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 蘇芳が実家を訪ねたのは、美鶴から催眠療法を受けてから1週間ほど経過してからのことだった。突然現れた息子の姿に、父は驚きを隠そうとはしなかった。 「文弥? 急にどうしたんだ? 何かあったのか?」  何か言わなければならない、と蘇芳は思った。だが、考えても何一つ言葉が浮かんでこなかった。  仕方なく目礼だけして、父の身体を押し退けるようにして、家に上がり込んだ。蘇芳は真っ直ぐに、居間に向かった。  大学合格とともに大学近くのアパートに下宿することになった蘇芳は、祖母亡き後、一度も実家に戻っていなかった。だが室内の様子は、蘇芳が知っている頃とほとんど変わっていない。  蘇芳は居間の隅に置かれた仏壇の前に座り込んだ。着てきたトレンチコートと鞄を傍らに置くと、焼香をあげた。  手を合わせながら、自分が何をしにここに来たのか、改めて考えた。  大島美鶴から催眠療法の施術を受けるようになって、1週間経ち、蘇芳自身も、美鶴が力説するように、父親から虐待を受けていたのではないかと思うようになってきた。  さすがに性的虐待は受けていない気がしたが、美鶴によると、ショックのあまり記憶を抑圧して、意識から排除してしまったために、記憶にないだけだという。  どうしても気になって、直接問い質すしかないと覚悟を決めて、ここまでやってきたのだった。  ――もし虐待していたって父さんが認めたら、どうしよう? ねえ、おばあちゃん、どうしたらいい?  仏壇の傍らに置かれている、祖母の遺影に問いかけた。  祖母ならば、蘇芳が虐待を受けていたとしたら、その事実を把握していた可能性が高い。  だが、祖母からそんな話を聞かされることはなく、蘇芳が大学に入学するのを見届けると、安心したように、あっさりと死んでしまった。  ――そういえば、亡くなる前、僕の手を取って「もう大丈夫だね」って言ってたな……。  祖母によると、蘇芳は昌泰大学のオープンキャンパスに参加してから、急に生き生きとし始めたそうだ。  受験生時代、紺野が英語と数学の勉強を見てくれたこともあって、成績が急上昇し、当初は難しいと言われていた昌泰大学に無事合格できた。  ――大学、楽しいのね。よかった。  病床の祖母の言葉を否定するのも気が引けて、頷いたものの、その時の蘇芳は疑問しか感じられなかった。  大学での心理学の授業は、蘇芳の求めていたものではなかった。血を好むという異常嗜好を克服する方法を知りたかったのに、そんなこととは全く関係のない、動物や乳幼児の思考など、興味の持てない授業を延々と受け続けることになってしまった。  ――「大学なんか、楽しくない」ってあの時僕が答えてたら、おばあちゃんは何て答えてくれた?  だが遺影にどれだけ問いかけても、返事があるはずはなかった。  いつの間にか、背後に父が佇んでいた。  蘇芳は意を決して、振り返った。 「……父さん、子供の頃、僕に暴力振るってた?」 「え? 急に何を言い出すんだ? 何の話だ?」  父は驚いたように、問いかけた。 「答えてよ。僕に暴力振るってたの?」  強い口調で問いかけると、父は露骨に動揺した様子を見せた。 「……そりゃ、一度も手を上げたことがないってことは、ないと思うが……。いや、それでも、虐待だなんて……」  おどおどした態度が、無性に腹立たしかった。  否定するなら、はっきりと否定すればいいはずだ。それなのに、歯切れが悪い。 「やってたなら、認めろよ」  苛立って、口調が荒くなってしまった。だが、それを注意するほどの余裕は父になかったらしい。  視線を漂わせ、拳を握りしめながら、小さな声で抗弁した。 「おまえの母親が死んで、ショックで呆然としてた時、子育てなんてとてもできなかった。そんな時に母さんが駆け付けてくれて、そのまま世話を任せてしまったたのを、育児放棄と言われたら、そうかもしれない……。でも母さんは、しっかりおまえを育ててくれただろ」  おどおどしながらも饒舌になっていく父に、蘇芳の不信感が募っていった。 「おばあちゃんに押し付けたから、それでいいってわけ?」  育児放棄の話ではなかったが、あまりの言い草に、つい余計な追及をしてしまった。 「……いや、その……」  言葉を詰まらせながらも、父は話を続けた。 「……おまえが中学生くらいの時、自分の血を舐めているのを見て、それから、俺はおまえのことが怖くなった。それは確かだ。母さんにも相談したけど、母さんは『文弥はそんな子じゃない』の一点張りで、どうしたいいのか分からなくなって……」  まるで祖母に責任を押しつけるかのような言い分に、蘇芳はさらに怒りを感じた。  ――僕が酷いいじめを受けている時も、少しも助けようとしてくれなかった……、いや、気づいてすらくれなかったくせに……。 「でも、暴力なんて、絶対に振るってない。本当だ」   穿った見方をすれば、暴力以外の、何か思い当たる節があるのか疑いたくなるような言葉だった。美鶴に言われた「性的虐待」という言葉を思い出し、吐き気がこみ上げてきた。  今抱えている苦しみの全てが、父親のせいであるような気さえしてきた。  ――僕が血を好きになってしまったのも、酷いいじめを受けたのも、紺野さんに惹かれてしまったのも、こいつのせい……。  こんなおどおどした態度の父親がいたからこそ、常に堂々とした態度を取っている人に魅せられてしまったのではないか。  ――紺野さんに惹かれさえしなければ、僕はこれほど苦しむことにはなかったはずなのに……。  もはや、父の何に対して怒りを覚えているのか、蘇芳自身、分からなくなってきた。ただ目の前にいるこの男と、これ以上話すのも、空間を共にすることも、我慢ならなかった。  蘇芳は弾かれたように立ち上がると、大股で玄関先に向かった。 「おい、これ、忘れてるぞ」  背後から父の声が追ってきた。  父が差し出してきたのは、紺野に買い与えられたトレンチコートだった。なぜか無意識に着てきていたらしい。  ――あんな風に買い与えられたものを、自分から着るなんて……。 「要らない。捨てといて」 「え? 捨てるって……。まだ新しいだろう。それにこれ、生地も縫製も上質だし……、おまえ、いつの間にブランド品に興味持つようになったんだ?」  父は百貨店に勤務しているせいか、服のブランドについての知識があった。蘇芳は舌打ちしたい気分になった。 「もらい物だから」 「……え? こんな高価な物、誰から頂いたんだ? ちゃんとお礼はしたのか? だいたい、頂き物なら、なおさら捨てたら駄目だろう。失礼じゃないか」  窘めるような口調で言われた言葉が正論だっただけに、かえって怒りを倍増させた。蘇芳は差し出されたコートを奪うように掴み取った。 「今更、父親面するなよ!」  金切り声で叫ぶと、蘇芳は家を飛び出した。

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