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美鶴の足音が消えると、薄暗い部屋の中は、換気扇の音だけが響いていた。
「……おまえさ、美鶴さんがどれだけ心配してたか、分かってんのかよ?」
山田は、厳しい口調で訊ねてきた。
「美鶴さん自身、催眠療法に救われたから、おまえも救ってあげたくて、必死なんだよ。なのに、あんな風に断るなんて、美鶴さんに悪いとか思わないのか?」
「……でも、〝美鶴さんに悪い〟とか、そんな気持ちで施術を受けようとするほうが、失礼なんじゃないかって……」
山田が片頬を歪めるようにして笑った。
「おまえって、いっつもそんな感じだな。その頼りなさそうな雰囲気で、人をおびき寄せて、好意だけもらって、感謝の欠片も持ってないだろ。昔からそうだった。当然みたいな顔で人の好意を受けて、その相手を平然と踏み躙っていくんだ」
口元こそ笑みを浮かべているが、山田の目は怒りに満ちていた。山田が、何に対してそれほどの怒りを感じているのか掴めず、蘇芳は困惑した。
その微妙な空気を察したのか、石川が、呆れ声で遮った。
「嫉妬かよ? みっともねえぞ、山田」
「え? 俺ですか?」
いかにも不本意といった口調で山田が叫んだ。だが石川の顔に笑みが一切ないのを見て取って、山田は後に続けようとした言葉を呑み込んだ。
「山田、おまえが美鶴に入れ込んでるのは知ってるよ。美鶴がご執心の、蘇芳のことが気に食わないこともな。でもな、研究会全体に迷惑がかかるのは勘弁してくれ」
「何言ってるんですか? 美鶴さんが悪いみたいに言うのは……」
「言うよ、はっきりな。本当だったら、除名にしたいくらいだよ。まあ、さすがに可哀そうだから、そこまではやらないけど」
石川の思いがけない口ぶりに、山田は目を大きく見開いていた。石川は机に肘をついて、蘇芳と山田を見渡すように言った。
「そもそも、美鶴が紺野先生に目をつけられたのは、自業自得だ」
部屋の空気がわずかに揺れた。蘇芳も、山田も言葉を失った。
「おまえたちも知ってるだろうけど、オープンキャンパスの公開講座で事故って、この研究会は公認を取り消される危機だったんだ。なのに美鶴は、頑なに正当化を続けるんだ。そりゃ、正直言って、俺もビーカーが割れるとは思わなかったよ。でも実際割れて、下手すりゃ見学者に怪我を負わせてたんだ。あれで謝らないのは異常だよ」
思わず頷きかけた蘇芳に、山田が射貫くような目で睨みつけた。蘇芳は慌てて動きを止めた。
「俺が日参で紺野先生に詫びを入れに行かなかったら、丸く収まったかどうか分からない。あの時は、毎日研究棟の前で張ってたんだからな。マジで大変だったわ」
石川は普段、お調子者っぽく振る舞っているが、根は真面目なのだろう。
「それなのに、美鶴はその後も、何かと紺野先生に反発する。紺野先生にちょっとでも注意されようものなら、ものすごい勢いで噛みつきに行くんだ。俺達が距離を置いたら、次は保身に走ったって言って、俺達を非難する。美鶴は、俺たちが美鶴を援護して、共に紺野先生と戦うのが当然だと思ってたみたいなんだ。いや、普通に考えて、紺野先生の言い分のほうが正しいし、そもそも、うちの学部の実質トップの高坂先生の懐刀って言われてる人を、わざわざ敵に回しに行く奴が、どこにいるんだよ? 青臭い青春ごっこは、高校生までだろ」
石川は溜息を洩らした。
「美鶴の暴走のおかげで、未だに化学研究会は、高坂先生の研究室から実験器具を借りにくいんだ。美鶴がまだ研究会のメンバーだから、遠慮せざるを得ない。正直、こっちは迷惑してる。……これ以上、余計なことするな」
山田も、美鶴の擁護を諦めたのか、神妙な面持ちで俯いていた。
「山田、おまえもそろそろ身の振り方考えたほうがいいぞ。美鶴に同情して、巻き添え食ったら、一生棒に振るぞ。冷静になって考えてみろ。文学部に転部してから、美鶴がまともに化学研究会の活動に参加したことがあったか? ヒプノセラピーだか何だかの、スピリチュアルだか新興宗教みたいな妙な活動ばかりしてくれたおかげで、このサークルの化学に対する認識すら疑われる始末だよ。おまえもその一味だと思われたら、高坂先生のグループはもちろん、他のグループからも爪弾きにされかねないぞ」
山田は俯いたまま、微動だにしなかったが、表情が強張ったことは、隣に座る蘇芳にはすぐに分かった。
そんな山田を一瞥してから、石川は蘇芳に視線を向けた。
「なあ、蘇芳。おまえが紺野先生とどういう関係なのかは、この際どうでもいい。美鶴は紺野先生を逆恨みしてる。美鶴が意識しているかどうかはともかく、紺野先生への復讐の道具にされてるだけかもしれないぞ」
「……はい」
蘇芳は小さな声で答えた。
だが、石川の忠告は、蘇芳の心にそれほど響かなかった。
美鶴の目的はともかく、もし紺野が蘇芳を既に見限ったのであれば、蘇芳は復讐の道具になど、なり得なかった。
――やっぱり、紺野さんに見捨てられたのかもしれない……。
恐れが徐々に肥大化し、胸の中で膨張し続けていた。
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