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「しばらく見なかったけど、なんかちょっと痩せた?」  大島美鶴は、小首を傾げながら、向かいに座る蘇芳に問いかけた。  学生会館のハンバーガーショップ店は、ちょうど昼休み中ということもあって、大盛況だ。  蘇芳は曖昧に笑ってごまかそうとした。 「またミルクシェイクだけなの? ちゃんと食べないと、元気出ないって」 「……話って、何ですか?」  蘇芳は単刀直入に訊ねた。  美鶴と一緒に昼食を取ることは時折あったが、いつも山田からの誘いだった。美鶴から直接、連絡があったのは、今回が初めてだった。しかも、話したいことがあるとのことだ。  美鶴は一瞬緊張した表情をしたが、すぐに笑い顔を作った。 「とりあえず、先に食べようよ。ほら、これ食べて」  美鶴は自分が注文したチキンナゲットを蘇芳の前に差し出した。 「食欲ないから……」 「そんなこと言ってるから元気出ないのよ。一個でもいいから食べなよ」 「……はあ。いただきます」  これ以上断るのも失礼な気がして、蘇芳はナゲットを一つ手に取った。無理やり口に入れたものの、油っぽくて気持ちが悪かった。1個食べると、2個、3個と強引にトレーの上に置かれてしまう。  ――厚意なのは分かるんだけど、正直、ちょっと迷惑なんだよな……。  蘇芳に強引に食べ物を勧めるわりには、美鶴もそれほどたくさん食べるわけではないらしく、ハンバーガーとフライドポテトをちまちまと齧っている。 「蘇芳君って、いつも悩んでるよねぇ」  ハンバーガーを咀嚼しながら、美鶴が呟いた。 「美鶴さんは、いつも元気ですよね」  しかも、食べたら元気が出ると主張して、いつもチキンナゲットを押し付けてくる。 「あら、あたしだって、悩んでたことあったのよ。今の蘇芳君と同じくらい……、ううん、もっと苦しんでたと思う」  急に美鶴が真顔になった。  食べ終えたハンバーガーの包み紙を畳むと、美鶴は蘇芳をまっすぐに見つめた。 「……君にはちょっと言いにくいけど、紺野先生のこと」  何となく予想していた展開だった。  おそらく、その話をしたくて蘇芳をランチに誘ったのだろう。 「紺野先生にいじめられて、大学に来れなかった時期があったんだけどね、その時にヒプノセラピーと出会ったの」  ヒプノセラピーとは、いわゆる催眠療法のことだ。  蘇芳は心理学科に在籍しているが、受講した講義の中で催眠療法について触れられることはほとんどなく、詳細は知らない。それでも、心理療法の一つで、催眠状態に入って自分の潜在意識と向き合い、問題の解決を目指す療法という程度の知識はあった。 「紺野先生のやり方ってすごく陰湿なの。周囲を巻き込んで徐々に追い詰めていく感じっていうの? あの人自身は高みの見物を決め込んで、あたしを追い詰めていくのは、今まで普通に仲良くしていた学生たち。仲間だと思ってた人たちに爪弾きにされて、ひとりぼっちになって、なんだか全て自分が悪いような気がしてくるの」 「でも、美鶴さんには心強い仲間がいるじゃないですか。石川さんとか……」 「あいつが紺野先生に逆らえるわけないじゃない。あいつが真っ先に空気読んで、あたしを攻撃し始めたわよ。あいつら、みんなクズよ!」  蘇芳の言葉に被せるように、美鶴がヒステリックに叫んだ。他の客が、ぎょっとした顔で美鶴を見た。蘇芳は恥ずかしくて、思わず俯いた。  ――それにしても、意外だな。あんなに仲良さそうだった石川さんが、美鶴さんを見捨てるなんて……。  化学研究会のメンバーたちは、蘇芳が想像していたような、仲良し仲間というわけではなかったらしい。 「そんな時、ヒプノセラピーがあたしを救ってくれたの」  美鶴の口調に熱が帯びた。 「あたし、やっと自分を取り戻せたの」  自信に満ちた笑みを浮かべて、美鶴は言い切った。そんな美鶴を、蘇芳は心底羨ましいと思った。 「蘇芳君、心理学科だからわかると思うけど、ヒプノセラピーって、ものすごく大きな力を秘めているの。無意識にアプローチできるなんて、すごくない?」 「そうですね」  ――僕も、そんな風に自分に自信が持てたら……。 「蘇芳君だって、ヒプノセラピーを受けたら、絶対変われるよ」 「え? 僕ですか? 無理ですよ。だって……」  ――人の血を舐めて喜ぶような異常者なんだから。 「何言ってんのよ。紺野先生に、そんな風に思い込まされてるだけよ」  美鶴は強い口調で言い放った。 「君が紺野先生なんかに依存しちゃったのは、君の家庭環境に問題があったからだと思うの。その原因を突き止めたら、絶対変われるって。ヒプノセラピーには、それくらい大きなパワーがあるんだから」 「変われる? 僕でも……?」  思わず蘇芳は顔を上げた。 「もちろん。ヒプノセラピーに不可能はないの」  心理学科の学生の立場で言えば、どんな治療法であれ、絶対的な方法など、存在しないはずだ。美鶴の思い込みの激しさに、尻込みする思いはあった。  だが、美鶴が蘇芳のことを思って勧めてくれているのは間違いない。それを無下に断るわけにもいかなかった。  それに、紺野の標的にされてボロボロになったという美鶴が、こんなに前向きになれている様子が、羨ましかった。 「蘇芳君の悩みを一言でいえば?」  ――好血症……かな?  だが、そんなことを口にしてしまえば、さすがに美鶴もドン引きしてしまうだろうか。  それでも、嘘を言うのも誠実さに欠ける気がした。 「……が好きなのかも……」 「え? 何?」  美鶴は顔を乗り出して、訊ねてきた。  ――血が好きなのかも。  そう言ったつもりだが、聞き取れなかったらしい。  ――やっぱり、言えない……。  父親ですら、血を舐める蘇芳の姿に驚き、蘇芳を避けるようになったくらいだ。知れば、誰もが蘇芳を嫌悪し、避けようとするに違いない。  ――美鶴さんに、嫌われたくない……。 「……同性…が好き……なのかも」  呟きながら、蘇芳は俯いた。美鶴を直視できなかった。 「……紺野先生のことね?」  美鶴の視線が、鋭く光った。 「あんな風に支配しようとする相手に惹かれるなんて、間違ってるよ」 「え、あ……。そうですよね……」  美鶴の激しい口調に困惑しながらも、頷くしかなかった。 「絶対に過去のトラウマが原因よ。大丈夫、あたしに任せて」  美鶴は強く言い放った。  紺野に対する憎悪なのか、対抗意識なのか、美鶴を奮起させてしまった。  蘇芳は、咄嗟に適当な悩みごとを捏造できなかった自分のことが腹立たしかった。 「じゃあ、早速やってみようね。目をつぶって、力を抜いて……」 「え、ここで、ですか……?」  あまりに突然だったことと、店内であることで、蘇芳は尻込みしかけた。 「善は急げ、って言うでしょ。それとも、蘇芳君はその程度しか、自分を変えたいって思ってないわけ?」  美鶴の詰問口調に怯んで、蘇芳は美鶴の言葉に従った。  すでに午後の講義が始まっていて、店内の客数は減っていた。だが、それでも店内では落ち着かず、雑念を消し去ることは難しかった。  それでも美鶴は、施術を続ける気らしい。 「何だか身体があったかくなってきたよ。ぽかぽかして、気持ちいいねー」  美鶴の声が、柔らかく耳朶を打った。  ――温かい感触……。そんな感触があったのは……。  思い出そうとすると、急に涙が込み上げてきた。  ――紺野さん……。  紺野の体温に包まれている時のことが、浮かんだ。  かつて紺野は、血液を飲んだ後、自己嫌悪に陥った蘇芳を、優しく背中をさすり、抱きしめてくれた。包み込むような温もりに、涙腺が熱くなる。 「ゆっくり、子供の頃に戻っていこうね。17、16、15……、5歳に戻ったよ。どんな気分?」  ――もっと温もりを感じていたかったのに……。  だが美鶴の誘導に従わないわけにもいかず、蘇芳は子供の頃に戻ろうとした。だが、突然5歳に戻った気分になど、なれるわけがない。  5歳の時のことなんて、ほとんど覚えていなかった。 「今、何が見えてる?」  何か答えないといけないとは思うが、何も思いつかない。  蘇芳が答えに窮していると、美鶴が畳み掛けてくる。 「ほら、お母さんがいるよ。手を振ってる。手を振り返さないの?」  母の姿を想像しようとしたが、蘇芳の母は蘇芳の物心がつく前に、病死した。ショックを受けた父は、母に関するものを全て捨てて、忘れようとしたらしい。そのせいで、蘇芳は母の写真を、仏壇の傍に置かれた遺影でしか見たことがなかった。 「母は、僕が物心つく前に死んだので、無理です」 「えっ……、そうなの?」  美鶴は慌てた様子で呟いた。 「あ、じゃあ、お父さんは? お父さんなら、わかるよね? お父さんが手を振ってるよ。ほら、笑いながら」  蘇芳の父は、いつも覇気のない様子で、陰鬱な表情を浮かべ、笑ったところなど見たことがなかった。そんな父を思い出すだけで、こちらまで憂鬱になりそうだ。 「ほら、お父さんが、呼んでるよ。答えてあげないの?」  焦燥感の滲み出た美鶴の声をよそに、目を瞑っているせいか、蘇芳は眠たくなってきた。  ――どうしてこんなことになってしまったんだろう……?  微睡みながら、どうしても考えてしまう。  二年も紺野の傍にいたのに、こんなに拗れたのは初めてだった。  紺野に殴られ、犯された時のことを思い出していた。  何が紺野の逆鱗に触れたのか、分からない。  あの時、蘇芳はただ悔しかった。須藤にあって、自分にないものを突き付けられた気がした。紺野の足でまどいでしかない自分のことが、堪らなく悔しかった。  殴られて痛かったのは、身体なのか、心なのか……。  自分を痛めつけている時の紺野の表情が怖かった。  怒りの感情すら見せず、完全に無表情だった。まるで物を見ているような無機質な目で、機械的に殴り続けた。  蘇芳の下肢を無理やり広げ、自分の物を蘇芳の体内に捻じ込んだその時でさえ、紺野は蘇芳を見てはいなかった。  ――もうあの人が、慈しむような目を向けてくれることはないだろう……。 「……大丈夫? 痛いの?」  どこか遠くで、声がする。 「痛いのね」  蘇芳は今、自分が美鶴から施術を受けている途中であったことを思い出した。 「3つ数えたら、催眠が解けるよ。1つ、2つ、3つ」  やや焦った声で、美鶴が誘導する。 「はーい、お疲れ様。催眠術が解けたよ」  目を開くと、自分が泣いていることに気づいた。 「……ごめんね、辛いことを思い出させて。でも、これが立ち直るために必要なの」  涙を拭うと、眩しい光が目に入ってきた。蘇芳は明るい部屋の中にいた。  ――あ、ハンバーガーショップだったんだっけ。  しばらく微睡んでいたのか、意識がぼんやりしている。仮眠を取った直後のような気分だった。  しばらく、ぼんやりしていたかった。 「蘇芳君、お父さんからひどい虐待を受けていたの。暴力だけじゃなくて……、言いにくいけど、性的虐待もあったみたい。やっぱり、あたしの思った通りだった」  美鶴は憤った声で言った。 「そういう体験をすると、無意識のうちに、父親から守ってくれる、さらに強い相手を求めるの。それが、紺野先生だったのよ」  思いがけない言葉に、蘇芳はまじまじと美鶴の顔を凝視した。 「父から……ですか? 僕が……?」 「そう」  自信満々に頷く美鶴だが、蘇芳には違和感しかなかった。  息子である蘇芳から見ても、父は覇気のない男だった。育児放棄というなら、まだ分からなくもないが、性的虐待はあり得ない気がした。  母が死んで途方に暮れている父を見かねて、父の母、すなわち蘇芳の祖母が蘇芳の面倒を見てくれた。  祖母は常に父に対して、強い口調で叱咤激励したが、父は委縮したように項垂れているだけだった。蘇芳に対しても、どう接したらいいのか分からない様子で、上目遣いで顔色を窺っていたようだった。祖母に促されて、仕方なくという風情で、おずおずと手を伸ばしてきたのを覚えている。  血を舐めている蘇芳を見た時も、硬直した表情を浮かべて、逃げるように立ち去ったはずだ。 「……祖母の前で、手が出せるとは思えないんですが……」 「四六時中、おばあさまがついていてくれたわけじゃないでしょ。おばあさまの目を盗んで、暴行を加えていたの。さっき、君はちゃんと話してくれたんだよ」  催眠中に、何を口走ったのか分からないが、蘇芳はどうしても納得できなかった。 「紺野さんと父は、全然タイプが違うと思うんですけど……。だって父さん、万年平社員ですよ?」  父は平凡で覇気のない男だ。一方の紺野は、誰が見てもエリートそのものだ。 「そういう人って、自分よりも弱い者には暴力的になったりするものなの」  どうもしっくりこなかった。だが、これ以上異論を唱えても、ますます美鶴が畳み掛けてきそうな気がして、蘇芳は押し黙った。

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