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薄暗い部屋のベッドの上で、蘇芳はぼんやりと天井を見つめていた。長い間、夢と現をさまよっていた気がする。
ようやく意識が戻ってきたが、それでもまだ、頭の中に靄がかかったような状態が続いていた。
ここが自分のアパートであることは分かるが、どうやって大学からここまで帰って来たのか、覚えていない。どれくらいの時間が経過しているのかさえ、分からなかった。
――いや、分かりたくない……。もう、何も考えたくないんだ……。
再び目を閉じかけたその時、視界の端で、青いランプが点滅した。
蘇芳は重たい瞼を開き、その光のほうに視線を向けた。
光っているのは、床に落ちているスマートフォンだった。そういえば、何度か着信音を聞いたような気がした。
――まさか、紺野さん……?
そう思った瞬間、吐き気が込み上げてきた。
蘇芳は慌ててトイレに駆け込んだ。便器に顔を突っ込み、何度もえずいた。
嘔吐したものの、出たのは黄色がかった半透明の液体ばかりだった。それでも、胃が痙攣し、吐き気が止まらない。
蘇芳は胃液を吐き出し続けた。咽喉が灼けつき、涙が溢れ出た。
――紺野さんに犯された……。
徐々に甦ってくる記憶と、自分の吐瀉物を前に、悔しさと嫌悪感が込み上げてきた。
――好血症だと触れ回ってやる。
重低音の冷たい声が、頭の中で響いた。
好血症だと知れ渡ったら、これまで必死で守ってきた、平穏な学生生活は一気に崩壊するだろう。
――どうせ必死に取り繕ってきただけの人間関係だ。失ったところで……。
一瞬開き直りかけたものの、中学時代に受けた、数々の誹謗中傷や嫌がらせが脳裏をよぎった。
嫌がらせ、などという生易しい言葉では表現できるものではなかった。常軌を逸した攻撃に晒され続け、心身ともに疲弊してボロボロになった。あの頃のことは、二度と思い出したくなかった。
それなのに、心の奥底に封印したはずの忌まわしい記憶が、次々と甦ってきた。
蘇芳の心臓が、弾けるように激しく鼓動し始めた。胸が締め付けられるように痛み、呼吸すらままならなかった。
このまま無視を決め込んでいたら、紺野ならば、本当に触れ回るだろう。紺野が自分の意に沿わない相手に対して執拗な攻撃を加えることは、勝気な大島美鶴が転部に追い込まれた事実からも容易に想像がつく。
――そうなれば、また、あんな日々が……。
息苦しさと絶望感に、蘇芳は胸をかきむしり、嗚咽を漏らした。
やがて疲れ果て、ぐったりと床に横たわった蘇芳に残されたのは、諦観の念だった。蘇芳はのろのろと床を這い、スマートフォンを手に取った。
そこには、気の遠くなるほどの数の着信履歴と受信メール通知が残されていた。
*
蘇芳が足を引きずりながら、大学に向かったのは、翌日のことだった。妙に肌寒いのは、これから向かう先を本能的に恐れているからだろうか。
昼過ぎに下宿先のアパートを出て、普段なら30分も掛からずに辿り着くはずだが、紺野の研究室まで辿り着いたのは、すでに日が落ちていた。
「……失礼します」
なんとかドアを開いたものの、足がすくんで部屋に立ち入ることができなかった。蘇芳は俯いたままその場に立ちつくしていた。
「蘇芳君か。どうした? 入っておいで」
呼びかけられても動こうとしない蘇芳に焦れたのか、紺野は立ち上がると、近づいてきた。紺野に肩を軽く触れられた途端、蘇芳の身体に悪寒が走った。
――嫌だ、触るな……。
えずきそうになるのを、蘇芳は必死で堪えた。
「2週間ぶりか」
紺野は僅かに口の端を吊り上げた。
――そんなに経ってたんだ……。
「少しやつれたか? 大丈夫か?」
自分のした卑劣な行為には触れず、白々しい口先だけの気遣いの言葉を平然と吐く紺野に対して、蘇芳は不信感と不快感を募らせた。
――あんな風に組み敷いておきながら、どうしてそんなに平然としていられるんだよ……。
思わず上目遣いに睨みつけたが、紺野は普段と変わらない態度で、血液バッグを差し出してきた。
「あ……」
すっかり忘れていた血液バッグだったが、目の前に差し出されると、飲みたいという衝動が、蘇芳の意思を踏み躙るように湧き上がってきた。そんな自分を、蘇芳は反吐が出るほど嫌悪した。
「どうした? 要らないのか? まあ、構わないけど」
紺野が血液バッグをしまおうとしたその時、無意識のうちに蘇芳は横から奪うように、血液バッグに飛びついた。
紺野は僅かに苦笑を浮かべたが、血液バッグを取り返そうとはしなかった。
蘇芳は紺野に背を向け、一気に血を呷った。
口の中に広がる鉄の味に、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
呼吸を整えてから、恐る恐る振り返ると、紺野はいつも通り、パソコンに向かっていた。やはり紺野の態度は、前と変わらなかった。
――いや、違う……。
以前とは、確実に変わったことがあった。
紺野の身体から、もう、あの甘い香りはしなかった。
当然のこととは思いながらも、なぜか胸に穴が開いたような気がした。
しばらく紺野は蘇芳の存在を忘れたように、パソコンに向かっていた。蘇芳は、自分の足元に視線を落とした。一刻も早く、この場を逃れたかった。だが、勝手に部屋を出るのも躊躇われた。
紺野がキーボードを打つ手を止め、蘇芳に視線を向けた。
俯いていてもその視線を感じ、心臓の鼓動が大きく跳ね上がった。
「食事にでも行かないか?」
「……」
ずっと寝込んでいたのだ。食欲など、あるわけがなかった。だが蘇芳の反応など構わず、紺野は立ち上がり、部屋を出た。やむなく、蘇芳はその背中を追った。
何が食べたいか尋ねられたが、蘇芳はまともに反応できなかった。咽喉に何かが詰まってしまったかのように、うまく声が出せない。
それなのに、紺野は不機嫌になるどころか、今までにないほど上機嫌だった。勝手に注文された食事をまともに口にしようとしない蘇芳を見ても、紺野は機嫌を悪くする様子はなかった。
その鷹揚な態度に、少し違和感を覚えながらも、身体を縮こまらせ、嵐が過ぎ去るのを待った。
このまま解放してもらえるのかと思えば、紺野はいかにも高級そうなアパレルショップに入っていった。仕方なく、蘇芳もその後を追う。
まだ夏だと思っていたのに、店内は秋冬物の商品一色だった。
何を思ったのか、紺野が商品のトレンチコートを蘇芳の背中に掛けてきた。
「悪くはないな。でも、もう少し細身のほうがいいかな」
放っておいて欲しかったが、紺野は次から次へと、着せ替え人形のように蘇芳にコートを押し付けてきた。店員のお世辞にも、紺野の問いかけにも、蘇芳はほぼ答えず、言われるままに、黙々と渡されたコートをひたすら羽織っては脱ぐ動作を続けた。
「これにしよう」
紺野は勝手に決めると、店員に購入する旨を告げた。
「このままお召しになりますか?」
紺野が頷くと、店員が恭しい仕草で蘇芳にコートを羽織らせた。
「ここのところ、急に秋が深まりましたね」
店員の言葉に、蘇芳ははっと気づいた。
Tシャツにジーンズという夏の装いをしているのは、蘇芳だけで、他の人々は皆、もう秋の装いだった。
居たたまれない気がして、蘇芳は俯いた。
「……ありがとうございます」
隣に佇む紺野に礼を言ったが、紺野は何の反応もしなかった。声が掠れてしまったせいで、聞こえていなかったかもしれない。
――聞こえなかったのなら、それでいいか。
こんなもので手なずけられると思われているのだとしたら、悔しくて、礼など言いたくはなかった。
――僕にだって、心が……。
だが、もともと血液欲しさに拘わりを持っただけの相手だった。相手が血液を提供してくれる以上、それに相当する何かを差し出さなければならないはずなのに、蘇芳は愚かにも、一方的に凭れ掛かってしまった。
――そのしっぺ返しが、これか……。
研究室に戻った紺野は、当然のように蘇芳をソファの上に組み敷いた。慣れた手つきで、蘇芳の服を剥ぎ取り、冷たい指先で蘇芳の肌に触れる。
蘇芳は虚ろな眼を開いたまま、されるがままになっていた。もはや、抵抗することすら思い至らなかった。
蘇芳はぼんやりと、紺野の肩越しに白い壁を眺めた。
そこには、自らの業績を誇示するかのように、何枚もの表彰状が所狭しと飾られていた。
――栄光……。
蘇芳は、沈丁花の花言葉を反芻した。
――そうだ……。栄光と聞いて、真っ先に思いついたのは、この人のことだった。僕だって、本当は心のどこかでちゃんと解ってたんだろうな……。
紺野がエリート思考の塊で、気に入らない相手をとことん追いつめる酷薄な人物だということは、化学研究会のメンバーや須藤から散々聞かされていた。
それなのに、蘇芳はなぜか、紺野のことを本質的には優しい人間だと勝手に信じ込み、彼らから聞かされた冷酷な人物像を、わざと意識の隅に追いやってしまった。
――なんて愚かだったんだ……。
後悔しても、取り返しはつかないだろう。
それならもう、何も考えたくも、感じたくもなかった。
だが、身体の中で蠢く紺野の指の動きに、蘇芳の意識は容赦なく現実に引き戻された。
蘇芳は股を開かされ、後孔を指で弄られていた。
紺野の指は、敏感な粘膜を擦り上げながら、隘路を押し開き、拡げるように掻き回す。
蘇芳の背筋に、悪寒が走った。吐き気を覚えるほど、気持ちが悪かった。
だが、身体の奥底から、じわじわとむず痒さに似た快楽が沸き上がり、不快感を上書きしていった。
蘇芳は我知らず、紺野の指の動きに合わせて、喘ぎ声を漏らし始めていた。口の端から垂れ落ちる唾液を抑えることすらできなかった。
紺野はそんな蘇芳の醜態を冷たく一瞥しただけで、興味なさげに視線を逸らせた。
指が抜き取られ、代わりに突き立てられた灼熱に、蘇芳は悲鳴を上げた。杭を打たれたように、体が痙攣し、跳ね上がった。
紺野はまるで蘇芳の声が聞こえていないかのように、機械的な動作で蘇芳を突き上げた。
無理やり受け入れさせられる絶望感と、自身の願いに反して、容赦なく襲ってくる快楽に、蘇芳の涙腺が熱くなった。
――人形になりたい。
こんな風に犯されても、何も感じない、人形になりたかった。
――心なんて、砕け散ってしまえばいい。そうなれば、楽になれるんだから……。
蘇芳は、自分が一刻も早く壊れることだけを祈りながら、意識を手放した。
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