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 夕方近くになって紺野は、図書館に向かった。  若手人材海外派遣支援事業に応募するための申請書類を作成するために使用した資料を返却するためだった。  10日ほど前に、紺野は高坂教授に、応募したい旨を伝えた。  高坂教授は、紺野の返答が遅かったことに対してやんわりと嫌味を口にしたものの、思いのほか上機嫌に口添えを快諾した。  高坂教授からの口添えがあれば、採択されることは決定したのも同然だった。  そうなれば、来月の半ばには、日本を発つことになるだろう。  念願だった海外研修に対する喜びを感じる一方で、蘇芳のことが頭をよぎった。  海外研修の件について、蘇芳には伝えていない。  ――いや、伝える必要すらない。あの子とのことは、もう終わったことだ。 「5点、全て返却いただきました。あ、ご予約の本が1点ご用意できていますね。少々お待ちください」  ライブラリースタッフが、席を立った。  何気なく資料閲覧席に目を遣ると、奥の方に蘇芳の姿が見えた。  蘇芳は机の下を覗き込み、椅子を動かし、周囲の本棚を一つ一つ確認しては、次の机を移動していた。  何かを探しているのだろうか。  不審な動きに、他の利用者たちが、ちらちらと蘇芳に視線を送っている。そんな回りの視線を気にする余裕もないらしく、蘇芳はひたすら探し回っていた。  声を掛けようか迷っていると、突然数人の学生がやってきて、蘇芳を取り囲んだ。  剣呑な雰囲気だが、どうやら蘇芳が授業をサボったことに対して文句を言いに来ただけのようだ。  学生たちは殺気立っているのに、蘇芳は視線を泳がせたり、薄笑いを浮かべたり、さらに机の下や自分の足元をしきりに見ている。探し物のほうが気になっているのだろう。  かえって相手を怒らせかねない態度ではあったが、不気味に感じたのか、怒りを露わにしていた学生たちは互いに目配せして、苦み走った表情を浮かべていた。 「お待たせしました。……あら、揉め事でしょうか?」  紺野の視線を追って、ライブラリースタッフも蘇芳たちのほうに目を向けた。 「大丈夫みたいですね、よかったー。はい、こちらがご予約の本です」  礼を言って本を受け取ったその時、蘇芳がふらふらした足取りで、貸出カウンターのとなりにある相談カウンターのほうに歩いてきた。  遠目で見ていた時には分からなかったが、近くで見ると、蘇芳の面変わりぶりは異様だった。頬がこけ、死んだ魚のような虚ろな目をしていた。皮膚は張りを失い、土気色にくすんでいる。それなのに、口の端だけが奇妙に吊り上がっていた。  蘇芳は虚ろな眼で相談カウンターのスタッフを見て、唇を僅かに動かしたものの、何も言わずに、よろけながら立ち去った。 「何、あれ……」 「なんかキモいよね」  ライブラリースタッフたちが、ひそひそと囁き合っていた。  ――あの奇妙な雰囲気、見覚えがあると思えば、出会った頃があんな感じに近かったな。ここまでひどくはなかったが。  本人は集団の中に混ざり込んでいるつもりなのだろうが、どこか不自然に浮いていた。この得体の知れない雰囲気には、放っておけないと感じさせる危うさがあった。  ――何があったんだ?   自然消滅を装って、連絡を絶ったものの、蘇芳からの連絡を受けるのを拒否したわけではない。  もしも何らかの相談をしたいというのであれば、拒む気はなかった。  恋人にすることも、拘束することも、もう諦めたが、もし本当に困っているなら、力にはなりたい。  その気持ちに偽りはなかった。  だが、蘇芳からは何の連絡も受けていない。  ――当たり前か。あの子は、私から逃げたがっていたのだから……。 「紺野先生、探しましたよ」  馴れ馴れしく声を掛けてくる相手は、須藤以外にはいなかった。 「さっき、文学部の学生が騒いでたみたいですねぇ。あれ、心理学科の二年生ですよ」  須藤は、にやっと笑った。  須藤は鈍い男ではなかった。紺野が未だに蘇芳に未練を持っていることに、気づいているのだろう。 「そうそう、3年の学部生が、卒論のことで相談があるって、紺野先生の研究室の前をうろついていましたけど?」 「……約束していた学生はいなかったはずだが……」  めったにないことだが、アポイントメントを取らずに突然訪ねてくる学生が、たまにいた。 「すぐに行く。先に戻っていてくれ」  須藤は頷くと、立ち去った。  須藤の姿が見えなくなったのを確認してから、紺野は蘇芳に電話を掛けた。だが、呼び出し音が鳴り続けるだけだった。とはいえ、着信拒否設定にはされていないようだ。そのことに、僅かに安堵を覚えた。 《君の様子が少し気になっている。会って話をしたい。何時になっても構わないから、連絡を待っている》  簡単な文面のメールを送信した。無視される可能性も高いが、蘇芳が独りで何かを抱え込んでいるなら、藁にも縋る思いで返信を寄越すかもしれない。  スマートフォンをポケットにしまおうとしたその時、返信があった。あまりの早さに驚きながらも、紺野はメールを見た。  《僕はもうあなたに会いたくはありません。もしあなたに少しでも良心があるのなら、金輪際僕と拘わらないでください。僕の望みはただそれだけです。》  思いがけない返答に、紺野は狼狽えた。想像もしていなかった、明確な拒絶の言葉だった。  言葉が出なかった。  しばらくすると、笑いが込み上げてきた。横隔膜が痙攣し、息苦しかった。  ――皮肉なものだな。  本音を受け止めるつもりで謝罪した時には、蘇芳は怒りどころか、事実そのものをなかったことにして、紺野の謝罪に取り合おうとはしなかった。  感情をぶつけることを避け、自分が傷つけられた出来事そのものを否定し、 向き合うのを避け、記憶から抹消する――その手段に、危うさを感じなくはなかった。  ――それが今になって……。  これほど明確に意思表示をできるようになったなら、それは喜ぶべきことなのかもしれない。 「良心……か」  無理やり組み敷いた相手に突き付けるには、最適な言葉だ。 「こんなストレートな本音を聞けるとは思わなかったよ。蘇芳君」  蘇芳は今まで必死で、本音を呑み込んできたのだろう。  いつも、紺野の顔色を窺い、言葉を呑み込んできた蘇芳の姿が脳裏にこびり付いていた。 「……私は、ずっと君を苦しめていただけだったんだな」  ――謝罪は受け付けない。拘わらないでほしい――、それが君の望みだというなら、是非もない。  笑いが止まらなくなったせいか、紺野の目の端には涙が浮かんでいた。        *  研究室の窓の外では、日が落ちかけた冬の光が、鉛色の空に呑み込まれようとしていた。  紺野が研究室に戻った時には、卒論の相談があるという学部生はすでに姿を消していた。  紺野は椅子に腰を下ろすと、自身のスマートフォンに登録していた、蘇芳に関する情報を全て消去した。かつて蘇芳に渡していた理学研究棟のカードキーについては、既に登録抹消処理を終えている。  デスクの隅にひっそりと置かれた小瓶に目を遣った。蘇芳から贈られた香水だった。  処分するべきか迷った。だが、贈られた以上、今は紺野の所有物だった。処分を急ぐべきものではなかった。  あとは、蘇芳が高校生の時に持っていた、折り畳み式の小型ナイフだけだった。  これは返さなければならないが、どうやって返すか。  ――郵送するか、誰かに託けるか……。  かつて自傷行為に使っていたものだけに、慎重にならざるを得なかった。  ――これは、折を見て返すしかあるまい。  決して未練があるわけではないが、紺野はナイフをジャケットの内側のポケットの中に、そっと忍ばせた。  関わっていた期間が長かったわりには、思いの外、蘇芳に関するものは少なかった。血液製剤でしか繋がっていなかった、希薄な関係だったことを、再認識せざるを得なかった。

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