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 実験室を出た途端に、紺野は溜息を洩らした。  自分が妙に疲れていることを感じた。普段はなんとも思わない、実験室から自分の研究室までの距離が、無性に長く感じられた。  期待していた実験結果が得られなかった上に、学生たちの実験ノートのチェックに、思った以上の時間を取られたせいか。  ――いや、多分、そうじゃない……。  蘇芳の様子が、少しずつ変わってきている。この前は、血を半分しか飲まなかった。  良い方向に変化しているのは確かだった。だがそれは、紺野からの自立を意味していた。  それを喜ばしいと思えない自分の狭量さに、紺野は苛立った。  ――もう一度完膚なきまでに打ちのめして、この手に収めることもできなくはないが……。  一瞬、不穏な考えが頭に過ったが、慌てて打ち消した。そんなことをすれば、今度こそ本当に、蘇芳を壊してしまう。  紺野は足早に自身の研究室に戻ると、部屋の前のサインプレートを「外出中」にスライドさせてからドアを閉め、鍵を掛けた。  研究個室で、サインプレートが「外出中」となっている時は、在室している気配があっても、よほどの緊急の用件以外では来訪しないというのが、理学研究棟内の暗黙のルールとなっていた。  今は誰にも邪魔をされない、ひとりの時間が欲しかった。  紺野は倒れるように、ソファに腰を下ろした。胸がざわつき、呼吸が乱れているのが自分でも分かった。  テーブルの上のカレンダーが視界に入った。  高坂教授から、海外留学の打診があってから、すでに6日が経っていた。  ――そろそろ、返事をしなければ……。  自分が出すべき結論は、頭の中でははっきりと分かっていた。  だが、今は何も考えたくなかった。  しばらく目を閉じていたが、無性にコーヒーの香りが恋しくなった。  紺野はサイフォン器具一式を研究室に持ち込んでいた。  元々は、高坂教授がコーヒーに拘りがあるため、彼の歓心を買うために、淹れ方を研究しただけだったが、気づけば紺野自身も嵌っていた。  このまま頭の中で色んなことがぐるぐると際限なく回り続けるよりは、何か作業をしたほうが、気が紛れるような気がした。  紺野はサイフォン器具一式を取り出すと、ガラスの下部に慎重に水を注ぎ、上部のガラス部分をセットした。  ガスバーナーで水を温めている間に、ミルで豆を挽いた。滑らかな音とともに、香り高い粉末が徐々に溜まっていく。機械的な動作と、香ばしい豆の香りに、気持ちが少し落ち着いてきた。  ノックの音がした。  無視したかったが、緊急の用件である可能性もある。 「……はい?」  紺野は仕方なく立ち上がると、ドアを開いた。  そこに立っていたのは、蘇芳だった。この前会った時よりも、顔色がいい。 「……近くを通ったから」  紺野が呼んでもいないのに現れたのは、蘇芳を無理やり抱いて以降、初めてだった。  珍しいこともあるものだ。  しかも、季節外れの秋物のコートを着ている。  ――これは、あの時の……。  見覚えのあるコートだった。  秋が深くなっていたのに、真夏のように、Tシャツ1枚で現れた蘇芳に、紺野が買い与えた秋物のトレンチコートだった。  蘇芳に似合うものを吟味したつもりだったが、蘇芳の趣味ではなかったらしく、その後一度も着ている姿を見なかった。  ――無理もないか。服の趣味以前に、無理やり抱いた相手から押し付けられたものに、袖を通す気になんて、なれなかったんだろうな。ショップに連れ込んだ時も、無言で睨みつけられたし……。 「……それ、秋物だよ」  紺野は苦笑を浮かべながら、一応注意した。どういう気紛れかは分からないが、袖を通してくれたことが、本当は少し嬉しかった。  だが、何となく嫌な予感がした。 「……要るか?」  血液バッグを入れている貯蔵庫を指して、訊ねた。 「あ……、いえ、大丈夫です。最近、ちょっと落ち着いてきたんです」  その笑顔には、誇らしさが滲んでいた。  ――そういうことか。  ようやく、蘇芳が何をしに来たのか悟った。  血液製剤が不要になれば、蘇芳にとって、紺野と関わる必要はないのだ。  かつて脅迫したことを思い出した。  ――好血症だと触れ回ってやる。  我ながら、随分なことを口にしたものだ。蘇芳が自分の嗜好にどれほど苦しんでいるのか、誰よりもよく理解しているつもりだったにも拘わらず。  何にしろ、それも、蘇芳が血液から解放されたなら、意味をなさない脅迫だった。  ――来るべき時が来た。それだけのこと……。  紺野は内心の動揺を悟られまいと、淹れかけていたコーヒーに意識を移した。 「良い香りですね」  淹れかけのコーヒーの香りが、部屋中に充満していた。 「君も飲むか?」  蘇芳は肩を竦め、小さく頭を下げた。 「……すみません」  飲むのか、飲まないのか、判然としない答えだが、ソファに座るよう視線で促すと、蘇芳は嫌がるそぶりもなく、ソファに腰を下ろした。  紺野はマグカップを二つ取り出してコーヒーを注ぐと、ひとつを蘇芳の前に置いた。 「あの。これ、よかったら……。なんだかこの前、お疲れの様子だったから」  向かいに腰を下ろした紺野に、おずおずと差し出されたのは、市販のドリンク剤だった。 「悪いが、そういったものを、飲む習慣はない」  蘇芳は一瞬紺野の顔を凝視すると、悲しそうに目を伏せた。 「……ですよね」  紺野の答えを予想していたのか、強引に押し付けることなく、鞄の中にしまい込んだ。  そんな仕草が愛おしく、少しかわいそうな気がしてしまうのは、やはり惚れた弱みなのだろう。  ――そういえば、この子がくれたもの、一度も喜んで受け取ったことがなかったな。  香水、ホイップクリームでデコレーションされたドーナツ、そして今回のドリンク剤。どれも、紺野の嗜好とはかけ離れている。  ――私がこの子に贈ったものも、同じか。  紺野はコーヒーカップを口に運んだ。だが、蘇芳はなかなかコーヒーに手を付けようとはしなかった。  ――私が淹れたものになど、口をつけたくないのかもしれないな。 「香りを嗅ぐだけでも、気持ちが落ち着く」  飲まなくても良いと伝えたつもりだったが、伝わらなかったらしい。蘇芳は深刻な顔をしてコーヒーカップを見据えていた。  観念したように、蘇芳はコーヒーカップに手を伸ばした。  蘇芳は緊張した様子で、ミルクと砂糖を大量に入れから、口に運んだ。  飲んだふりをしてごまかすかと思えば、どうやら本当に飲んでいるらしい。 「甘くておいしいです」  スティックシュガーを3本分も入れれば、甘いのは当然だった。 「砂糖入れすぎじゃないのか?」 「え? 昔、紺野さんが淹れてくれたコーヒーだって、これくらい甘かったですよ」 「……あれは……」  おそらくオープンキャンパスで、蘇芳を介抱した時のことだろう。  談話室には、いわゆる置き菓子サービスのワゴンが置かれている。オフィスなどに菓子やスナック、飲料などの商品を提供するサービスで、専用の棚や自動販売機などを設置し、その施設のメンバーが自由に商品を購入することができる仕組みになっていた。  あの時の蘇芳はまだ顔色が戻らず、どこか不安げだった。そのせいか、何となく、甘い飲み物のほうが心が落ち着くのではないかと思い、ワゴンの中にあった、スティック状のフレーバーコーヒーの中でも甘そうなものを購入した。 「単に湯を注いだだけだ」  何がおかしいのか、蘇芳は頬に笑みを浮かべた。  久しぶりに見る蘇芳の笑顔に、紺野の胸が高鳴った。  ――こんな風に笑うんだっけ……。  蘇芳が紺野の前で笑顔を見せなくなってから、久しくなっていることに、今更のように気づいた。  蘇芳は丹念にコーヒーを掻き混ぜている。  ――いつになったら本題を切り出す気なのか?  蘇芳はおそらく、紺野に別れを告げに来たのだろう。どう切り出すべきか迷っているのか、蘇芳はなかなか口を開こうとはしない。 「私に話があって、来たんじゃないのか?」  結局しびれを切らして、紺野の方から訊ねた。  蘇芳はびくりと肩を震わせた。 「あ、はい……」  蘇芳はコーヒーを掻き混ぜる手を止め、両手を膝の上に置いた。  「……その……、この前のことですけど……」  そこまで言うと、また黙り込んだ。しばらく経ってから、意を決したように、ぽつりと口にした。 「……催眠療法を受けるの、断りました。やっぱり、父から虐待された記憶なんか、ないような気がして……」  途切れがちに、言葉を選びながら、蘇芳は続けた。 「それに、万が一、後退催眠で導き出した記憶が真実だったとしても、それで父を糾弾したところで、何も変わらないような気がします」  蘇芳はそこまで言い切ると、紺野を上目遣いに見た。 「そうか」  紺野はその一言しか返さなかった。  だがわずかに浮かべた微笑みを見て取ったのか、蘇芳は安堵の表情を浮かべた。 「……それだけ、伝えたくて……」  気恥ずかしそうに口早に呟くと、蘇芳はまた黙り込んだ。  ――それだけ?  血液製剤が不要になった旨と、催眠療法の問題が解決した旨を伝えに来たということか。  今後の呼び出しは控えて欲しい、とくらいは言うかと思ったが、言いにくいのだろうか。血液製剤が不要なら、紺野が呼び出す理由がないのだから、そこまで言う必要はないと判断したのかもしれない。  だが、その割には、帰ろうとするそぶりは見せず、コーヒーにちびちびと口をつけたり、ソファに視線を落としながら、時折、上目遣いで紺野の顔色を窺ったりしていた。  ソファに視線を落とすたび、身構えるように肩がこわばるのが分かった。  紺野はようやく、蘇芳の困惑に思い至った。  いつもは、用を終えると、そのままソファに組み敷いて、行為に及んでいたのだ。蘇芳は、それを恐れているのだろう。極度の緊張状態なのか、背を丸めた状態で、ハンカチを握りしめ、しきりに手を拭いている。その姿は、ハツカネズミが前肢をこすり合わせるしぐさに似ていた。  愛しさと悲しさが、胸に湧き上がってきた。できるものなら、小さく震える背中を撫で、抱きしめたかった。  ――何を考えている? かえって怯えさせるだけじゃないか。  蘇芳のしぐさは、怯えたハツカネズミが巣材の中で身を縮めながら、前肢をせわしなく擦り合わせている姿によく似ていた。  紺野はソファから立ち上がると、ドアのほうに歩を進めた。  それでも蘇芳は、紺野の意思を読み取ろうとするように、上目遣いに見つめてくる。紺野が頷くと、蘇芳は僅かに口元を緩めた。安堵の表情かと思うと、一層紺野の胸を抉った。  ――何を動揺してる? この子が私に抱かれたくないと思っていたことくらい、はじめから解っていたことだ。  抱いてしまえば、蘇芳は紺野の腕の中で快感に溺れていた。だがそのことが免罪符になり得ないことは、紺野が誰よりも自覚していた。 「あの……、もしかして、何か怒ってます?」  蘇芳はソファから腰を浮かせかけたが、また座り直した。 「いや」 「じゃあ、どうして……?」  何を言おうとしているのか分からないが、紺野から離れたそうなそぶりを見せるにも拘わらず、なかなか帰ろうとしない。  蘇芳の言動は、紺野の理解の域を超えていた。紺野はそのことに、じわじわと苛立ちを覚え始めた。 「忙しいんだ。用事が済んだなら、帰ってくれないか?」  蘇芳は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに肩を竦めた。 「あ……、はい。お忙しい時に、すみません」  言い終えないうちに立ち上がると、蘇芳は慌てふためいた様子で、荷物を抱えて小走りでドアに向かった。  飲みかけのコーヒーカップの傍らに、理学研究棟のカードキーが置かれていた。紺野が急かしたせいで忘れているのか、わざとなのか。  ――わざとだな。  紺野は直感した。蘇芳は普段、カードキーをテーブルに置く習慣がなかった。  カードキーは、血液製剤を提供する約束をした時に手渡したものだ。それを手放すことで、紺野との関係を消滅させることを、示しているつもりなのだ。  蘇芳には、子供じみた駆け引きをする一面もあった。そういう面も含めて、可愛くて堪らなかった。  だが、そんな想いにも、終止符を打つべき時が来ていた。 「突然お邪魔して、申し訳ありませんでした」  蘇芳は、ぺこりと頭を下げた。 「蘇芳君」  背を向けようとした蘇芳に、紺野は声を掛けた。 「はい?」  蘇芳は怪訝そうに振り返った。 「今まで、申し訳なかった」  きょとんとした顔で、蘇芳は紺野の顔を凝視した。 「何……言ってるんですか?」 「君を脅して、君を強引に抱いたこと、申し訳なく思っている」  蘇芳は一瞬、顔を引き攣らせたが、床を睨みつけながら呟いた。 「あれは……、合意の上のこと……だと思ってます」  思いもよらない返答に、紺野は苦笑するしかなかった。 「殴られて、手を縛められて行為に及ぶことを、合意とは言わないよ」 「でも、僕はそう思ってますから」  紺野の言葉に被せるように、蘇芳は鋭く叫んだ。  謝罪を受け入れる気など、毛頭ない、という強い意思を感じた。紺野の行為は、それほど蘇芳に大きな傷を与えたのだろう。  だが蘇芳は、すぐに叫んだことを恥じるように視線を泳がせたかと思えば、困惑と恐怖が混じったような様子で、蘇芳は紺野の顔色を窺っていた。  ――この子は、いつもこんな目で私を見ていた。そんな風にしたのは、紛れもなく、この私だ。  蘇芳が怒りの表情を見せながらも、すぐに卑屈な態度を取る理由に思い至った。  ――まだこの子は、私の支配下にある、ということか。  紺野は薄く笑った。喜びではなく、諦観だった。  いったん植え付けられた恐怖心は、なかなか克服できない。克服するのに必要なのは、冷却期間だろう。  ――安心しろ。もう私から君に接触する気はないから。  胸の裡で、紺野は蘇芳に語り掛けた。その思いは伝わることなく、蘇芳はおどおどした様子で紺野の顔色を窺っては、床に視線を落としている。  ――こうして会えるのも、これで、最後か……。  我知らず、蘇芳の肩に手を伸ばしていた。  ――文弥……。  いつか、名前で呼びたいと思っていたが、結局その機会は得られなかった。  紺野は蘇芳の肩をゆっくりと撫でた。厚みのない華奢な肩は、出会った頃と変わっていなかった。  ――この子に惚れてから、2年か。  蘇芳が怪訝な面持ちで紺野を見上げていた。  紺野は慌てて蘇芳の肩から手を離した。 「失礼。糸くずがついていたから」 「あ、そうでしたか……。すみません。では、失礼します」  蘇芳は恥じらうように俯くと、目礼して部屋を出て行った。  紺野は蘇芳の肩に触れた自分の右手を握りしめながら、閉じられたドアを見据えていた。  蘇芳の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。  紺野はドアの前で佇んでいた。握りしめた右手から力が抜け、安堵とも諦観ともつかぬ笑みを口の端に浮かべた。   ――これでやっと、諦められる……。  蘇芳の飲み残したカップを手に取り、そっと口をつけた。せっかくのコーヒーの風味が台無しになった、甘ったるさだけが、口の中に広がった。こんなものを美味しいと言って飲んでいた蘇芳の味覚が、理解できなかった。 「……結局私は、君のことを最後まで理解することができなかったな」  蘇芳と出会ってからずっと、紺野の頭の中は蘇芳のことで一杯だった。それなのに、蘇芳のことを何一つ理解できず、寄り添うどころか、傷つけることしかできなかった。  ――最初から最後まで、完全な片思い……。これまでの人生で、一番長い片思い期間だった。  空になったコーヒーカップを、紺野はそっとテーブルの上に戻した。  長かった片思いに、紺野はゆっくりと終止符を打った。

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