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第5話
第5章 抗争の兆し
噂は、湿った紙みたいに指に張り付いて離れない。
「若頭に、綻び」
最初に口にしたのは誰だ。名前も顔も掴めないまま、囁きは組の隅々まで染み込んでいく。会合の空気は微かにざらつき、牙琉が視線を巡らせるたび、誰かがほんの少しだけ目を逸らした。
「……内部の資金の流れを、もう一度洗い直せ」
低く短く告げると、幹部の一人が口を開く。
「若頭、最近……お体の具合がすぐれないのでは」
探りの声。
牙琉は椅子の背にもたれず、指先だけでテーブルを一度、鳴らした。乾いた音が、余計な気遣いを切り捨てる。
「俺の体より先に、やるべきことがあるだろう」
会合は滞りなく終わる。終わった、ことにする。
部屋を出た瞬間、冷たい廊下の空気が胸に刺さった。息が、どこかうまく入ってこない。
――命令が、欲しい。
その自覚は第四章の夜に言葉になったばかりだったのに、もう、日中の影にも形を変えて現れる。
喉に残る渇きの正体を誤魔化すように、牙琉はネクタイを少しだけ緩めた。
ポケットの中のスマートフォンが震える。
【天堂】
画面に浮かぶ二文字が、胸の奥の何かを瞬時に整列させる。
『来い』
たった一言。なのに、呼吸がやっと、規則正しく戻ってくる。
――命令。
それがあれば、前へ進める。
◆
控え室のソファは、夜の匂いが染みついている。
ルイは窓の外に脈打つネオンを眺めていて、牙琉が入ってきた気配だけで笑った。
「おかえり、若頭さん」
「……噂が出ている」
靴を脱ぐ手つきにも、牙琉は威圧の名残を残そうとした。だが、その試みは部屋の空気にすぐ溶ける。
「俺に、綻び。そんな話が歩いている」
ルイは肩をすくめ、振り向く。
「へぇ。じゃあ正解じゃん」
「正解?」
「お前の“外側”には綻びが出た。けど“内側”は、俺が縫い合わせてる」
ルイは立ち上がり、ゆっくり近づく。
「組も威厳もどうでもいいだろ? 結局お前、今も俺しか見てねぇ」
牙琉は一歩、退く。壁がすぐ後ろにあった。
追い詰められたのは、立場じゃない。呼吸だ。
「……違わねぇ。違わねぇが……俺は若頭だ。責任がある。守る相手がいる」
「じゃあ、その顔のままでいいよ」
顎に指がかかる。軽く、上を向かせられる。
「若頭の顔のまま、俺の命令で落ち着け」
喉が鳴る。
牙琉は目を閉じかけ、ルイの声に押し留められる。
「目を閉じるな。俺だけ見ろ」
視界が、彼だけで満たされる。
言葉が来る前の沈黙に、体の芯がふるふると震えた。
「……命令を」
自分で乞うた途端、肩の力がほどける。誰よりも軽蔑していた弱さに、救われるという矛盾。
ルイは笑みを深くし、指先で牙琉のネクタイをつまむ。
「まず――黙れ」
短い命令は、刃物より早く全身に行き渡る。
唇が塞がれ、浅い息が絡む。
噛むでもなく、舐めるでもなく、奪うでもない。支配そのものが口移しされている。
牙琉の背中が壁に温度を吸われる。動かない。いや、動けない。命令に従うことが、呼吸の次に自然な動作になってしまっている。
唇が離れ、耳たぶに熱が触れる。
「いいか。声を我慢しろ」
震えが喉でつかえる。
命令は鎮痛剤であり、鎖でもある。抑え込まれた声が反響して、胸の内側が甘く鳴る。
「次。目を逸らすな」
視線を逃がそうとした瞬間に縫い止められ、羞恥と安心が一度に押し寄せる。
「最後。俺だけを考えろ」
世界が、要約された。
幹部の顔も、資金の流れも、噂の温度も、すべて遠のく。残るのは、指示と実行だけ。
責任の重みは消えない。だが、それを担ぐ肩に、合図が置かれるだけで、重さは持ち方を変える。
ルイはネクタイを引き、首元に口づけを落とす。
鋭さのない、やわらかな口づけだ。
なのに、牙琉の膝から力が抜ける。
「な?」
ルイは囁く。
「お前は命令があれば、いくらでも強くなれる。――俺の命令が」
「……俺は、俺は……」
言葉が崩れ落ちる。若頭の辞書から零れ落ちた音は、犬が主の足元に置く玩具みたいに無邪気で惨めだ。
「俺は、もう……」
「戻れねぇ、だろ」
ルイは先回りして微笑む。
「いい子だ。――動くな」
軽い命令が、血圧をわずかに上げる。
拘束具なんて要らない。言葉が、骨をやんわり縛る。
呼吸の数を数えながら、牙琉は自分が落ち着いていくのを感じた。
責任の山の上で風に吹かれているような不安定さが、命令のたび、地面に着く。
「……落ち着く……」
やっと出た言葉は、掠れていた。
「命令があると、俺は……楽になる」
ルイの親指が唇に触れる。
「言え。誰の命令が欲しい?」
「……天堂、ルイの……」
言ってしまえば、世界の輪郭がはっきりする。
ひとつの中心に沿って、すべてが回り始める。
「よし」
短い承認が、褒美のように甘い。
ルイはもう一度だけ、牙琉の口を塞いだ。今度は深く、でも乱暴ではない。
鉄臭い夜を知らない舌の熱が、心の奥の冷たい部分を溶かしていく。
――この安堵に比べたら、噂なんてただの音だ。
牙琉の中で、冗談みたいな比喩が浮かんでは消える。
責任と欲望は対立していない。ただ、命令という橋が要るだけだ。
その橋を架けられるのが、彼だけだということが、いちばんの背徳。
沈黙の中で、スマートフォンがテーブルで震えた。
ルイの視線が一瞬だけ向かい、すぐに戻る。
「出るな」
命令。
牙琉は頷く。
たとえ相手が誰であれ――いや、誰であっても、この今を中断することはできない。
震えは、すぐ収まらなかった。二度、三度。
四度目で、ルイが顎を掬い上げたまま、肩越しに画面を覗き込む。
「こっちは面倒そうだな」
着信表示:幹部・梶。
ルイは牙琉の唇から指を離し、かわりに視線で命じる。
「息を整えろ。取れ」
命令が背骨を通って、肺に届く。
牙琉は応答のボタンを押した。声は若頭の音色に戻っている。命令の魔法は、必要ならいつでも切り替えを助ける。
「――梶か。どうした」
『若頭! 敵対の銃撃がありました。場所は第三倉庫、見張りが二名やられて――』
報告が、部屋の温度を一瞬で下げる。
牙琉の視線がルイに泳ぐ。
彼は動じない。むしろ、穏やかに笑っている。
「行けよ」
それは許可であり、同時に背中を押す命令でもある。
「行って、戻ってこい」
短い言葉が、刃より強い。
電話の向こうに向けるべき言葉は、もう決まっていた。
「十分で到着する。現場は押さえておけ」
通話を切る。
牙琉は一歩、二歩と扉へ向かい――そして、振り返った。
「……ルイ」
名を呼ぶ声が、少しだけ震えた。
責任の重さと、欲望の温度が胸の中でぶつかって、火花を散らす。
「俺は――」
「わかってる」
ルイは先に答える。
「立て。若頭として。戻れ。俺の犬として」
その二文だけで、靴底に道が生える。
扉に手をかける。
廊下の空気は冷たい。冷たいからこそ、体の中心の熱で自分の輪郭がはっきりする。
足が自然に前へ出る。命令が、正しい方向を指している。
エレベーターに乗り込み、ボタンを押したところで、牙琉の口が勝手に動いた。
誰に聞かせるでもない、独り言。
「……ルイに会わなきゃ」
銃声の報を背に、若頭は夜へ駆ける。
支配される言葉を胸に、支配するための戦場へ。
その矛盾は、もう矛盾ではなかった。命令が一本、橋を架けている。
渡る先は、決まっている。
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