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 美鶴に導かれるままに、蘇芳は理学部棟に足を踏み入れた。  理学部棟に立ち入ったのは、高校時代のオープンキャンパス以来だった。  かつて、化学研究会主催の実験が行われた教室の前を通った時、懐かしさが込み上げてきた。  ――紺野さんに抱かれて、この廊下を通ったんだっけ……。  甘酸っぱいような感傷が、胸を締めつけた。  美鶴はその教室の前を何事もなく通り過ぎると、隅にある小さな部屋のドアを開いた。ドア横のプレートには「化学研究会活動室」と掲げられていた。  ――ここが化学研究会のサークル室なのか。   合宿には参加したことがあったが、サークル室に来たのは初めてだ。  美鶴がドアを開くやいなや、山田の「遅いじゃないですかー」という声が廊下まで響いた。  美鶴は軽い口調で謝りながら、差し入れの缶ジュースと菓子類を机の上に並べた。  サークル室の中には、山田以外には、4年生の石川と、1年生の男子学生2名がいた。石川と男子学生2人は、カードゲームに興じているようだ。 「蘇芳? なんでおまえまで……」  山田の口ぶりは、蘇芳を歓迎してはいないようだった。 「講義で一緒だったの。色々話をしたかったんだけど、山田君から連絡入ったから、連れてきちゃった。いけなかった?」 「あ、いえ。全然。大歓迎ですよ」  山田はすぐに満面の笑みを浮かべた。美鶴だけでなく、蘇芳にも笑って見せた。 「山田君から、相談に乗って欲しいって連絡が入ってたの。どんな悩みも、ヒプノセラピーなら解決できるから、大丈夫よ」 「あ、いや……。そういうのじゃなくて……」  山田が苦笑を浮かべた。 「とりあえず座ろうか。せっかく買ってきたんだから、食べてよ」  美鶴に勧められるままに、4人掛けの机の端に腰を下ろした。渡された缶ジュースとシュークリームを受け取ったものの、あまり食欲がなかった。  美鶴が蘇芳の向かいに座ると、山田は迷わず美鶴の隣に腰を下ろした。  「なんか、久しぶりですねー。前はよく、3人で、学生会館のバーガーショップでランチしてましたよねー。心理学科って、そんなに忙しいんですか?」  山田がスナック菓子の袋を開けながら、屈託なく訊ねた。  美鶴がばつの悪そうな表情を浮かべて視線を泳がせた。  美鶴は蘇芳と、頻繁にハンバーガーショップで会っていた。  どうやら、山田からのランチの誘いを断って、蘇芳にヒプノセラピーのセッションを受けさせていたようだ。 「……まあね。卒論、まだできてなくてね」  山田は美鶴の苦しげな言い訳に追及することなく、ハイテンションで話し始めた。蘇芳には分からない、化学に関する話のようだが、蘇芳は自分が参加する必要がなくて、気が楽だった。  蘇芳はぼんやりとしながら、缶ジュースを舐めるように飲んでいた。 「ちょっと、蘇芳君。みんなでしゃべってる時にスマホ見るのって、マナー違反だよ」  蘇芳は美鶴に指摘されて、自分がスマートフォンの画面に見入っていたことに気がついた。蘇芳は慌ててスマートフォンを裏返して机の上に置いた。 「まあまあ。こいつ、昔から、スマホ依存症なんですよ。特に木曜日はずっとスマホ画面に釘付けでしたよ、高校時代から」  山田が、少し棘のある言い方をした。 「そんなんじゃないけど……」 「さっきの講義中も、何度か注意されてたでしょ」  それほど露骨にスマートフォンを見ているつもりはないが、確かに講義中、教授から数回にわたって注意を受けたような気がした。 「そういや蘇芳、おまえ、最近、理学研究棟に行ってないんじゃね?」  突然、山田が問いかけてきた。 「あ、それ、あたしもちょっと気になってたの」  美鶴はシュークリームを食べる手を止め、真顔で蘇芳を見つめている。  触れられたくない話題を振られ、蘇芳は顔を硬直させた。 「もしかして、紺野先生に見限られたとか?」  最も聞きたくなかった言葉に、心臓を抉り出されるような激痛が走った。その可能性を、蘇芳自身、考えなかったわけではない。  その考えが頭を掠めるたびに、暗闇にひとり放り出されるような恐怖と苦しさに、身体が震えた。  最後に紺野と会ったのは、二週間近く前、蘇芳のほうから紺野を訪ねた日だった。  ――美鶴さんからの催眠術を受けるのを止めるって、報告しに行ったんだっけ……。  内心、紺野が褒めてくれることを、期待していた。  人形としてではなく、人間として抱いてもらえるかも……、などと不遜な願いを抱いていたかもしれない。  蘇芳の期待は外れたものの、紺野が怒っている様子は感じられなかった。ただ、どこか疲れた様子ではあった。  突然謝罪の言葉を口にして、よほど心が弱っているのではないかと、逆に心配になったほどだ。  だから、抱いてくれなかったのは、怒っていたからではなく、疲れていたからだと思った。  ――だいたい、紺野さんが僕を見限ったなら、僕の性癖を吹聴するって言ってたじゃないか。そんな話が広がってたら、さすがに僕だって気づくよ。うん、だから大丈夫……。 「……忙しそうにしてたから、多分そのせいです」  蘇芳は殊更に明るく答えた。 「まあ、確かに紺野先生、いつも忙しそうだよな」  山田が一応、フォローするような口調で呟いたが、その呟きは、素っ頓狂な大声で掻き消された。 「よかった! おめでとう、蘇芳君」  美鶴は満面の笑みで、手を叩いている。蘇芳は、何がめでたいのか分からず、呆然と美鶴を見つめた。 「紺野先生から連絡がないってことは、解放されたってことでしょ? これで蘇芳君は、やっと自由を手に入れられたの」  美鶴は嬉しそうに顔をほころばせながら、続けた。 「ほんとによかった……。そっか……。やっと潜在意識の蓋が開き始めたんだよ。これまであんなにセッションをこなしてきたのに、なかなかうまくいかなかったのは、やっぱり紺野先生からの悪影響が大きかったのね」  美鶴は満足げに、何度も頷いた。 「大丈夫。これからは、どんどん人生が好転していくよ。世界が光で満ち溢れていくんだから。ワクワクするね」  ハイテンションになっている美鶴を見ているだけで、無性に疲れた気分になった。美鶴の横で、退屈そうにスナック菓子を口に放り込む山田の冷たい視線も、蘇芳の疲れを助長した。 「……光、ですか。どっちかというと、闇の底に転落していっている気がします……」  蘇芳は思わず、溜息まじりに本音を漏らした。  一瞬、美鶴と山田が視線を上げた。 「何言ってるの? 嬉しくないの? 紺野先生から解放されて」  美鶴が厳しい眼差しで、蘇芳の顔を覗き込んだ。   ――解放……。  確かに、紺野の傍にいるのを苦痛に感じていたのは事実だった。暴行した上で強姦するような人だと思っていなかったから、そのショックも大きかった。  だが、日が経つにつれ、あの時のショックが和らいできたというか、現実感が薄れてきたのか、悪い夢でも見たような気がしてきた。  たとえ上辺だけであったとしても、紺野は蘇芳が従順でさえいたら、優しかった。蘇芳の悩みにも、真摯な態度で相談に乗ってくれた。  紺野に対して思うところはあっても、紺野の傍から離れることなど、考えられなかった。  ――単に、血液バッグを貰えなくなるのが嫌なんじゃないのか?  そんな風に、何度も自分に問いかけてみた。だが、どういうわけか、紺野に抱かれるようになってから、血液に対する執着が、不思議なほど消えていった。それに対応するかのように膨らんでいくのが、紺野への想いだった。 「……ああ、そうか。好転反応ね」  美鶴はひとりで納得して、大きく何度も頷いた。 「大丈夫、心配しないで。好転反応って分かる? 良くなる前に、一時的に状況が悪化するの。今はその時なの。だから大丈夫。それを乗り越えたら、すうっと道が開けるから。急に目の前が開けて、明るくなるよ」  男子学生たちが、手元のカードを睨むふりをしながら、ちらちらと美鶴に視線を遣っていた。ふたりは、どうやら笑いを堪えているようだ。それに対して石川は、明らかに不機嫌そうな顔でゲームを続けていた。  蘇芳の浮かない表情を見て取ったのか、美鶴は更に重ねる。 「心配なのはわかるけど、でも、大丈夫。安心して。ヒプノセラピーは万能なの。過去と向き合って、自分の中の真実を知ることが、救いへの第一歩なの。もう潜在意識の蓋が開き始めてたんだから、もう一歩だよ。一番大変な試練をクリアしたんだから、自信をもっていいよ」 「世の中に、万能のものなんか、あるんですか……?」  聞いてはいけないといつも思っていた疑問が、ポロリと漏れた。  仮にも元理学部で、紺野に反発し続けたという美鶴が、ヒプノセラピーを妄信していることに、蘇芳はずっと違和感を覚えていた。  だが、その程度の問いに怯む美鶴ではなかった。 「うん、うん。分かるよ。まだ光が見えてこない時って、不安なのよね。あたしもそうだった。でもね、催眠療法を通して、過去の自分を受け入れたからこそ、あたしは、こうして立ち直れたの。蘇芳君にも、早く立ち直って欲しいの」 「……美鶴さんの言う、過去の自分って、何ですか?」  美鶴は視線を上げ、しばらく宙を睨みつけて考え込んでいた。しばらくしてから、ようやく口を開いた。 「紺野先生に植え付けられた、自己否定とか無力感……かしら。紺野先生が全て悪かったのに、あたし、自分が悪いんじゃないか、って勘違いしちゃって、本来の自分の輝きを封印してしまったの」  石川が呆れたような眼差しで、美鶴を横目で見た。 「蘇芳君だって、本当は分かってるんでしょ? あなたはお父さんから、性的虐待を受けていたの。それを否定しようとするのは、自己防衛の一種。でも、それじゃ、永遠に回復しないの。それがやっと、潜在意識の蓋が開いたんだから、今こそ、本当の自分を見つめ直す時なんだよ!」  美鶴は唾を飛ばしながら、捲くし立てた。 「怖くて尻込みする気持ちは、すごく分かるよ。自分と向き合うのって、誰でも怖いの。でも、怖れないで。ヒプノセラピーには、ちゃんと君を救うパワーがあるんだから。じゃあ、早速やってみようね?」  美鶴が立ち上がりかけたその時、石川が低い声で制止した。 「おい、化学研究会で、ヒプノセラピー絡みは禁止だぞ」  美鶴は一瞬苛立った表情を浮かべたものの、すぐに笑顔を作った。 「分かってるって。蘇芳君は化学研究会のメンバーじゃないんだから、いいでしょ」 「いや、だったらここ使うなよ。おまえのヒプノセラピーのおかげで、何人のサークル員に逃げられたと思ってんだよ。新歓の時、俺達に黙って妙なパンフレットをばら撒いてくれたおかげで、こっちがどれだけ迷惑被ったと思ってるんだ?」  石川が手にしていたカードを机の上に叩きつけた。一緒に机を囲んでいた学生たちが、顔面を硬直させた。 「うちは化学研究会なんだよ。ヒプノセラピーをやりたいなら、よそに行ってくれよ」  石川が癇癪を起こしたように叫んだ。  それに呼応するかのように、美鶴は勢いよく立ち上がると、突然早口で捲くし立てた。 「何度も言ってるけど、ヒプノセラピーは《非科学》なんかじゃないの! ちゃんと心理学の分野で臨床研究もされてるし、脳波の変化だって実証されてるの。実際に効果があるって示されたケースもあるし、それを《うさんくさい》って決めつけるほうが、よっぽど非科学的じゃないの?!」  石川も怯むことなく言い返した。 「効果があるって示されたケースって、何なんだよ? その効果は再現性があるのか?」  美鶴は一瞬口を噤んだが、すぐに切り返した。 「ヒプノセラピーは、魂の深層に触れるものなの。だから、人によって反応が違うのは当然でしょ。人それぞれ、魂の周波数も違うし、前世で受けた傷の深さも違うんだから、効果に個人差があるのはむしろ自然なことなの。そういう多様性を認めない考えのほうが間違ってるって、どうして気づけないの?」  石川は呆れたような表情を浮かべた。 「あのなぁ、おまえ、理学部で何を学んだんだよ? おまえの言ってるのは、科学じゃなくて、信仰だろ」  重たい沈黙が、部屋の中を漂った。 「あの……、僕、ヒプノセラピーを受ける気で来たわけじゃないので……。そろそろ失礼します」  蘇芳が腰を上げようとすると、美鶴も立ち上がった。 「あ、そうね。石川が変なこと言うから……。場所変えようか」 「……そうじゃなくて、僕、父から虐待なんて受けていないと思います」  ぽつりと呟いた言葉に、美鶴の動きが止まる。 「え? 今、何て……?」 「自分の過去を思い出そうとして、色々考えました。……でもやっぱり、そんな記憶はどこにもなかったです」 「それは……それは、本当の自分と、まだちゃんと向き合えてないからよ! どうして、分からないの? こんなに説明してあげてるのに」  美鶴の声が裏返った。  美鶴がこれほど感情的になるとは、予想してなかった。蘇芳は困惑しながらも、蘇芳は俯いて、耐えるしかなかった。何を言っても、平行線であることは分かっていた。  しばらく唇を噛み締めていた美鶴が、ふっと溜息を漏らした。 「……バカみたい」  吐き捨てるような呟きに、一瞬、空気が固まった。 「そんなのだから、校内でも誰ともまともに交われない、浮いた存在にになるのよ。気づかなかったでしょうけど、さっきの講義の時の発表だって、みんな、呆れてたのよ? 可哀そうだから、どうにかしてあげたいと思ったけど、これじゃ、どうしようもないわ」 「浮いた存在」というフレーズで、男子学生たちが忍び笑いを漏らしかけ、必死で噛み殺していた。 「助けてあげる価値もない人間だったなんて……、残念」  美鶴はくるりと背を向けると、ドアから足早に出て行った。ドアが叩きつけられる音が、部屋中に響き渡った。

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