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第11話
俺は、椅子に拘束されているタツヤさんを前に完全に萎縮してしまっていた。俺はタツヤさんを見下ろしている筈なのに、逆に見下されているようだった。
俺を何度も暴行したタツヤさんだ、許せない気持ちは勿論ある。でも、少しだけだが討伐の時に見た俺を心配する姿が頭をよぎって、どうしても切り捨てられなかった。
「それで? 見事解決してみせたお前は何を望むんだ?」
(魅了の力が頭を侵食してしまっているから、タツヤさんを……こんな酷い人を立ち直らせようとしてしまうのだろうか)
必死に振り払っているつもりだが、記憶を思い出してからじわじわと魅了の力が効力を増して……いや戻ってきているのがわかる。
自分の目測が甘すぎた事から、やはり今の自分は正常な精神状態ではないと思い知った。故に、俺は口を閉ざしてしまった。今、何を言うべきかわからない。
呼吸も荒くなり、視界が揺れてきた。ふらふらする気もする。
「マスターリョウ、一旦退出しますか?」
A001さんに声を掛けられる。それに緩慢に顔を動かし、A001さんの方に向く。アンドロイド故か表情は変わっていなかったが、俺を気遣ってくれているのは伝わってきた。
「……そうさせてもらいます。そうだシュンゲツさんに、話を」
「……扉越しなら許可します」
「ありがとう、ございます」
咄嗟に思いついた事だったが、今の助手はシュンゲツさんなんだ。一緒に解決策を考えるのは良い手だと思う。
俺は取調室から出ようと扉に向かって歩いた。二人の視線を感じながらその取っ手に手を掛けてさあ開こうとした時。
ガラッ
突然目の前で開いた取調室の扉。反射的に取っ手から上へと視線を向けると、そこにいたのは。
「ヒズミダさん⁉ 何でここに」
驚く俺、勝ち誇った顔でいるタツヤさん、突然の闖入者を拘束しようと動くA001さん。そして、
「すみませんっす、マスター」
「え、」
俺の目をまっすぐ見てくるヒズミダさん。発言と同時に目を合わせられ、その目が妖艶に光ったのを自覚した。
何かまずい、と自覚した時にはもう遅かった。
急に目の前が真っ暗になった。
◆
「……ッ⁉ ど、どこだここ⁉」
気付くと、俺は真っ黒な空間で一人立っていた。先程まで目の前にいた筈の人達も、いた筈の場所の景色もどこにも見当たらない。思わずキョロキョロと見渡してから足を動かして調べようとしたが、
「⁉ あ、足が動かない…⁉」
足が地面から……と言ってもどこも真っ黒な空間で地面はないかもしれないが……まるで縫い付けられているみたいに離れなかった。そもそもこれは足があるのか? 真っ暗で真っ黒で、自分の体と周りが完全に溶け合ってるように見えてしまって、ゾッとしてしまった。
何とか足を動かそうと藻掻いていると、目の前に誰かが立った気配がした。顔を上げてみると薄らぼんやりと人の形をした何かが目の前にいた。低い視力で見ている世界みたいにぼんやりとしている。俺が目を細めてそれを捉えようとピントを合わせようとすると、徐々にそれは形を成していき、言葉を発した。ぼんやりしていたものがくっきりする。
「やあ、初めまして……っていうのも変な話ですね。君も僕なんだから」
「……え、お、俺……?」
「はい、君ですよ」
目の前には俺がいた。俺と同じ顔をした……目の前に別存在として立っているが、間違いなく自分がいたのだ。……何で?
「状況が飲み込めないみたいですけど……理解する時間は無いんです。ごめんね」
その人物は混乱している俺を見て、本当に申し訳ないという顔をして謝ってきた。混乱しつつ、なんとかこの自分としか思えない人物が誰か考える。
「トモ、か……?」
「うん、そういう認識で良いですよリョウさん。それももう何の意味も無くなりますが」
俺と同じ顔をしていて俺と同じ存在ならトモではないか、と考えたが合っていた……という事でいいのだろうか。しかし、トモの言っている事があまり理解出来ない。何の意味も無くなるって何だ。
(……? 先程よりもトモが近くにいる気がする)
「何で……確かに俺はお前を自分としてじゃなくてトモとして見てはいるが、それは認識の問題で実際は俺の過去で……こんな風に向かい合って話すなんて出来ない筈で」
そうだ、感情に飲み込まれそうにはなっているが心が二つあるわけじゃない。思い出した事によって俺の精神を蝕んでいる魅了の力が侵食してくるイメージがトモの姿をとっているだけだ。
まだ混乱している俺を、トモはとても憐れんだ表情で見ている。
「一応これだけ言うとここは君の心の中のイメージみたいなもので、現実ではきっと数秒の事なんです。すぐに霧散するだろうから理解しなくていいんですよ」
「……っ、な、何、何だか、……」
目の前に立っていたトモがどんどん大きくなり、視界いっぱいトモに覆われて、どんどん自分との境目がわからなくなる。頭の中が何かに覆われるように曖昧になっていく。複雑な事が、かんがえ、られない……。
「さよなら『リョウさん』。死ぬ訳じゃないから……一緒になりましょう」
「え、」
ああ違う、トモがどんどん大きくなったんじゃない。俺が小さくなって、トモの中に吸い込まれていっていたんだ。もう俺の視界は半分はトモのお腹の部分、半分は真っ黒な空間しか見えていない。俺は、トモに吸収さ、れ……。
「ち、が……お前、俺の、ぼ、くの顔をしてるけど……トモじゃ、な……」
「あ、なんだ気づいてはいたんですね。僕はいわば魅了の力の具現ですよ。まあ気付いた所で何も出来ませんよ」
「……ぁ、」
だめだ、何もかんがえられない。
「……ン、……ツさ……」
……俺は誰の名前を呟いたんだろう。とぷん、と何かに沈む感覚を最後に俺の意識は、真っ黒、に……。
………………。……………………。
「お前本当に抜けてるなあ。わざわざヒズミダに面会したならその場で魅了解いてもらえば良かったのに。真実に到達した高揚感で思いつきもしなかったのかよ、バーカ」
地下牢から解放されたヒズミダを脅し取調室に来るように、扉を開けて驚いた瞬間に魅力を最大限に強めるように、それを止めようと駆け寄りそちらに意識が向いているアンドロイドの背後から電撃で電気信号系統を狂わせるように。
思い描いた通りに事が進んだ、と男は笑った。
◆
部屋に軟禁されてから二週間が経過した日の朝、
「シュンゲツさん、もう出ても大丈夫だそうだ」
何の前触れもなくオレは解放された。
解錠された扉を開き、外に出る。そこにはアンドロイドのスタッフと共にサンジロ……ではなく、サンジュウロウさんがいた。予想外の人選に目を瞬く。
手枷を解錠され、今出てきたばかりの扉を閉め、オレは二週間ぶりに廊下に出た。やはり、部屋の中より圧迫感が無い。ようやっと解放感を味わう事が出来た。
「……良いんですか?」
「ああ、マスターさんからも運営からも許可が出た。もう自由にしていい」
答えるサンジュウロウさんの顔色は優れなかった。それに、少し嫌な予感がした。何故マスターではなくサンジュウロウさんが?
側にいたアンドロイドはオレが部屋から出た事を確認するとピピッという電子音を発してからこの場から離れていった。
(……?)
何かいつもと違う様子を不思議に思い少し首を傾けた。しかし、求めていたマスターの姿がこの場に無い事への疑問の方が大きかった為、その違和感は頭の隅に追いやってしまった。
「リョ……いえ、マスターはここにいないんですか」
去っていくアンドロイドの背中を見ながらサンジュウロウさんに問う。
「……」
アンドロイドの背中が見えなくなった為、視線を元に戻す。しかし、目を合わせてもサンジュウロウさんは答えない。嫌な予感が確信に変わる。
「……オレが閉じこもっていた間に何かありませんでしたか?」
「……それは」
答えづらそうにしていたが今ので確信した。解放感で浮かれている場合ではない。サンジュウロウさんの顔色が曇るような事が起きたのだ。
「何か、あったんですね」
サンジュウロウさんは静かに頷いた。
「……まず言わなければならないのは、君はもう……いや、残酷だが実際に見た方が良い」
「……」
サンジュウロウさんは身を翻し、廊下を歩く。
「案内する、執務室にいる筈だ。君を連れてくるようにも言われている」
少し振り向いて声を掛けられた為、オレは無言でその背中を追いかけた。
寮を出て、組織の施設に入りそのまままっすぐ執務室へと向かう。道中サンジュウロウさんもオレも口を開かなかった。空には朝の太陽が顔をのぞかせており、窓に朝日が差し込んでいるというのに、どこか空気が重かった。
執務室の扉まで辿り着くと、サンジュウロウさんが扉を三回ノックをした。
「マスターさん、リーダー。シュンゲツさんをお連れした」
「!」
「入っても大丈夫ですよ」
更に嫌な予感がした。
「それでは……私はこれで」
「……はい」
サンジュウロウさんが会釈して立ち去って行くのを見届けた後、オレは再度扉に向き直った。
今扉の向こうから聞こえたのは間違いなくマスターの声だった。そして、先程サンジュウロウさんは言った。『リーダー』と。
(あの野郎がここにいる……)
未だにあの日の光景と怒りはオレの脳内にこびりついている。ふつふつとまた怒りがわいてきた。嫌な予感と怒りで頭がどうにかなりそうになりながら、オレは扉を開けた。
扉を開けた先には予想通りマスターとタツヤの姿があった。二人とも、机をはさんだソファーに対面で腰掛けていた。オレが来るのを待っていたようだ。どこか高圧的なタツヤの笑みにまた怒りがわいてきたが
「……戻った、マスター」
タツヤの事は無視してマスターに話し掛ける。本当はリョウと呼び掛けたいがタツヤの手前で呼びたくなかったのでやめた。
「はい、シュンゲツさんおかえりなさい」
ふわ、と柔らかく笑ってくれたマスターに思わず少し赤くなる。数日前部屋で謹慎中に扉越しに話した事はあるが顔を見るのは二週間ぶりだ。嬉しい。可愛い。
嫌な予感が消えた訳では無かったが、その微笑みに少しだけ癒された。気持ちが僅かに上向きになった。
「助手なのに不在にして悪かった。今日から復帰する」
助手としてこなさなければならなかった業務がきっとたまってしまっているだろう。それを詫びて、さっさと片付けようと声を掛けた。
「……クッ」
「……何だクソ野郎」
マスターと話していたらまるで嘲笑うかのような笑い声が聞こえてきて、オレはタツヤの方を睨みつけた。しかしタツヤはオレの睨みなど屁でも無いようで、まるで馬鹿を見るような態度でへらへらしたままだ。無性に腹が立つ。
「いーや何も? それよりマスター、言う事があんだろ? さっさと伝えろ」
「ハイ、タツヤさん」
タツヤのまるで命令のような言い方に、マスターは嬉しそうに返事をした。
(……?)
自室を出た時と、執務室の扉の前と、そして今。また嫌な予感がした。何かまるで自分を置いて知っている筈の世界が一変してしまったかのような、そんな感じがした。
暑い訳ではないのに、一筋の汗が流れ落ちる。
「シュンゲツさん」
「!」
マスターに名前を呼ばれて、妙にニコニコしているマスターの方を見る。幸せそうな顔をしていて、嫌な事なんて起こってませんよ? という雰囲気を醸し出しているのに、そうは思えなかった。まるで今から死刑宣告でもされるかのような心持ちだった。
「シュンゲツさん、僕が 記憶を失っている間のサポートありがとうございました。記憶はしっかり戻ったので僕はもう大丈夫です」
マスターは礼をするように頭を下げた。
「数日前から貴方に代わってタツヤさんを助手に迎え、新体制で組織を引っ張っていく事になりました。シュンゲツさんの今までの働きに感謝します」
顔を上げてにっこりと笑うマスター。
対してオレは、目を見開いて固まったまま微動だに出来なかった。言われた言葉が頭に入って来なかった。理解を拒んでいた。
心臓が激しく鼓動している。目の前の人間は誰だ。マスターにしか見えない。マスターなのは間違いない。だが、だが……果たしてリョウなのか? この人は。
「……リョ、ウ……?」
絞り出した掠れた声で名前を呼ぶ。それを聞いたマスターは静かに首を横に振った。
「いいえ、僕はトモです。確かにリョウとしての記憶はしっかりありますが……僕はそれを記憶ではなく記録として残す事にしました」
『僕はトモです』。『記録として残す事にしました』。
言葉の中でこの二つの言葉が頭の中を巡る。それはつまり……どういう事なんだ? 頭の中に警鐘が響き渡る。
一歩、後ずさってしまった。逆にマスターは立ち上がってこちらに近付いて来た。
「貴方の助手の任は既に解けています。これからは組織の一員として任務に励んでください」
マスターはまるで誘惑するように、一歩後ずさったオレに近づいて胸にしなだれかかってきた。
「……期待していますよ。うまくやれたら、ふふっご褒美あげちゃってもいいです」
「……、…………」
絶句する、とは今の状態の事を言うんだなと頭の片隅の変に冷静な自分が考えた。
固まってしまったオレは、恐る恐る視線を自分の胸に顔を擦り寄せているマスターに向ける。オレが見ている事に気がついたのが、目を合わせてきてニコリ、と淀んだ目で笑った。
まだ理解が追いつかないままだが、自分が数カ月間共にいたリョウがいなくなってしまった事は、その目を見て理解出来た。そして、単にトモに戻ったという訳ではなくもっと恐ろしい事が起こっている事も。と同時に、マスターを変異させた元凶への怒りで視界が真っ赤に染まった。
その怒りのまま、マスターを押し戻して悠々とソファーに座っていたタツヤに向かっていきその胸ぐらを掴んだ。視界の隅でマスターが尻もちをついていたのを捉えたが、それを気にしている場合ではなかった。
「タツヤぁ‼ 貴様リョウに……トモに何しやがった⁉」
「何って?」
胸ぐらを掴まれて怒鳴り散らされてもタツヤの余裕の態度は崩れない。それに更に怒りが増す。
「今のトモは、以前のトモとも性格が違う‼ 様子がおかしくなった時より更におかしい‼ トモはあんな……下劣な事を言う奴じゃない‼」
リョウであろうとトモであろうと、マスターは基本お人好しで真面目で優柔不断気味であり、節度ある軸はぶれていなかった。しかし先程のマスターは何だ。娼婦にでもなったかのような仕草に、頭に血が上ってしまった。あんなものはマスターではない。何があって、あのマスターがここまで変わってしまったのだ?
「ハッ、お前が知らなかっただけだろ。アイツの全部を知ってる訳でもないのに知った気になってさあ」
「そんな事あるわけない‼」
何をたわけた事を言っているんだこの男は!
胸ぐらを掴む手に更に力を込める。しかしどれだけ力を込めようと、睨みつけようと、タツヤの余裕の態度は崩れない。ここまで崩れないなら圧縮の能力でその体ごと潰してやろうかとも思った。しかし、次は無いと念を押され謹慎までくらったばかりだ。能力使用に抵抗感がある。少し考えてから、使用はやめる事にした。
本当に何なんだこの男は、と怒りの中に戸惑いが混ざる。いつもいつも人を上から見下して、マスターを自分のものにように扱って……。
「いいか? トモは聖人君子でも何でもない、ただの人間なんだよ。色んなものに影響を受けてそれで変化していく」
タツヤは憤慨しているオレを窘めるように語りかけてくる。しゃべりながら右手をあげて指し示した指の先には、オレとタツヤのやりとりをニコニコと微笑みながら見つめているマスターの姿がある。止めようとすらしていない。命令が出るまで嬉々として待機している。
そんなマスターの様子にゾッとする。完全に変わってしまった様子に、らしくない言動に。アレがマスターだなんて信じたくなかった。確かにアレはマスターなのに、先程まで抱いていた筈の熱を伴った感情をアレに向ける事が出来ていない。それに気がついてしまって、いたたまれない気持ちになってしまった。
(まさか、そんな。変わってしまった姿を見ただけで、……いや、オレはちゃんとマスターを、リョウを、トモを愛している筈だ、間違いない。なのに……オレはあれをマスターだと思えていない…!)
「……」
思わず黙ってしまった所に、タツヤの追撃の言葉が飛んできた。
「落ち込んでた所を助けられてトモに幻想を抱いて、その幻想にうつつを抜かしていただけだろうお前は。お前は一度もアイツ自身を見ていないんだよ。だから少し様子が変わっただけでそんなに取り乱すんだ。……なあ? 勝手に失望して勝手に拗ねて離れた前科者さんよ」
今のオレの気持ちの変容を見透かされ、過去の過ちまで持ち出されて動揺してしまった。タツヤが言っている事全てが当てはまっている訳でない。ないが、あのマスターに元のマスターと同じ熱量の感情を抱けているかと言えば嘘になってしまう。
吐き出された言葉は確実にオレの心をえぐった。胸ぐらを掴む手が震える。手だけじゃない、ガチガチと歯がぶつかる音がする程に口も震えている。
しかしそんな自分を認めたくなくて必死に否定した。
「そんな、そんな事は無い! オレは本当に……トモを、リョウを……愛して、……あい、して……」
言葉を紡ぐほどに、伴った感情がない空虚な言葉しか出てこない事に愕然とした。それを認めたくなくて必死になる程、余計に。
自分が、マスターのおかげで変わったと思い込んでいたが以前拗ねて距離を取っていた頃から、……子供の頃から何も成長していない事を思い知って、涙が流れた。
タツヤの胸ぐらを掴んでいた手から力が抜けてしまって、離してしまう。
「離れろよ鬱陶しい」
脱力したまま、座っているタツヤの側で項垂れていたら右手で押しのけられる。抵抗する力もなく、押された勢いのまま床にへたり込んでしまった。
オレを馬鹿にしたようにケラケラ笑うタツヤの声を聞きながら、俯いて床に座り込んでいる。その状態で、力なく声を発した。
「お前、何でそんなにマスターを……トモの身体も、精神も、取り返しがつかない程ぐちゃぐちゃにしたんだ……?」
「……別に俺は何もしてねぇけど?」
返ってきたタツヤのとぼけた言葉に、どの口が言うんだと乾いた笑いがこぼれた。
「そう言ってるが、どうせお前が何かしたんだろう。オレにはわからない……何でそこまでソイツを壊して、自分の都合の良い人間に作り変える事が出来たんだ……? もう、前のトモの面影も無いじゃないか。ソレはトモと言えるのか……?」
「……」
タツヤは何も喋らなかった。ポツポツと言葉を紡いでいくオレの声だけが執務室にこだまする。
俯いているので見えないが、きっとマスターも先程のニコニコとした顔のまま微動だにせずに口を閉じているのだろう。
「お前にとっては気に入らない人間を壊せれば誰でも良かったのかもしれないけどな、オレにとっては……唯一無二の存在だったんだよ………だったんだ、よ」
過去形でしか言えない自分に嫌気がさした。好きな筈だ、愛している筈だと自分で思い込もうとしても、先程胸にしなだれかかってきた様子を思い出しただけで、……嫌悪感が、わいてきてしまう。自分でも信じたくないが、オレのマスターへの気持ちが先程のやり取りだけで、あそこにいる現在の作り変えられたマスターには向ける事が出来なくなったのだろうとわかった。
オレはそんなに、薄情な冷たい人間だったのか。
「は、はは……はは……」
力なく笑う。自己嫌悪と、敗北感と、悲壮感……それらに押しつぶされそうだった。
「チッ」
暫くしてから舌打ちが聞こえた。ゆっくりと顔をあげる。タツヤがこちらを睨みつけていた。その目には怒りが灯っている。不思議に思いつつも睨み返す元気など無く、ぼんやりと見つめているとタツヤは突然立ち上がった。
そのままマスターの手を引っ張って執務室から立ち去って行くタツヤを、オレは止める事が出来なかった。その動きの軌跡を追って視線を動かし、変貌してしまいオレの知るマスターではなくなってしまったマスターの背中に手を伸ばす事しか出来なかった。
暫くした後、
「……いつか、絶対に、……オレの唯一無二の存在を、壊してしまったアイツを……殺してやる……それくらいしか、リョウに報いる事が出来ない……」
オレはようやく立ち上がって執務室から出ていった。
「リョウを、トモを、元に……戻す事なんて……出来るのか……?」
オレの心からの言葉は日が落ちて暗くなっていた廊下の静けさの中に消えていった。
◆
「タツヤさん、どうして苛ついているのですか?」
「別に」
執務室から移動した僕達は資料室にいた。適当な椅子に並んで腰掛けて、貧乏揺すりをしているタツヤさんの隣でその姿を見つめていた。落ち着きがない。
「でも口数が少ないですよ、タツヤさん本気で怒ると黙るじゃないですか」
「……」
タツヤさんがまた黙る。図星をついたようだ。少し愉快な気持ちになる。
こうして二人で何をするでもなく座ってるだけなのに、愛しい気持ちがどんどん溢れてくる。タツヤさんが光り輝いているように見える。件のタツヤさんは不貞腐れているが。
先程はシュンゲツさんに色々言われていたが、その中で痛い所を突かれた内容のものでもあったのだろうか。どう見てもタツヤさんが圧倒して追い詰めていたのに何が気に食わなかったのだろうか。少しの事でここまで気にしている。可愛い人だ。
「……シュンゲツさん、か」
思わず名前を口に出してしまった。ギロ、とタツヤさんに睨みつけられてしまった。ごめんなさい、と即座に謝る。
シュンゲツさんには記憶が混濁しておかしくなっていた時に色々助けてもらった恩がある為、僕個人としては悪感情は全く抱いていない。告白された事も覚えている。残念ながら僕にはそれに応えられる感情が無かったが。
シュンゲツさんは先程何やら僕を見て相当なショックを受けていたように見えた。嫌われてしまったのだろうか。少しだけチクンと胸が痛むが、僕はタツヤさんを愛してタツヤさんに愛されていればそれでいいので気にならなかった。
先程より更に機嫌が急降下しているタツヤさんに声を掛ける。
「タツヤさんあんまり怒って眉間にシワをよせていると癖がついて、」
「うるせぇなあ! 鬱陶しいから黙ってろ」
顎を掴まれて、顔を近づけられた。
(あ、キスしてくれるんだ)
黙らせる為にキスをしようとするなんて可愛いなあと嬉々として目を細め、口を閉じて精一杯応じる。心臓が激しく鼓動している。
今か今かとキスの感触を心待ちにしていると、
「……え、」
「!」
何故か自分の右手がその間に入り込み、タツヤさんの口を覆ってキスを阻止していた。自分では右手を動かしたつもりは一切無かった為、何故そこに手があるのかわからず混乱してしまう。
「あ……れ……?」
ゆっくりと右手を動かしてタツヤさんの口から離した。手をプラプラと揺らしてみる。しっかりと自分の意志で動いている。痺れとかも何も無い。
「何で、手が勝手に……」
そう手を見ながら呟く。その手がタツヤさんの手に掴まれたと思ったら、タツヤさんがまた顎を掴んで
「……気にすんな」
「っ、んむ」
今度こそキスをしてくれた。驚きはしたが、してくれたからいいかとそのまま身を委ねる。
「……ん、はっ……う、ん」
口を少し開くとタツヤさんの舌が入ってきた。その舌にも喜んで応じる。二人の唾液が混じった音が耳に響いてきて頭がぼんやりとしてきた。その幸せな感覚に身を委ねた。
タツヤさんに押さえられた右手が弱々しくも抵抗していた事には気付かずに。
暫く深いキスに興じ、離れてから酸欠と多幸感でうっとりとしながら僕は椅子にもたれかかっていた。
「……俺に都合の良いように作り変えて何が悪い。誰だって手に入れたい人には自分の理想であって欲しいに決まってるじゃねえかよ」
タツヤさんの姿も声も膜がはられたようにぼんやりしている。先程から何を言っているのだろう。
「でもお前はこんなになっても俺を拒絶するんだな。……ハハッ、そうでなくちゃな」
なんとか聞き取れた、どこか楽しそうな声色で紡ぎ出された言葉の意味は分からなかった。
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