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第2話 新崎璃空②
今日は、来るだろうか。
ダンス教室の受付で書く名簿には、一行空白になった上に木下悠翔の名前がまだあった。そのことにほっとしながら璃空は自分の名前の横に入室時間を書き入れる。
萌子とは友達で、彼女に引っ張られてきたことは言われなくてもわかる。そんな感じだった。
その彼女が辞めてしまった今、悠翔が教室に通う最大の理由はなくなった。
彼らがいなくなっても、入ってくる前の状態に戻るだけ。
璃空はそう自分に言い聞かせるのだが、気鬱は晴れない。
楽しかったのだ。純粋に。それが失われるのがただ、寂しい。
「どしたの?」
更衣室でぼんやりとしていたら背後から声をかけられて璃空ははっと顔を上げる。振り向くと頭一つ分低いところから悠翔が見上げていた。
「は……るま、君」
「うん。そうだよ。何?」
「……辞めなかったんだ」
「うん。萌子ちゃんのこと、気にしてた?」
「そう。辞めたって、聞いて」
「知らなかったの?」
「俺が入室したあとで、名前削られたみたいで」
「そうなんだ」
悠翔は璃空の隣のロッカーを開けて荷物を入れる。鞄の中から着替えの速乾性Tシャツを取り出すと、璃空の目の前でためらうことなく着替え始めた。
肉付きのいい体が璃空の目の前に露わになる。
がっしりと太い腕や、たわわに張り出した胸筋、きゅっと引き締まった腹筋から側筋の筋に目を奪われる。
何より腰つきがいい。
大きなお尻はぷりんとつり上がっていて、腰回りは大木のようにどっしりと安定している。
悠翔本人はこの肉付きについて「筋肉だるま」という言い方をする。
確かにこの肉付きで身長が170センチを切っていたら、間違いなくそうかもしれない。けれども璃空から見て、本人が言うほど「だるま」かというと、そうではない。
骨太なところにきて胸、腕、尻と部分部分で極めて肉付きのいい部分が目立っているからそう感じているだけで、全体的に見れば固太りではあるがバランスよく引き締まっている。
そしてこの体、がっしりしている上に実は非常に柔軟性がある。
本人が気づいているかどうかは知らないが、これがラテンのルンバウォークをとるとき、その気のない男性諸氏の目ですら釘付けにするのである。中年男性の一部が彼の揺れる腰つきに目を奪われてステップとパートナーの存在を忘れてしまうことが時々起こっていた。
「な、なに……?」
その体をじっと見ていた璃空に悠翔は少々おびえながら尋ね、ロッカーを閉める。
「あ、ごめん。ちょっと考え事。悠翔君がもし辞めるんだったら、悲しいな、って思って」
「まあ最初はさ、正直に言うと確かに下心があってここに来たんだけどさ。でも今は違うから」
「違うの?」
悠翔のニコッとした視線と、璃空のぱっとうれしそうに開いた視線が繋がる。
「楽しいじゃん、踊るのって。ここはさ、大会に出る人もあるけど、俺みたいにただ教えてもらうだけとか、健康維持に続けるための人もいる。普段はたぶん職場でしかめっ面してんだろうな、とか思うおっちゃん達がさ、酒も入ってないのにここでは陽気にサンバ踊ったりとかすんの。めったに経験できないことだし、正直楽しい。いい気晴らしになってんだよね。もしそういうのがなかったら、たぶん辞めてたと思う」
「そう。それなら、よかった」
ほっとした璃空の形のよい口元が笑みで綻ぶ。
それを見る悠翔の目が大きく見開かれて、口元がぽかん、とあいた。
「な、なに……?」
今度は璃空が尋ねる。悠翔はふいっと視線をそらした。
「べ、別に、なんでもない。そんなうれしそうな顔されると、思ってなくて」
「うれしいよ。だって悠翔君達といるの、楽しかったし。……萌子ちゃんが抜けちゃったのは残念だけど」
璃空の声が沈む。
今更になって、二人ではなく、三人であるバランスが重要だったのだと気がついたが、もう後の祭りだ。
「俺が、彼女の行為を受け取らなければよかったのかな」
「あの勢いじゃ受け取らざるを得ないことになってたと思うよ、どっちにしろ。結果は変わらないんじゃない? それに人の繋がりは縁でしょ」
「縁? 悠翔君もそう思う人?」
「新崎君も? なら僕の事も萌子ちゃんのことももう気にしなくていいよ。彼女と僕らに縁がなかっただけ。それだけだよ」
ははは、と悠翔は笑い、璃空の背中を軽く叩いて歩き出す。璃空は慌ててその後を追った。
「あのさ、この間の朝、いつの間にか帰ってたよね。ごめん、見送りにもでなくて。俺、全然気がついてなくて」
「いいよ。よく寝てたし。疲れてたんでしょ。学校、遅刻しなかった?」
「あ、うん。大丈夫。悠翔君は?」
「僕? 大丈夫だよ。始発に間に合ったし。鍵をかけないで出て行くのは物騒だったから、外から鍵しめたあと、メールボックスに落としといたんだけど、メモ見てくれた?」
「見た。鍵は見つけた。おにぎりも作っておいててくれたね。ありがとう。おいしかった」
「ご飯が少し余ってたけど、新しく炊いとこうと思って。鍵わかってくれたんならよかった」
教室に入るとすでに年配の生徒さんがあちこちで小さなグループを作ってウォーミングアップを始めていた。
その中の一つ、いつも一緒にいる中年男性のサンバチームに呼ばれ、悠翔は軽い挨拶をして璃空から離れていく。
一方の璃空はすぐに彼にパートナーをしてもらいたい女性達に囲まれたが、すぐには悠翔の去りゆく背中から視線をそらせなかった。
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