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最後のスライドが映し終わり、プロジェクターの明かりが切れた。
チャイムの音とともに、学生たちが、ざわめきながら席を立った。椅子を引く音、ノートに書き込む音、雑談の声が重なる中、蘇芳は荷物をまとめながら、そっと斜め前を見やった。
美鶴がいた。
美鶴は4年生とはいえ、理学部から文学部に転部してきた経緯があり、その影響で、1年生や2年生が履修するような導入的な講義も、単位の都合から受講しているようだった。
とはいえ、春学期には姿を見たことがなかった。だからこそ、蘇芳は化学研究会の合宿に参加するまで、美鶴を理学部の学生だと思っていた。
それなのに、どういうわけか、秋学期では履修している講義が3つも被っていた。
――まずい……。見つからないうちに、早く教室を出よう。
だが、蘇芳が立ち上がろうとした時には、すでに美鶴はまっすぐ蘇芳のほうに歩いてきていた。
「蘇芳君、体調はどう?」
「……ええ、まあ、落ち着いてきています」
蘇芳は曖昧に笑いながら、なるべく自然に返した。
本当は、できれば美鶴と会いたくなかった。だが、同じ講義を3つも受講している以上、避けるのは不可能だった。
美鶴に会うと、必ず催眠の話になり、施術を受けさせられてしまう。
だが蘇芳は、図書館裏で紺野と話をしてから、美鶴によって導かれた《過去の記憶》、ひいては美鶴の施術そのものに対する信頼が、揺らぎ始めていた。
紺野に意見されたから、というわけではないが、少し、催眠から遠ざかりたいという気持ちになっていた。
そんな蘇芳の思いとは裏腹に、美鶴はハイテンションで答えた。
「よかった! やっぱりヒプノセラピーはスゴイでしょ。次の講義、休講でしょ? いつものハンバーガーショップでいい?」
施術を受ける前提で、話が進んでいることに、蘇芳は内心慌てた。
「あ、いや……」
言葉を選びながら、蘇芳はやんわりと首を振った。
「……すみません、今日はちょっと……」
「化学研究会のサークル室のほうが落ち着くかもだけど、あそこで施術するの、石川が良い顔しないのよね」
普段、美鶴はここまで一方的に話を進めることはなかったはずだ。華やかな雰囲気を纏いながらも、理知的な女性、という印象が強かった。
ところが、話がヒプノセラピーに及ぶと、途端に感情的になり、周りが見えなくなるようだ。
「この前のヒプノセラピー、すごくよかったでしょ? あれで少しでも気持ちが軽くなったなら、次はもっと深いレベルに行けるかもしれないって思ってて」
「いや、あの、最近は体調も落ち着いてるし……。だから、僕、しばらく様子を見たいな、って……」
「うん、だからこそ、今しっかりやらなきゃ。今が大事な分岐点なんだよ? 父親の影を払って、自分を取り戻して、紺野先生からの支配を断ち切る。ここからが戦いなの! あたしたちは今、ようやく《潜在意識》に触れはじめたところなんだから! 今、しっかり向き合わなきゃ、本当の輝きは手に入らないの!」
周囲の学生が、ちらりとこちらを見ているのが分かった。笑っている学生もいれば、気まずそうに視線を逸らす学生もいた。
それでも美鶴はお構いなしだった。
「……ね、蘇芳君。光が見えかけてる今、引き返したらダメなの。ヒプノセラピーって、人生を根本から変える力があるんだよ? これはもう《革命》なんだから」
断ろうとすればするほど、美鶴の話は、どんどんおかしな方向に展開されていく。周囲の学生からの好奇の視線が痛かった。早く教室を出たかった。
「……すみません。でも、本当にもう、大丈夫です」
蘇芳はリュックサックを背負うと、出口に向かって足早に歩いた。
美鶴は当然のように、歩調を合わせて付いてくる。
「うん。分かるよ。良くなったら、つい、『もう大丈夫かな』って思っちゃう気持ち。でもね、ちょっと良くなったところで油断すると、すぐに逆戻りしちゃうんだよね。だから、今が頑張り時なの!」
蘇芳は小さく溜息を吐いた。何を言っても、話が通じない。
施術を受けるよりも、断ることのほうが難しいとは、予想もしていなかった。
疲れ果てた蘇芳は、美鶴の導くままに、学生会館のハンバーガーショップに向かうしかなかった。
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