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 大学生の昼食としては豪華なランチセットを前に、学生の一人が目を輝かせながら訊ねてきた。 「紺野先生は、いつもここで昼ご飯を食べられるんですか?」  1年生の化学基礎実験の指導が終わった後の昼休み、流れで学生数名と昼食をともにすることになった紺野は、キャンパス近くのイタリアンレストランを訪れた。  テーブルの上には、ランチセットのパスタとパン、サラダが彩りよく並び、学生たちは口々に歓声を上げていた。  2年生以上の学生と昼食を共にする機会があっても、研究に関する話題以外はほぼ上がらないが、どういうわけか、1年生は遠慮なく無意味な雑談をして騒ぐ。彼らと会食する際は、基本的に長居はせず、適当なタイミングで先に席を外すのが常となっていた。 「ここに来るのは、月に一度か二度くらいだな。大抵は研究棟の休憩スペースで済ませている」  訊ねられたことには一応答えるが、あまりに無意味な問いかけに、紺野は辟易していた。 「へえ、そうなんですか。購買部のサンドイッチ、ボリュームあって、美味しいですよ」 「え、それなら、正門前のカフェで売ってるサンドイッチのほうが、絶対美味しいって。店内で食べるなら、パンケーキがオススメ。ランチタイム限定で、アイスクリームのサービス付きだし」  特に紺野が話を振ることもなく、学生たちは、それぞれの《昼休み定番スポット》について語り始めた。学食、購買部、家から持参した弁当――。 「あ、俺、学生会館にあるハンバーガーショップ派です。肉のボリュームが、その辺のファストフード店と全然違うんですよ。それに数日前から、めちゃくちゃ面白いものが見れるって、話題になってましてね」 「え、何?」  他の学生が食いついてきた。 「文学部の学生っぽいんですけど、毎日みたいに店内で催眠術みたいなのをやってんですよ。派手な髪色の女子が、地味で冴えない男子に、催眠を掛けてるって言うんですかね。最初、ふざけてるのかと思ってたんですけど、本人たち、ガチですよ」  紺野が、フォークを持つ手を一瞬止めた。 「ガチって、どんなことやってんだよ?」  他の学生たちは興味津々といった様子で、身を乗り出している。 「いやー、見てたら面白すぎて、笑いを堪えるのが辛いくらいですよ。男の方は、ほとんど反応してないのに、女の側が、親からの虐待だのなんだのって、それらしいストーリーを一方的に作ってるんですよ。しかも、女の口から、けっこう際どい言葉が、ポンポン飛び出すんですよ、性的虐待とか、まあ、その手の言葉が。聞いてるほうが恥ずかしくなりますよ」 「えー、見てみたーい」 「今度覗きに行こうかなー」  学生たちが大いに盛り上がる中、ひとりの女子学生がぽつりと呟いた。 「……それって、大島さんなんじゃ……」  紺野は思わず、女子学生のほうに目を向けた。  大島の名を呟いた学生は、前年に単位が取れずに、再受講している2年生だった。そのため、大島美鶴が理学部に在籍していた事実を知っているのだろう。   紺野の視線に気づいたのか、女子学生は慌てて口元に手を当てた。 「え? 知ってる人? もったいぶらずに教えてよー」  回りから激しい催促を受けて、女子学生は、紺野の視線を気にしながらも、言いづらそうに答えた。 「……よく知らないけど、理学部から文学部に転部した4年生……だと思う。催眠療法に嵌ったとかで、友達相手に催眠術を掛けてるって噂、聞いたことが……」  女子学生は、しどろもどろになりながら、紺野の顔色を窺っている。そんな彼女の様子に、場の空気が少しだけ揺らいだ。  紺野は携帯電話に連絡が入った様子を装って、席を立った。 「用事が入ったから、先に行くけど、君たちはゆっくりしていきなさい」  伝票を手に、レジに向かう背後から、こそこそと囁く声が聞こえた。 「……かなり訳ありの人みたいで……、紺野先生にいじめられて文学部に転部したって噂なんだよ。催眠術を受けてた方は、多分、紺野先生のお気に入り。文学部の学生だけど、よく紺野先生を訪ねて理学研究棟に出入りしてる」 「え? マジ? ヤバかった? どうしよ?」  小声でしゃべっているつもりなのかもしれないが、丸聞こえだった。  紺野は会計を終えると、足早に店を出た。  肩のあたりがひどくこわばっていることに気づいたのは、店のドアが閉まったあとだった。       *  紺野の足は、自然とハンバーガーショップのある学生会館のほうに向いていた。  蘇芳が大島美鶴と親しくしていたとしても、とやかく口を出す気はなかった。だが、催眠療法を受けているとなると、話は別だ。  催眠療法について、詳しくは知らないが、大島が理学部の学生として講義に出ていた頃には、催眠に傾倒していたという話は聞いたことがなかった。とすると、大学に顔を出さなくなった昨年の秋以降に傾倒していった可能性が高い。  セミナー等で学んだのか、自己流なのかは分からないが、そんな短期間で、他人に施術できるほど熟達できるものなのか、疑問だった。  蘇芳にとって悪影響のあることならば、放っておくわけにはいかなかった。  しばらく歩くと、学生会館の建物が見えてきた。午後の光に、学生会館の大きなガラス窓が鈍く反射していた。  店内に入らなくても、ガラス張りの窓際に座っている二人の姿は、外からでもよく見えた。  蘇芳は椅子に深く腰を掛け、目を閉じていた。  大島は前傾姿勢で、片手を蘇芳の額のあたりにかざし、しきりに蘇芳の耳元に囁きかけている。蘇芳は僅かに頷いたり、首を横に振ったりしている。  本当に催眠術の真似事のようなことをしているらしい。  何を言っているかまでは、当然聞き取れないが、大島は、自分に酔いしれたような表情で、蘇芳に語り掛けていた。施術者としての客観性も、距離感も欠如しているように見受けられた。  蘇芳は目を閉じたまま、時折苦しげに身を捩り、何か呟いている。  本当にトランス状態に入っているのか、そんなふりをしているのかは、判断がつかなかった。  ――本当にトランス状態に誘導されているとすれば、蘇芳君が、大島美鶴のことをよほど信頼しているということなのだろうが……。  そう考えてみても、紺野は不安を拭いされなかった。  ――無防備すぎる……。  蘇芳はただでさえ、精神的に不安定だった。特に今なら、救われると思えば、何にでも飛びついてしまいそうな危うさがあった。  できるものなら、割って入って施術を止めたかった。  蘇芳は紺野を恐れている。強く命じれば、蘇芳は紺野に従うかもしれない。だが、そんな風に蘇芳を支配することを、望んでいるわけではなかった。  ――元々、そんな状態に追い込んでしまったのは、私だ……。  声をかけたくなる衝動を、紺野は喉の奥で噛み殺した。  ふいに、蘇芳が目を開けた。一瞬、目が合ったような気がした。  ――いや、気のせいだろう……。  大島が、蘇芳に険しい表情で声を掛けていた。  紺野は、ガラス窓から視線を外し、ゆっくりと歩きだした。その足で、図書館に向かった。

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