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 蘇芳はノックをしてから、ゆっくりと紺野の研究室のドアを開いた。  紺野は顔を上げようともせず、パソコン画面を睨みつけていた。  ――なんだよ、自分から呼びつけておいて……。  一瞬苛立ちを覚えた。だが、よくよく考えると、関係が拗れてからは、常のことだった。  この前、図書館裏で話したとき、昔に戻ったような気分になったせいか、自分の調子がどこかおかしくなっているのかもしれない。  紺野は律儀に、毎週蘇芳を呼びつけ続けている。高校時代からの慣習そのままだった。  変わったことといえば、犯されるようになったことだけだ。  ――犯される……?  傍からみれば、合意の行為にしか見えないだろう。  殴られたのは、ただ一度だけだ。  それ以降、蘇芳は一度も、紺野に抵抗していない。抵抗する気力を失っているのか、快楽に溺れているのか、蘇芳自身にも分からなかった。 「……忙しいなら、出直しましょうか?」  紺野はようやく顔を上げた。  蘇芳の顔をじっと見つめると、視線を逸らせた。 「具合が悪いのか?」 「え?」  特に体調が悪いわけではなかった。ただ、美鶴との不毛なやり取りと、施術を受けたことに疲れを感じているのは確かだった。  美鶴の退行催眠によって導かれた過去の記憶を疑い始めてからというもの、美鶴の施術そのものへの疑いが生じてしまい、施術中も意識が張り詰めたままだった。美鶴に合わせて、トランス状態に入っているふりをするものの、どこまで演じ切れているのか自信がなかった。そのせいか、施術を受けた後、自分の体が鉛のように重たく感じられた。  自分の過去と向き合うことでしか前に進めない――何度も、美鶴から叱咤激励を受けた。  前に進みたいという気持ちはある。だが、美鶴が向き合わせようとしている過去の記憶そのものに疑い抱いてしまった今、どう向き合えばいいのか、見当もつかなかった。  紺野は立ち上がると、蘇芳に近づいてきた。蘇芳は思わず身を竦めた。それに気が付いたのか、紺野は蘇芳の額に伸ばしかけていた手を止めた。 「……別にどこも、悪くないですけど……」  くぐもった声で、小さく答えるのが精一杯だった。 「そうか」  紺野はそれ以上追及することなく、保冷庫から取り出した血液製剤を蘇芳に手渡した。 「用が終われば、帰っていい」  ――今日は、抱く気がないってこと?  紺野に渡された血液を飲みながら、蘇芳は考えた。  半分ほど飲んで、蘇芳は血液バッグから口を離した。それ以上飲みたいと思えなかった。  ――疲れてるのかな? うん。まあ、そうかもな……。  帰っていいと言われているのに、どうして自分が帰ろうとしないのか、蘇芳自身にも分からなかった。なぜか、もうしばらくこの場に留まりたかった。居心地が悪いはずの紺野の研究室に、なぜか蘇芳は安心感を覚えていた。  普段から紺野は仄かに血の匂いを纏っているが、今日はいつもよりも、血の匂いが濃いような気がした。  ――動物の血……? ああ、そうか。多分、動物実験中なんだろうな。  それほど珍しいことでもなかった。  ――そうか。そのせいで、ここから離れたくないって、感じてしまったんだ。血に酔ってるんだな、きっと。  蘇芳は、何度も頷き、自分を納得させた。  いつもは飲み切る血液バッグを半分残していることとの矛盾から、蘇芳はあえて目を背けた。  ふと横を見ると、いつの間にか、紺野が蘇芳の隣に腰を下ろしていた。蘇芳は身を固くした。 「何かあったのか?」  紺野が蘇芳の顔を覗き込んだ。蘇芳は慌てて俯いた。 「……いえ、別に何も……」  紺野の視線が、蘇芳の飲み残した血液バッグに注がれたが、紺野は無言のまま蘇芳の肩に腕を回した。  肩を抱かれた瞬間、反射的に身体を強張らせた。だが紺野は、そのまま自然と蘇芳の体を自分の身体のほうに寄せ、蘇芳の頭を自分の肩へと導いた。  ほんのりと、温もりを感じた。  紺野は蘇芳の肩を抱いたまま、背をソファに預け、瞼を閉じていた。  蘇芳は紺野の肩に頭を預けたまま、しばらく動けずにいた。呼吸に合わせて上下する肩の動きが、妙に蘇芳の心を落ち着かせた。  ――もっと、触れていたい。  ふいに、そんな思いが胸を満たした。  蘇芳はそっと体を少し傾け、頬を紺野の胸に摺り寄せた。やわらかいシャツ越しに、熱と匂いが伝わってくる。血の匂いの奥に、別の匂いが混じっていた。  ――紺野さんの匂い……。  よく知っているはずなのに、思えばいつも、血液の匂いのほうに意識を奪われていた。  整った外見の奥に隠れている、体温を含んだ淡い匂いは、血の匂いよりも深く、静かに胸に沁みこんできた。  ――ずっと、このままでいられたら……。  だが次の瞬間、蘇芳は我に返った。  ――何やってるんだ、僕は。この人は、僕の気持ちを踏み躙って、無理やり僕を抱いたんだ。この人は、僕のことなんて人形とくらいにしか思ってないのに……。  蘇芳は慌てて紺野の身体から身を引こうとした。だが、紺野の腕が、それを拒んだ。  紺野の瞼がゆっくりと開き、まっすぐに蘇芳を見据えていた。  ――怒らせた……?  蘇芳は恐る恐る、紺野の顔色を窺った。だがその双眸には、怒りはなかった。ただその奥に一瞬、諦念と哀しみの色が揺らいだような気がした。  紺野はソファの背もたれから身体を起こすと、蘇芳をソファの上に押し倒した。  ソファのクッションが軋む音がした。  紺野は、いつものように淡々と蘇芳の服を剥ぎ始めた。  剥き出しになった肌の上を、指がゆっくりと這い回る。指は首筋を撫で、鎖骨をなぞり、下に下りていく。乳首を捏ねくり回されると、耐えられず、喘ぎ声が零れた。  下腹部にじわじわと熱が集まる。蘇芳は腿をすりあわせて、必死でごまかそうとした。だが、かえって後孔が疼いて、熱を感じてしまう。  ――気持ちが悪い……。嫌だ、こんなの、絶対嫌だ……。  自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。  だが、蘇芳自身も解っていた。  どれだけ否定的な言葉を心の中で呟こうと、自分の身体は紺野に与えられる快感に溺れていることを。  紺野は、そんな蘇芳を揶揄することはなかった。おそらく、蘇芳の反応になど、関心がないのだろう。  そう思うと、少しだけ気が楽になるのと同時に、虚しかった。           *  紺野は行為を終えると、蘇芳をソファの上に残したまま立ち上がった。思わず縋りかけた蘇芳の手を、紺野は煩わしげに払いのけた。 「疲れているなら、しばらく横になっているといい」 「いえ」と言いかけたが、蘇芳は自分の身体がまともに動かせないほど疲れていることに、ようやく気が付いた。  蘇芳は掛けられたブランケットに、顔面まで埋めた。  ――さっきみたいに、肩を抱いて欲しかったんだけど……。  そんなことが一瞬、脳裏を掠めたが、蘇芳は慌てて頭を横に振った。  紺野は蘇芳が従順であれば、表面上は優しかったが、あくまで上辺の優しさだった。そんな優しさに縋ろうとする自分に、蘇芳は嫌気がさした。  だが、幼少期のトラウマだの、父からの性的虐待だの、どう考えても解決できないことと向き合うことに、徒労感を覚えているのも確かだった。  しばらく、うとうとしていると、体調が少し戻ったようだ。蘇芳はのっそりと起き上がった。 「あの……、この前の、退行催眠で思い出した過去の記憶のことですが……」  紺野はパソコン画面から顔を上げた。紺野の目は、静かに澄んでいた。弁を弄して、催眠から遠ざけようとする意思は、感じ取れなかった。 「紺野さんは、どう思いますか? 僕は、父から虐待を受けたんでしょうか?」  蘇芳は縋るような口調で訊ねた。  ――そんなこと、私に分かるわけがないだろう。君の問題だ。  そんな言葉で突き放されそうな気もしたが、どうしても紺野に聞いてみたかった。  紺野は思案顔を浮かべ、少し間を置いてから口を開いた。 「君も知ってのとおり、記憶は曖昧なものだ。簡単に上書きも、捏造もできる。だからといって、退行催眠で思い出したという記憶が、嘘の記憶だと断言することもできない」  紺野の言葉は、蘇芳に寄り添うわけでもないが、かといって突き放すわけでもなかった。少し物足りない気がしたものの、ある意味、誠実な姿勢といえた。 「もし仮に、本当に過去にそういうことがあったとしたら、君は、どうしたい?」  思いがけない問いかけに、蘇芳は狼狽えた。  ――どうしたい、って言われても……。  父に謝られたからといって、何かが変わるとも思えなかった。縁を切りたいとも思っていない。向き合いたいのか、なかったことにしたいのか、それすら分からなかった。 「……分かりません」  蚊の鳴くような声で、呟いた。他に答えようがなかった。  紺野はうなずいた。 「そうだな。それなら、無理に答えを出す必要はないかもしれない。全てのことに、明確な解答が必要というわけではないから」  思いがけない返答に、蘇芳は紺野をまじまじと見つめた。  論理的で、なにごとも理路整然と割り切るタイプだと思っていただけに、意外だった。  それに、紺野は美鶴の退行催眠に批判的な考えを持ち、退行催眠に対して否定的な態度を取るとばかり思っていた。 「……僕が美鶴さんから退行催眠の施術を受けたこと、怒ってないんですか?」  恐る恐る訊ねると、紺野は苦笑を浮かべた。 「正直言って、軽率だとは思ったよ。でも、私は心理学についての知識がないから、退行催眠を否定するだけの材料は、持ち合わせていないよ」  かなり詳しそうな書籍を読み、アダルトチルドレンの定義をさらりと答えたこの人のいうところの《知識》は、専門家レベルの知識を指すようだ。  中途半端な知識を振りかざし、退行催眠を強行した美鶴とは、対極だった。  ――自分に対して、すごく厳しい姿勢で臨んでいるから、他の人に対しても厳しいんだろうな。美鶴さんとは相容れないわけだ。 「もし、君が過去の記憶の真偽にどうしても拘るなら、信頼できるカウンセラーや、相談機関に頼るのも手だとは思う」  蘇芳は、その言葉を反芻し、やがて小さく頷いた。  紺野の言わんとすることを、理解した。  ――記憶の真偽に拘るよりも、これからどう生きるかを考えた方がいい。  おそらく、それが紺野の考えだ。そして、その言葉を口にしなかったことに、紺野らしい思慮深さと優しさを感じた。  思えば、紺野は以前から、そういう人だった。  論理の綻びには容赦なく切り込むのに、人の本質的な部分――気質や性癖のような、心の奥底の領域――には不用意に踏み込まない。  かつて紺野は、蘇芳の性癖に対して、意見することなく受け入れてくれた。人の性癖についてとやかく意見することが、相手をひどく傷つける恐れがある行為だと知っているからこその優しさだと、蘇芳は感じた。  初めて会った頃に自分が抱いた印象は間違ってはいなかったのだと、改めて感じた。 「……ありがとうございます」  蘇芳は深く頭を下げた。心の底からの感謝だった。思えば、関係が拗れて以来、こんなに素直に感謝できたのは初めてかもしれない。  紺野は蘇芳を観察するような視線で見つめていたが、僅かに頬を緩ませた。 「相変わらず、頭の回転が速いな」  ――頭の回転が速い子は、好きだよ。  初対面の時に言われた言葉が、脳裏に甦った。  蘇芳は無意識のうちに、あの時と同じように頬を赤らめ、視線を彷徨わせた。

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