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「……では、失礼…ま…」
ほとんど聞き取れない小さな声で挨拶すると、蘇芳は頭を僅かに下げてから研究室を出て行った。
ドアが閉ざされた音が、部屋に響いた。小走りに走る靴音が遠のくと、部屋は静寂に包まれた。
紺野はソファの背に凭れ掛かった。
蘇芳が立ち去った後には、いつも重苦しい疲労感が圧し掛かってくる。
蘇芳を抱いた日以降、蘇芳は紺野と目を合わせようとせず、いつも俯いていた。何か問いかけても、答えない。時折答えようとしている様子は見て取れるが、唇を僅かに動かすだけで、声はほとんど出ない。唇の動きを見て、何を言おうとしているのか想像するしかなかった。
身体に触れると、小刻みに震えているのが分かる。
紺野を憎み、軽蔑しながら、恐れているのだろう。
そんな蘇芳の様子は、見ていて痛々しかった。だが紺野は、虚しさの中に、どこかで安堵を覚えていた。
――もうこの子は、私から逃げようとはしない。
それを確認するためだけに、会うたびに犯した。性欲など全く感じていなくても、支配の証として組み敷かずにはいられなかった。
そうしなければ、蘇芳は自我を取り戻し、紺野から逃げて行くような気がした。
――抜け殻でも、手元に縫い止めておきたいのか……。
蘇芳を繋ぎとめているのは、蘇芳がひた隠しにしている「血を飲みたい」という性癖を知っていることと、血液製剤だけだった。
紺野は自嘲しながら、机の上を片付けた。疲れ果てて、思考回路がうまく働かなかった。そんな時に、いつまでも研究室にいたところで、研究できるわけがなかった。
できるだけ早く帰宅しようと思いながら、スケジュール帳を開いた。
――あ、今日、高坂先生がお戻りの予定だったのか……。
普段なら忘れるはずがないことだが、蘇芳のことに気を取られて、すっかり忘れていた。
紺野は慌てて教授室に向かった。高坂教授は海外出張で今晩帰国予定だ。
夕方に日本に戻ってくる時は、大抵そのまま自宅に帰るが、研究室に立ち寄ることもあった。そんな時に、紺野が先に帰宅していると、教授の心証を悪くしてしまう。
教授室の掃除と、教授宛てに届いた郵送物等の仕訳をするのは、お気に入りとされている紺野の役目だった。
それらを済ませてから、紺野は二時間ほど待機していた。今日は帰宅したのではないかと思った頃になって、高坂教授が現れた。
「お帰りなさいませ」
紺野の姿を見て、高坂教授は満足げに微笑んだ。
「ああ、まだいたのか。遅くまで熱心だな。ちょうどいい。進捗状況でも聞かせてもらおうかな」
「学会はいかがでしたか?」
「まあ、なかなか面白い研究もあったよ。長丁場で疲れるがね」
紺野は事前に準備しておいたサイフォンで淹れたコーヒーを、テーブルに置いた。高坂教授は微笑みながら、カップを手にした。
「やっぱり、君が淹れてくれたのコーヒーを飲むと、ほっとするよ」
「恐れ入ります」
高坂教授は、コーヒーに強いこだわりを持っていた。紺野自身は、特にコーヒーに関心はなかったが、教授の気を引くために、コーヒーの淹れ方を学んでいた。
「そうそう。これ、土産」
鞄の中から、大きな袋菓子を取り出した。
「ありがとうございます」
高坂教授は、出張時に学生たちに土産を買って来ることが多いが、現地のスーパーで売られているような安物の菓子だった。
50円もしないような菓子を貰っただけで、恐縮してありがたがらなければならないのは面倒だと、以前須藤が洩らしていた。
そういう素直なところに、紺野は好感を抱いた。
高坂はコーヒーカップをソーサーの上に戻すと、おもむろに切り出した。
「学会の懇親会で話をした、ウェストブリッジ大学のハーディ教授が、君の研究に興味を持っていたよ。君の前回の発表、内容をもっと掘り下げて共同研究できないか、という話にもなった。紺野君、前に海外留学したいって言ってただろ。そのことを伝えると、先方が随分乗り気になってね……」
確かに、前々から海外留学をしたいとは思っていた。高坂教授としても、自分の片腕に箔をつけるという意味で、乗り気なのかもしれない。
「ちょうどタイミングもいい。大学が年末に急遽募集している若手研究者の海外派遣枠がある。3ヶ月ほどの短期派遣で、航空券と滞在費を一部補助してくれる制度だ。ウェストブリッジ大学でも、年内に一人受け入れ可能な空きが出たらしい。先方も前向きだ」
高坂教授は、やや前のめりになりながら、説明を続けた。
「君にとっても、またとない好機だろう。どうだね?」
喜んで承諾するのは当然と言わんばかりの口調だった。もちろん、紺野にとって、願ってもない話ではあった。
だが、紺野の脳裏に蘇芳の姿が過った。
――あんな虚ろな眼差しをしているのに、放っておいて大丈夫なのか?
蘇芳との関係が安定していた頃ならば、わずか3か月程度、日本を離れたところで、それほど心配はなかった。
――心配?
紺野は自分の脳裏に過った不安を嘲笑った。
――私がいなくなれば、むしろ喜ぶかもしれないのに。
3か月も放置すれば、蘇芳との関係は自然消滅するだろう。
――蘇芳君を手放す……。
「ありがとうございます。ただ、あまりに急なお話なので、少し考えさせていただいてよろしいでしょうか」
高坂教授が、眉間に皺を寄せた。ほんの一瞬のことだったが、かなり苛立ちを覚えたのではないか。世間では温厚な人柄と言われているが、高坂教授は思い通りにならないものを非常に嫌う。あまり表情に出さず、微笑みを絶やさないために、温厚だと思われているだけだった。
「二つ返事で承諾すると思ってたんだけど……。まあ、いい。気が済むまでじっくり考えたまえ」
「恐れ入ります。ご配慮、ありがとうございます」
もちろん、じっくり考える時間など、与えられるわけがなかった。
――十日……、いや、一週間以内には、返事しなければならないな。
高坂教授の微表情から、紺野は判断した。
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