れもねぇしな」
この一言には大いに傷ついた。通じ合っていたと思っていたのは自分だけだった。そう確定したことで心の傷は大いに深くなる。
「ばかばかばかぁ! こん、なに……大切、なのにぃ!」
「ああ? 何なんだよ。俺に妬かせたいのか?」
「最後くらい、もっと大切にしてくださいよぉ!!」
「だから、ちゃんと別れ言って来いよ、テメェの兄ちゃんに!」
「…………へ?」
ポカポカと鷹臣の胸を叩き続けていたが、その一言に手が止まる。怪訝な顔で見上げるセイルに、鷹臣が顔を顰めながら悠真を呼びつけた。
「おい、まさかとは思うが、こいつにちゃんと説明してねぇのか?」
「あ……ごめん……。あっちの世界行った後のことばっかりになっちゃってて、もしかしたら、セイルちゃんに説明するの……忘れてた……かも……」
愛想笑いをしながら後頭部を掻く悠真にキョトンとする。目の前の鷹臣は盛大に溜め息を吐き出していた。
そこから説明されたのは、転移に関する仕組みであった。文献によれば、双子の片割れがもう一つの世界に残ることで、エルフの世界との『血の繋がり』というのができるらしい。その繋がりがあることで、悠真は日本へと戻れるのだという。
つまり、帰れなくなったのはセイルの方であり、永久の別れになるのはノアリスとであった。
「そんな大切なことは、もっと早く言ってくださいよーーーーーーーー!!!!!!」
「だーかーらー、ごめんってばー! すっかり伝えた気になっちゃってたんだよぉぉ!」
ノアリスの落ち込んだ様子は、血を分けた双子の弟との惜別に対してであったと知り、愕然とした。
「すまない、セイル……。お前だけを犠牲にすることになるのは変わらなくて……」
ギュッと抱き着いてくるノアリスを抱き返す。
本当の別れの相手がノアリスであったことはもちろん寂しい。
ただ、里で身を投げた時にはもうエルフの世界との別離を選んだのだ。こうやって別の世界で再び会えたことの方が奇跡である。
「大丈夫だよ、ノア。父様やミア、セイランをよろしくね。私は元気にしてたって伝えてほしい。それに、私は会えないけど、子供を大切にね。私もずっとここからみんなの幸せを祈ってるから」
額同士を擦り合わせる。鷹臣とはまた違う、この逞しい体躯とももう会うことはないのだろう。寂しくはあるが、みんなが元気で過ごしてくれるのであればそれで良い。
里にも大切なものはたくさんあるが、この世界でも手放せない物がたくさんできてしまったから。
「さあ、それじゃあ、セイルちゃん、しばらくは神社のこと、頼んだよ。全部終わったらまた戻って来るからさ。では、転移の舞とやら、お願いするね!」
分厚い本を胸に抱き、悠真が興奮しながら期待の眼差しを寄せて来る。確かに、もう間もなく満月が頂点にかかる。急がねばならないだろう。
神楽のない、衣擦れの音だけの舞。あの時は一人で舞ったが、今、ここには大切な人たちがいる。
里に伝わる舞を踊り切ると、二人は一気に池の中へと飛び込んだ。ブクブクと空気の泡がしばらくたっていたが、それもすぐに消えてなくなった。
満月だけが映る水面。ユラユラと金色の丸が揺らいでいる。
「無事に……つけましたかねぇ……」
「ダメならこっち戻ってくんだろ。こんな池なんだから、そこまで深くもないはずだ。戻ってこねぇってことは、上手くいったってことだ」
心配していない様子の鷹臣は相変わらず煙草をくゆらせている。旧知の仲の友がこんな破天荒なことに巻き込まれているというのに、何とも気楽に見える。
「悠真さんのこと、心配じゃないんですか?」
「する訳ねぇだろ。あいつだぞ? こんな程度でくたばるようなタマじゃねぇよ。何年俺と一緒にいると思ってんだよ」
フッと笑う姿は様になる。信頼しているからこそ、何も心配などしていないのだろう。それなら、セイルも彼らを信じる他ない。
「鷹臣さんはいつから私が戻らないって知ってたんですか?」
「昨日。悠真から聞いた」
「なら、教えてくれても良かったじゃないですか」
「こっちはこっちで悠真の野郎が言ってると思ってたんだよ。まさか知らねぇと思わねぇだろが」
プゥと膨れると、その頬を指で潰された。
昨日から知っていたのであれば、昨夜からの態度も頷ける。よく考えれば、この鷹臣が恋人と離れ離れになることを良しとするはずがない。
「鷹臣さんはどこまで何を知ってたんですか?」
「あらかたは話に聞いた。双子が生まれるのは、聖域を張るために異世界から神官を呼ぶために生まれるんだろ?」
「……………初耳ですが」
呆然とする。そんな話聞いたことがない。
しかも、それをまさか鷹臣の口から聞かされるとは思ってもいなかった。
「えっと、それじゃあ、結界の石が朽ち果ててたのは……」
「そんなもん、経年劣化だろうが。四千年だろ? 普通に考えてんなもんもつはずねぇだろうが」
「……じゃあ、私、生まれてきても良かったんですね……」
脚から力が抜ける。ストンとその場に腰を下ろした。
止まっていた涙がジワリと湧き上がる。
ずっと自分のことを責め続けていた。生まれてはいけない禁忌の子。忌み嫌われるべき存在。親しい人たち以外からは後ろ指をさされ、陰口をたたかれる。睨まれる視線は憎悪で染まり、全ての凶兆の根源とされてきた。
存在を許されるというのがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。ポロポロと零れる涙を止められない。
「ったく、相っ変わらず暗い奴だな。正々堂々としてりゃ良いだろ。むしろ、里の奴らにとって、お前は救世主とかそんな位置づけだろうが。悠真の野郎が行ったんなら、絶対にお前のことを悪く言う奴なんて許さねぇだろうし、胸張って生きてりゃ良い」
鷹臣がセイルの隣に腰を下ろす。胸元に抱き込まれ、その温かさに包まれて更に安堵の涙を流す。鷹臣が吸う煙草混じりの香水の香り。嗅ぐだけで落ち着くようになったのはいつの頃からだっただろうか。
今宵は満月。明かりの少ない境内でも、月明かりが照らしてくれる。頂点から少しだけ西へと傾いた月光の下、涙が止まるまで鷹臣は黙ってセイルの傍についていてくれた。
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