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講義室の照明が、無機質な白光を天井から降らせている。
蘇芳はぼんやりとしながら、教壇に立って講義をする教授を眺めていた。
「心理学概論Ⅱ」の講義は、心理学の主要な理論や研究領域を幅広く学ぶ2年次向けの講義で、前半は講師による解説、後半は、あらかじめ割り当てられたテーマに沿って、学生が発表していく形式で進められている。
教授の声は聞こえているが、その意味が蘇芳の頭の中に入ってくることはなく、ただ音が通り過ぎていくだけだった。
──きっと、忙しいんだ。
自分に言い聞かせる声だけが、頭の中で木霊していた。
毎週木曜日に定期的に届いていた紺野からの連絡が、途絶えていた。
これまでも、血液製剤そのものは、互いの予定の折り合いがつかず、貰えない週もあった。だが、連絡をもらえなかったことは、高校生の頃から今まで、一度たりともなかった。日時と場所のみが記載された、事務的な短いメールだったが、いつからか、毎週のメールを待つのが当たり前になっていた。
届かない週が訪れるなんて、夢にも思わなかった。
先週の木曜日に連絡が来なかった時は、ちょうど忙しいタイミングなのかな、と思うだけの心の余裕があった。だが、それから一週間経っても、まだ連絡が来なかった。
――あの人が忙しいことくらい、分かってる……。僕だって、それくらいのことは、ちゃんと分かってるんだ。
この一週間、まともに眠っていない。眠気が全く感じられないし、頭は冴えているのだから、特に問題はないはずだ。
――忙しいんだよ……。
講義開始から50分が経過していた。すでに教授による講義が終わり、学生の発表が始まっていた。
隣の席の学生の冷たい視線に気づいて、蘇芳はスマートフォンを伏せた。それほどスマートフォンを見ているつもりはないが、何となく視線が向いてしまうのは、大抵の人に共通することで、特に蘇芳だけの話ではない。
蘇芳のスマートフォンの画面には〝通知なし〟の表示が続いていた。
「じゃあ、今日の発表、次の順番は……」
教授が名簿を見ながら、名前を読み上げた。
「蘇芳さん、お願いします」
言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。気がつくと、教室全体の視線が、蘇芳に注がれていた。
「……え?」
蘇芳は、だいぶ遅れてから、小さく呟いた。教授の顔には明らかに困惑の色が浮かんでいた。
「え、ちょっと……君、自分の発表日、忘れてたの? スケジュール、前に配ったよね?」
「……あ、す、すみません」
咄嗟に頭を下げながら、鞄の中からノートパソコンを取り出した。その手は、わずかに震えていた。
準備はしてあった。スライドも作ってある。
だが、頭の中が真っ白だった。手が震えているせいもあって、なかなか該当のデータを開くことができない。
「あの人、ずっとスマホ見てなかった?」
「さっきもさ、急に笑ったの、見た?。こわ……」
後列の女子学生たちが、ひそひそと囁き合っているのが聞こえた。
発表スライドの最初のページがようやく開けたと思った瞬間、伏せていたスマートフォンが震えた。
蘇芳の手が勝手に動き、スマートフォンを掴んだ。心臓が、喉元まで跳ね上がりそうだった。画面に映ったのは「大学ポータルサイトからのお知らせ」だった。
全身から、力が抜けた。脱力感からか、無性に笑いが込み上げて来た。喉の奥で引きつるような音を立てながら、蘇芳は顔を上げた。
「……で、できます。発表、します」
ノートパソコンを手に、ふらつきながら教室前方の発表席に向かい、ぎこちなく腰を下ろした。
スライドの最初のページを開くと、画面には、白地に課題タイトル〝自己認知の変容と防衛機制〟が表示されていた。自分で打った文字のはずなのに、なぜか他人のもののように思えた。
「じゃあ、お願いします」
教授は半ばあきれ顔で指示した。他の学生たちも、それぞれの席で気だるそうにこちらを見ていた。
「えっと……まず、防衛機制とは、フロイトが提唱した概念で……」
レジュメ通りに、噛まずに読むだけの作業のはずが、ずっと声が震えていた。自分でも、途中で何を話しているのか分からなくなり、スライドをめくるタイミングや、表示する順番を何度も誤り、内容が話があちこちに飛んだ。
誰も、指摘しない。
誰も、手を挙げない。
教授は腕を組んだまま、つまらなそうに時計を見ていた。
「……つまり、自己認知における防衛機制の役割というのは……」
言い淀んだところで、後列の女子学生たちがまた、ひそひそと囁いた。
「なんか、ずっと目泳いでる」
「さっき、スライド3枚くらい飛ばしてなかった?」
「声震えてるし、なんか、やばそう……」
蘇芳は聞こえないふりをして、やり過ごした。だが、背中に不快な汗がべっとりと張り付いていた。
「──以上で、発表を終わります」
締めの言葉を口にしても、拍手もなく、ただ微妙な静けさが漂っていた。自分の存在だけが、この部屋で浮いているような気がした。
「……はい。お疲れさまでした」
教授が面倒くさそうに一言だけ口にした。蘇芳の発表に対してだけ、何のコメントもなく、次の発表者の名前を読み上げていた。
蘇芳は席に戻った。パソコンの画面を閉じながら、視線が自然と、机の上に置かれたスマートフォンの画面に吸い寄せられた。
*
いつの間にか、講義は終わっていた。
蘇芳はのっそりと立ち上がると、講義室を出た。背後で何か囁く声がしたような気がするが、気に掛けるほどの気力はなかった。
廊下に出た途端、背後から硬いヒールの足音が近づいてきた。
「蘇芳君、大丈夫?」
振り返ると、美鶴が佇んでいた。美鶴は文学部の女子の中に入っても、やはり華やかでひときわ目立つ容姿だった。
くっきりとした睫毛はいつものままだが、口紅の色が濃くなったような気がした。谷間を強調したVネックのタイトセーターに、蘇芳は目のやり場に困って、視線を泳がせた。
「……え? なんですか? 僕はいつも通り元気ですよ」
「そう? なんか、今日すごく無理してる感じだよ? 何かあったんじゃない?」
笑顔のまま、ぐっと顔を近づけてくる。
蘇芳は一歩、後ろに引いた。
「眠れてないんじゃない? 目が真っ赤だよ」
図星を突かれて、返す言葉が見つからなかった。そんな蘇芳に、美鶴は追い討ちをかける。
「この前、時間が欲しいって言ってたよね? 時間を置いて、やっと蘇芳君の潜在意識が声を上げはじめたんだよ」
美鶴は、まるで神託でも受けたかのように、確信をもって言い放った。
「無意識って、ほんとに侮れないんだよ。蘇芳君の潜在意識の奥ににはまだ、《満たされなかった子ども》が残ってるの。その子が一生懸命《気づいてほしい》って叫んでるんだよ」
美鶴の鞄の中から、スマートフォンの振動音が鳴り始めたが、美鶴はそれに構うことなく続けた。
「その子の叫びに、ちゃんと応えてあげなきゃダメだよ。辛いかもしれないけど、ちゃんと聞いてあげようよ、ね?」
その間も、ずっと振動音が続いている。
ようやく美鶴は、鞄のポケットを探ってスマートフォンを取り出した。画面を見た途端、小さな声を上げた。
「あっ、山田君……」
「え?」
思わず蘇芳が声を上げると、美鶴は苦笑を浮かべた。
「今朝、化学研究会のサークル室で会うって約束してたの。完全に忘れてた……。まずいな、2時間くらい放置しちゃった」
とはいえ、山田が怒ることはないと確信しているのか、それほど焦った様子もなく、返信を打ち始めた。
蘇芳は、そのままひとりで立ち去るわけにもいかず、その場で立っていた。
「ねえ、よかったら一緒に来る? 山田君には私からちゃんと説明するから。今ならまだサークル室にいるはず」
「……僕も、行っていいんですか」
「うん。気分、少しでも紛れるかもしれないし」
その言葉に、蘇芳は迷いながらも頷いた。
誰かと一緒にいた方が、ひとりきりで考え込まずに済む――そんな小さな逃避のような気持ちで、美鶴の後について教室を出た。
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