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――紺野さん?
一瞬、紺野の視線を感じたような気がして、蘇芳は窓の外を凝視した。だが気のせいだったのか、それらしい姿は見当たらなかった。
「ちょっと、蘇芳君。勝手に目を開けちゃだめじゃない。ほら、施術中なんだから、ちゃんと目を瞑って」
美鶴に見つかり、注意された。
「ほら、目を瞑って、力を抜いて。そうそう、リラックスしなきゃ催眠状態に入れないよ」
――催眠か……、別にかけて欲しいわけじゃないんだけど……。
美鶴に嗾けられて、実家に押し掛けてしまったことを、蘇芳は後悔していた。父親と口論しても何も得られなかったどころか、逆に父親が何かと蘇芳に連絡を入れてくるようになって、煩わしくて堪らなかった。
毎日のように電話の着信がある。一度も出たことはないが、着信を確認するたびに憂鬱になり、面倒ごとが増えた気分だった。
「なんか、今日は気分が乗らないの?」
薄目を開くと、美鶴が苛立ちを押し隠したような笑みを顔面に貼りつけていた。
「……すみません。そうみたいです」
美鶴はわざとらしく、大きな溜息を洩らした。
「まあ、そういう日があるのは、仕方ないよね。でも、ちゃんとやらなきゃ、克服できないよ。一日も早く、今みたいな状態から解放されたいんでしょ? 解放されたら、ありのままの自分を肯定できて、ポジティブになって、びっくりするほど、たくさんの幸せが引き寄せられちゃうんだから!」
克服できるかどうか以前に、大学構内のファストフード店、しかも全面ガラス張りで外からも丸見えの店内で、催眠療法を施そうというのは、蘇芳にとって理解の域を超えていた。美鶴は蘇芳以外の人にも催眠療法をこの場所で施していると言うが、よく今まで店員に注意されなかったものだと、逆に感心してしまう。
時折、好奇の眼差しを向けられているのを感じて、少し苦痛だった。
「この前、実家に帰って、父に聞いてみましたけど、虐待していないそうです」
言い終わらないうちに、美鶴が口を開いた。
「そんなこと、あっさり認めるわけないじゃないの。百歩譲って、本当に覚えがなかったとしても、それは後ろめたいから、忘れようとしただけよ。人は自分に都合の悪い記憶を抑圧して、意識から排除してしまうものでしょ。蘇芳君だって、心理学科なんだから、それくらい知ってるよね?」
捲くし立てる美鶴の勢いに押されて、蘇芳は口を噤んだ。
――記憶を抑圧して、意識から排除……か。
あり得ないことではないが、それを言い出すと、全ての記憶があてにならないものになってしまう。
――こんな無意味なやり取り、いつまで続けなきゃいけないんだろう?
美鶴に訊ねたら、蘇芳が悩みを克服するまで、と答えられそうだが、実際に美鶴が克服できたと見做すのは、蘇芳が紺野との関係を断ち切った時なのだろう。
――紺野さんに相談したら、何て言われるかな?
なぜ急に紺野のことを思い起こしたのか、蘇芳自身分からなかった。
かつてならともかく、今となっては、ただおぞましいだけの相手のはずだ。
父と話した時も、父のせいで紺野に依存してしまったと思ったから、激情が込み上げて我を失ったのだ。
美鶴が、蘇芳の手をぎゅっと握った。
「独りで抱え込まなくていいんだよ。ヒプノセラピーなら、全ての悩みを解決できるんだから」
美鶴は微笑みながら、話を続けた。
「ねえ、蘇芳君。君は何も悪くないの。お父さんを守ろうとして、虐待の記憶を抑圧したんだよね? そうでしょ?」
一瞬、頷きそうになった。蘇芳は子供の頃から、強く言われると、逆らうのが面倒で、つい迎合してしまいがちだった。それでも、どこか違うような気がして、頷けなかった。
――美鶴さん……。あなただって、自分の落ち度を紺野さんのせいにして、納得しただけなんじゃないですか?
「ん? なあに?」
美鶴は小首を傾げて、蘇芳を見つめる。
微笑みを浮かべた唇が、妙に艶めかしく見えた。
その唇が、蘇芳の顔にそっと近づいてきた。突然の出来事に、蘇芳は身体を硬直させた。胸が息苦しいほど高鳴りしていた。
「あたし、蘇芳君のこと……」
突然、蘇芳の携帯電話が振動し始めた。
蘇芳は反射的に、美鶴を押し退けるようにして、テーブルの上のスマートフォンを手に取った。
「……図書館からです。予約してた本が用意できたって」
蘇芳は携帯電話に視線を落としながら、呟いた。
「ああ、そうなんだ。……え?」
美鶴は、テーブルのトレイを片付け始めた蘇芳を見て、眉根を寄せた。
「……レポート書くのに要る本だから、どうしても早く読みたいんです。すみません」
蘇芳は口早に呟いた。
「え? そんなに急がなくてもいいんじゃないの?」
本当は、急ぎではなかった。
だが、このまま美鶴と過ごすことが怖かった。
蘇芳は逃げるように、店を後にした。背中を向けても、鋭い美鶴の視線を痛いほど感じた。
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