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 蘇芳は図書館のエントランスまで来て、ようやく足を止めた。乱れた呼吸を整えながら、ようやく一息つけた。  美鶴の視線が怖くて、生きた心地がしなかった。  呼吸を整えると、蘇芳は図書館内に足を踏み入れた。予約の本を借りるよりも、座って心を落ち着けたかった。  どこか目立たない場所に腰を下ろしたくて、閲覧室を見回していると、窓際のカウンター席に座る、ネイビーのジャケット姿に目が釘付けになった。  ――え、紺野さん?  普段着の学生が多い中、ジャケットを身に着けた姿は、少し目立つ。  ――閲覧室を使うなんて、珍しいな。  紺野と図書館で遭遇することは、ほとんどなかった。というのも、紺野は図書館に来ると、書庫に向かうのが常だった。しかもこの辺りは、人文科学コーナーで、紺野と縁がありそうな場所ではない。  声をかけるべきか、迷いながらも、蘇芳は恐る恐る、隣の席にそっと腰を下ろした。  間近で横顔を見るのは、久しぶりだった。  改めて見ると、やはり端整な横顔だった。あまり不躾な視線を送らないように注意しながらも、蘇芳はその怜悧な横顔に見入っていた。次第に、胸が熱くなった。高校3年の秋頃から毎週のように会って、慕っていた相手だった。  高校時代は、血液製剤をくれるだけではなく、受験勉強にも付き合ってくれた。  ――あの頃はよく、こんな風に隣に座って、紺野さんが添削してくれている姿を見てたっけ……。  こんな風に拗れた関係になることを、あの頃は想像もつかなかった。  ――あんなことがあっても、嫌い……にはなれない。  紺野は気配すら感じていないのか、手元に視線を落としたままだった。規則的に耳朶に届く、ページをめくる、紙が擦れる音が心地よかった。 「何の用だ?」  突然声を掛けられ、蘇芳はびくりと肩を竦めた。幸せだった頃の記憶から、一気に現実に引き戻された。  冷たい声色ではなかったものの、紺野は視線を本に落としたまま、蘇芳のほうに目を向けようとはしなかった。 「……いえ」  蘇芳は俯いた。このまま隣に座っていたい気がしたが、迷惑だと暗に告げられているようにも感じられた。 「……すみません。お邪魔しました」  蘇芳が立ち上がったその時、紺野が本に視線を落としたまま、口を開いた。 「少し、話したいことがある」  紺野は、ようやく本を閉じた。その時、本のタイトルが見えた。『記憶という名の罠――退行催眠と過誤記憶の心理学』――催眠に関する書籍だった。  紺野は立ち上がると、手にしていた書籍を棚に戻し、奥の出口に向かった。蘇芳も慌てて後を追った。  ――どこに行くんだ?  蘇芳の不安をよそに、紺野は裏口から図書館を出たところで、すぐに足を止めた。   昼過ぎの図書館裏は、陽がやわらかく差し込んでいた。  正面玄関の騒がしさが嘘のように、裏手は静まり返っている。  レンガを敷いた細道の先に、ひとつだけ木製のベンチがあった。建物の陰が、レンガ敷きの地面に濃く落ち、ベンチの上にも薄い影がかかっていた。  紺野は、ベンチに腰を下ろした。蘇芳も、おずおずと隣に座った。  落ち葉が時折、風に舞って足元をかすめる。植え込みのあいだから、通り抜けていく風が、心地よかった。  しばらく経って、紺野がようやく口を開いた。 「君は、催眠療法に興味があるのか?」  本のタイトルを見た時から、話の内容は予想がついていた。美鶴から催眠療法を施されていることを、紺野に知られたらしい。  蘇芳は一瞬頷きかけたが、そうでないことに気づき、首を横に振った。 「……もともと、自分の悩みを解決したくて、心理学科に進学したんです。でも、講義は直接関係のないことばかりで……。正直、動物の行動心理とか、興味ないんです。知りたいとも思わないし……」  問われたことに対する答えにはなっていないが、紺野は小さく頷いた。 「それで、君は心理学科の先輩に相談したというわけか?」  やはり、本題は美鶴のことだった。蘇芳の胸に、緊張が走った。 「最近、よく会っているようだね、大島美鶴と。彼女が、催眠療法に嵌っているという噂は聞いたことがある」 「……はい。あ、いえ、僕から相談したんじゃありません。美鶴さんのほうから……」  思わず口をついて出た、言い訳じみた言葉に、自己嫌悪を覚えた。  紺野はかまわず、質問を重ねた。 「彼女から催眠療法を受けていると聞いたが……」  紺野の言葉を遮るように、蘇芳が上擦った声を上げた。 「だって、僕の病気、原因を突き止めて、ちゃんと治療をすれば治るって……」 「病気?」  すかさず、紺野が訊ねてきた。 「美鶴さんからは、アダルトチルドレン……と診断されました」  蘇芳は蚊の鳴くような声で、小さく答えた。 「……子どもの頃の時代を機能不全家族の中で育って、成長してもなお精神的影響を受け続ける人のことだったか?」 「あ、はい……」  概要書を一読しただけとは思えない答えに、蘇芳は驚いた。 「それは、病気ではないんじゃないか?」  やはり、紺野は専門外のことに対しても鋭い。確かに、「アダルトチルドレン」は医学的な診断名ではなく、心理的な特徴を示す言葉だ。 「君が一番悩んでいるのは、嗜好のことかと思ってたよ」  再び、痛いところを突かれた。 「……そのことは、さすがに言えなくて……」 「え?」  紺野が驚いたように、蘇芳に視線を向けた。蘇芳は慌てて俯いた。  催眠療法において、施術者と被術者の間の信頼関係は、絶対条件であることは、蘇芳もよく分っていた。  揚げ足を取られたような気がして、蘇芳はムキになって切り返した。 「でも、退行催眠でちゃんと原因が分かったんです。僕、父から虐待を受けていたんです。父が全て悪かったんです」  紺野は、僅かに眉根を寄せた。 「退行催眠で分かった、ということは、それ以前には、ご父君から虐待を受けていたという記憶はなかったということか?」  紺野の声が、少しだけ低くなった。だが、詰問しているような響きではなかった。  それでも、蘇芳はじわじわと追い詰められているような気がした。  美鶴に、父から性的虐待を受けていたと断言され、その時の様子を詳らかに聞かされるうちに、本当に虐待を受けていたような気がしていた。そう思い込むことで、苦しみが和らぐような気がした。 「血が好きなんて、元々おかしかったんです。あいつのせいとしか思えません。あいつが自分の罪を認めたら、きっと解決できる……」  蘇芳は自分に言い聞かせるように、必死で言い募った。だが、必死で張り上げたはずの声は、いつの間にか弱々しくなり、途切れていた。  自分の頭の中では、父に性的虐待を受けたせいで、全てが歪められてしまったかわいそうな自分、という世界観が成り立っていた。  だが、こうして言葉にするうちに、歪な世界観に、細かな亀裂が入ってくるのを感じた。  本当に父から性的虐待を受けたのか、それとも、美鶴に何度も語られ、想像させられるうちに、現実の出来事だと思い込んでしまっているだけなのか、蘇芳自身、分からなくなってきた。  紺野の理知的な静かな声と、美鶴の情熱的で畳み掛けるような声が、蘇芳の脳内でぶつかり、混じり、無意音となって脳内に木霊する。  膝の上に置いた、握りしめた両手の拳が小刻みに震えていた。  ――ダメだ、これ以上考えたら、頭が割れそうだ……!  隣から伸びてきた手が、蘇芳の拳の上にそっと重ねられた。じわりと、緊張していた手の甲に、温もりが広がった。拳から力が抜け、震えが収まっていく。  ――あったかい……。  温もりを感じていると、急に涙腺が熱くなった。だが、涙ぐんでいるのを紺野に気取られたくはなかった。蘇芳は、必死で涙を堪えていた。そんな蘇芳の気持ちを察したのか、紺野は真っ直ぐに前を向いていた。 「……昔、君に笑われたことがあったな」  突然、紺野がぽつりと呟いた。 「え?」  蘇芳は首を傾げた。何の話か、分からなかった。 「まだ君が高校生の時だ。私の実験ノートを覗き込んだ君が、急に笑い転げた。何かと思えば、マウスの絵が下手すぎる、って……」 「……笑ってなんかいませんよ。そりゃ、下手だとは思いましたけど」 「じゃあ、私の記憶違いか」  紺野はわずかに肩を竦めた後、少しだけ笑った。  笑ったことは覚えていないが、紺野の実験ノートのそのページは、鮮明に覚えていた。几帳面で流麗な文字とは対照的な、幼児が鉛筆を握った状態で描いたような、マウスもどきのイラスト。 「マウスに見えない、って僕が言ったら、紺野さん、動物図鑑じゃないんだから分かればいいんだ、って、開き直ってましたよね」 「そんなこと言ったかな?」 「言いましたよ」  蘇芳の強い口調に、紺野は苦笑を浮かべた。 「そうか。……お互い、記憶って曖昧だな」  緩んだ頬が、僅かに強張った。  ――記憶は曖昧なもの……。簡単に上書きされてしまう……。 「……辛いことがあると、心に蓋をして、忘れてしまうことがよくあるそうです」  蘇芳は、かつて美鶴に言われたことを、呟いた。 「心に蓋、か……」  紺野が、小さく呟いた。 「私のことも、忘れたいか?」  紺野の頬には、自虐的な笑みが浮かんだ。紺野には似つかわしくない表情だった。  風が、二人の間を通り抜けた。植え込みの葉が、さわさわと鳴った。 「すまない。話が逸れたな」  紺野は一息置くと、静かに言った。 「記憶は、書き換えられる――その可能性を、頭の片隅にでも置いておいて欲しい。私が伝えたかったのは、それだけだ」  蘇芳は返事をしなかった。  だが、現実の出来事として形作られつつあった「過去の記憶」が、揺らいでいるのを感じた。  重ねられていた掌が、すっと離れた。 「呼び止めて、悪かった。失礼する」  紺野は立ち上がるとそれだけ告げ、蘇芳に背を向けた。  遠ざかっていく背中を見つめていると、蘇芳の胸に不安と孤独が渦巻いた。親に置き去りにされた子供のような気分だった。  さっきまで暖かかった陽射しが、いつの間にか翳っていた。 「どうして……」  蘇芳は、我知らず呟いた。  蘇芳の身体を強引に組み敷き、抵抗した蘇芳の顔面を容赦なく打ち据えたその手が、今日はただ、静かに蘇芳の手を握ってくれた。 「どうして……」  高慢で酷薄。  狷介な雰囲気を纏いながらも、本質的には優しい人。  ――どちらが本当の姿なのか、それとも、どちらも偽物なのか。  蘇芳の中で答えは浮かばず、ただ言葉だけが零れた。 「どうして……」  頭がついていかないまま、口だけが勝手に動いていた。  ――ずっと、寄り添ってくれていた。血に飢えてパニックを起こした時も、血を飲んだ後、自己嫌悪に陥った時も、ずっと……。なのに、無表情で、まるで物を見るような目で打ち据えられた……。 「どうして……」  まるで壊れたレコードのように、針がレコードの溝の一箇所をなぞり続けるように、蘇芳は何度も繰り返していた。  その言葉に、意味はなかった。  けれども、言葉にしなければ、今にも崩れてしまいそうだった。

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