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 スマートフォンを落としたらしい。  蘇芳は自分が行った場所を、丹念に探し回った。  受講した教室、化学研究会のサークル室、そして図書館。  ――ダメだ……。見つからない。  他に行った場所が思いつかなかった。  ――2限目の心理学概論Ⅱの講義の時には、間違いなくあったんだ。  「おい、何やってんだよ、蘇芳」  数人の学生が、走り寄って来た。心理学基礎演習の講義で、同じグループに割り当てられている学生たちだ。 「あ、スマホを落としたみたいで……」 「そんなこと、どうでもいいよ。おまえ、なんで授業に出てこなかったんだよ」  蘇芳の言葉を遮るように、ひとりの学生が叫ぶように言った。 「え?」  唖然とする蘇芳を、4人の学生がさっと取り囲んだ。まるで逃がすまいとしているかのようだった。 「え、じゃねえだろ。俺達、今日の3限にグループ発表が当たってただろ。おまえが資料のコピー持って行くって言ったから任せたのに、来ないって、どういうつもりだよ? おまえのせいで、俺たちのグループ、滅茶苦茶になったじゃないか」  その言葉に、頭の中が真っ白になった。  ――今日だったのか。グループ発表。  発表のことなど、すっかり忘れていた。そういえば、レジュメの印刷をやっておくと、安請け合いしてしまったような気がする。 「……あ……」  何か言おうと口を開いたが、声が出なかった。 「信じらんない……。レジュメ15部、お願いしたよね? 『大丈夫』って、自分で言ったじゃん」 「慌ててコンビニに駆け込んだけど、結局発表に間に合わなくて。600円も、無駄に自腹切ったんだけど?」 「先生にも謝ったよ。『体調不良で来られなくなった』って。なんでこっちが嘘ついて、庇ってやんなきゃならないんだよ?」 「これで演習の単位落としたら、どうしてくれるの?」  学生たちは代わる代わる、蘇芳を糾弾する。  誰かが何かを言うたびに、蘇芳の頭の中に霧が濃くなっていった。  ――こんな風に怒ってる人に対して、どうしたらいいんだっけ……? とりあえず、謝ればいいのか。  ぼんやりした頭の中で、蘇芳は考えた。 「……ごめん」  その瞬間、学生たちの動きが止まった。  一人が眉をひそめ、もう一人が小さくため息をついた。  蘇芳は、自分の頬がわずかに痙攣しているのに気がついた。  笑っているのか、笑おうとしているのか、自分でも分からなかった。  「……なに、それ。今、笑った?」  一人の女子学生が眉をひそめた。  蘇芳は返事をしなかった。どう返せばいいのか分からないし、それよりも、失くしたスマートフォンのことが気になって仕方がなかった。視線を落とし、机の下を探し続けた。 「……ねえ、人の話聞かずに、なに探してんの?」  自分が責められていることは、自覚している。だが、どこか意識が曖昧で、彼らの声が、うまく耳に入ってこなかった。ただ視線だけが、机の下、椅子のすき間、書棚の陰など、あちこちを彷徨っていた。 「……もういいよ」  女子学生の一人が、ぽつりと言った。 「たぶん、この人、全然、話を聞いてないよ」 「……関わるだけ、あたしらのほうが消耗するってやつ」  誰かが大きく溜息をついたのを最後に、誰も一言も発することなく、学生たちは蘇芳に背を向けた。  彼らはあっという間に立ち去った。  ――それにしても、スマホはどこに……。  相談カウンターに落とし物を預かってないか、聞こうかとも思ったが、どうも親身になってもらえないような気がしたため、そのまま図書館を出た。  図書館の玄関先で、偶然山田に遭遇した。山田は親身になって、一緒に考えてくれた。 「落とすとしたら、トイレとか廊下とかじゃね?」 「トイレも廊下も、見て回ったつもりだけど……。二限目の授業中には間違いなくあったんだ」  山田はどこかに電話を掛けると、一言二言交わして、すぐに切った。 「美鶴さんにも聞いたけど、見てないって」  蘇芳は礼を言った。 「ちょっとは気をつけろよ。なんか、ぼんやりしてるぞ。注意力散漫なんじゃね? とりあえず、学生支援センターに届いてないか、聞いてみろよ。……おい、大丈夫か? 一緒に行こうか?」  山田に連れられて、蘇芳は学生支援センターに来た。  学生支援センターでは、下宿やアルバイトの紹介など、さまざまな相談を受け付けていた。 「あ、山田さん。もしかしてバイト探しですか?」  蘇芳の知らない女子学生が、山田に親しげに声を掛けてきた。 「違うって。こいつにつきあって、来ただけ」  山田は蘇芳を顎で指したが、彼女は蘇芳を一瞥しただけで、山田に話を続けた。 「ねえ、山田さん。紺野先生が海外研修に行くって本当ですか?」 「らしいね」 「えー、やっぱ、本当だったんですか? バレンタインにチョコ渡そうと思ってたのにー」 「おいおい、一年生は恐れ知らずだなぁ。拒否られるならまだましで、下手したら、目の前でゴミ箱に放り込まれるぞ」 「えー、何、それー?」  残念そうな声を上げる女子学生を押し退け、蘇芳は山田に掴みかかった。女子学生が小さな悲鳴を上げたが、構っている余裕はなかった。 「どういうことだよ? 紺野さんが海外研修って……。どこに……、いつから行くんだよ?」 「え? 聞いてないのかよ? 俺も噂で聞いただけだから、詳しくは知らねえよ。俺、紺野先生と接点ないし……」  山田の声が遠のいていった。何か聞こえているが、もはや何を言っているのか理解できなかった。  気が付けば蘇芳は、理学研究棟の前にいた。  いつものように、ショルダーバッグのポケットを探った。そのポケットにはいつも、理学研究棟のカードキーとハンカチを入れていた。だが、どういうわけか、何も入っていなかった。  ――あれ? いつも、このポケットに入れてるのに。  どこかで落としたのかと考えたが、焦るばかりで、何も思い出せない。  理学研究棟は、キャンパスを横断する遊歩道に面していた。通りかかる学生たちが、蘇芳を不審そうに一瞥していく。  蘇芳は慌ててドアから離れた。  とりあえず、近くのベンチに腰を下ろして、カードキーを探したが、出てこなかった。  ――紺野さんが通りかかるのを待つしかないのか……?  だが、ベンチに座っていても、「誰かを待っているのか」と視線を向けられてしまう。  そんな視線が痛くて、蘇芳は建物の隅に移った。それでも、視界を遮るものが何もなく、あまりにも目立ちすぎた。  紺野がここから出入りする確証は、もちろんなかった。理学研究棟の出入り口は、蘇芳が知っているだけでも3か所あった。  それでも諦めきれず、蘇芳は立ち去ることができなかった。  気が付けば、2時間ほど経っていた。身体は冷え込み、足に痺れるような痛みを感じた。  それでも、蘇芳は諦めようとは思わず、建物の隅に佇み続けた。  その時、研究棟のドアが開いた。  現れたのは、須藤だった。 「なんだ、君か。なんか、不審な奴が下にいるって聞いて、見に来たんだけど。紺野さんを待ってるの?」  親しげな笑みを浮かべながら無遠慮に近づいてくると、蘇芳の顔を覗き込む。 「紺野さんなら、多分そろそろ自分の研究室に戻ってるんじゃないかな。用があるなら、訪ねたら? こんなところで待たなくても、カードキー、紺野さんから渡されてるんだろ? 中に入りなよ。あ、もしかして、もう取り上げられちゃった? だったら、これで開けてあげようか?」  研究棟のカードキーをわざとらしく見せつけてくる仕草に、蘇芳は苛立ちを覚えた。 「なんだよ、怒ってんの? まあ、どっちでもいいんだけどさぁ」  須藤は手首に引っかけているスマートフォンを振り回しながら、うそぶいた。  そのスマートフォンのケースに、見覚えがあった。まさに、蘇芳が使っているケースと同じ柄だ。 「それ、僕のものじゃないですか?」 「ああ、これ? 学食で拾ったんだ。学生支援センターに届けに行こうと思ったんだけど、ちょっと遠いじゃん? それで後回しになっちゃったんだけど、散歩がてら、これから行くところだったんだ。君のなんだ? 奇遇だね。気を付けなよ」  差し出されたスマートフォンを、蘇芳は奪うように手に取った。  電話とメールの着信が、一件ずつあった。どちらも、今日の夕方の連絡だ。  ――どっちも、紺野さんからだ……。  胸の鼓動が高鳴るのを感じながら、蘇芳はメールの本文を見た。 「了解した」という短い一文だった。  ――何のこと?  蘇芳は首を傾げた。念のため送信済メールも見たが、そちらには異変がなかった。 「……僕のスマホで、何したんですか?」  須藤が何かしたとしか、考えられなかった。  そもそも、蘇芳は今日、学食になど立ち入っていなかった。 「何って? 触ってないよ。てか、ロックしてないのかよ? 不用心だなぁ」 「ごまかさないでください」  その時、研究棟のドアが開き、紺野が現れた。 「騒がしいぞ。研究棟の付近では騒ぐなと、注意書きにもあるだろう」 「あ、すみません。つい盛り上がっちゃって」  須藤は頭を掻きながら、肩を竦めた。  紺野は蘇芳には一瞥もくれず、背を向けた。 「紺野さん」  蘇芳は慌てて追い縋った。  紺野は振り向きはしたものの、見ず知らずの一学生に対して向けるような、よそよそしい視線で蘇芳を見た。 「あの……」  笑いかけようとした頬の筋肉は、思いがけない冷たい視線を前に硬直した。どんな表情をしたらいいのか分からず、口を半開きになったまま、目を見開いていた。  緊迫した空気を破るように、須藤が呑気な声で、二人の間に割って入った。 「紺野先生、高坂先生とのお話は終わったんですね。先生は、なんておっしゃってました?」 「ああ。特に問題ないと、おっしゃっていただけた」  紺野は須藤にだけ答えると、背を向けた。須藤も紺野の後を追った。 「学生支援センターに行くんじゃなかったのか?」 「もう用事が終わりましたから」  紺野と須藤の会話に割って入るように、蘇芳が叫んだ。 「待ってください」 「まだ何か用?」  呆れ顔で訊ねてくる須藤を無視して、蘇芳は紺野を真っ直ぐに見つめながら訊ねた。 「紺野さん……。海外研修に行くって、本当ですか?」  硝子玉のような感情のない目で蘇芳を一瞥しただけで、紺野は蘇芳に背を向けた。 「紺野さん!」  蘇芳は遠ざかる紺野の背中を追いかけ、咄嗟にジャケットの裾を掴んだ。  ほんの一瞬、紺野の動きが止まった気がした。だが次の瞬間には、その布は引き剥がされていた。  その反動で、身体が前に傾いた。長時間佇んでいたせいか、足の感覚が鈍っていた。足がもつれて、蘇芳は冷たいタイルに膝をついた。 「君とは何の関係もないことだ」  紺野は蘇芳を見下ろしながら、冷たく言い放った。  それでも蘇芳は、諦められなかった。再び立ち去ろうとする紺野の、スラックスの裾を掴んだ。 「待ってください。お願いです」 「……いい加減にしてくれないか」  棘のある声が、頭上から落ちてきた。それでも蘇芳は、紺野の足元に縋りついて、離れなかった。ここで手を離してしまうと、永遠に紺野を失ってしまうような気がした。  須藤が慌てて間に入った。 「おいおい、やめろって。君、紺野先生に失礼だぞ。先生は、来月半ばに出立される予定だよ。これで気が済んだだろ。ほら、立てるか?」  須藤が親切ごかしに差し出してきた手を振り払い、蘇芳は自力で立ち上がった。  「僕のスマホ、盗んだくせに。僕のスマホで、何したんですか?」  蘇芳は須藤を睨みつけた。 「は? 何言ってんだよ? さっきから、何度も言ってるだろ。拾ったんだって。せっかく拾ってやったのに、泥棒扱いかよ。ガチで失礼な奴だな」  須藤は大袈裟に肩を竦めながら両手を上げてみせた。所謂シュラグと呼ばれるポーズだ。  小馬鹿にしたような態度に、蘇芳は思わず須藤の腕に掴みかかった。 「いい加減にしてください。僕、学食になんか行ってませんよ!」 「知るかよ、そんなこと。離せよ」 「騒ぐなと言ったのが、聞こえなかったか?」  静かな威圧感のある声に、蘇芳と須藤は動きをぴたりと止めた。  紺野の冷淡な視線は、蘇芳に向けられていた。蘇芳はびくりと肩を震わせた。 「あ……、でも……」 「むやみに人を貶めるような発言は慎め」  ――紺野さんが、須藤さんの肩を持った……。  呆然と、蘇芳は紺野を見つめた。そんな蘇芳の様子など意に介さず、紺野は続けた。 「文学部の学生が、理学研究棟に何の用もないだろう。用もなくうろつかれた挙句、騒ぎ立てられては迷惑だ。二度とここに近づくな」  感情の一切籠らない、凍えるような眼光に、蘇芳は慌てて目を背けた。 「……すみませんでした」  蘇芳が頭を下げている間に、紺野は踵を返し、理学研究棟に戻っていった。「あっ、紺野さん。俺も戻ります」  須藤が慌てて追いかける足音も遠ざかり、やがて聞こえなくなった。   気が付けば、蘇芳はその場にひとり、取り残されていた。

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