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第2話 新崎璃空③
深夜だというのにハイツのマンション内に鍵音が煩く響くのもかまわずに、部屋のドアを開ける。
靴を脱ぐのも億劫だが履いたままではいられない。玄関先でもどかしく引っこ抜いて叩きつけるように投げ置く。
電気をつけるのもめんどくさい。
荷物も上着も脱ぎながら部屋の奥へと入って行く。
まっすぐに向かった大きなベッドに190cmの巨体がダイブした。
「足が……死ぬ」
大会が近いこともあり、そこへ参加するつもりのある人たちが男女ともに先生の指導の待ち時間に璃空と踊りたがる。その全員と付き合っていたら足だけがぱんぱんにパンプアップしてしまった。
更衣室で悠翔から大丈夫かと心配された。
本当は大丈夫じゃないのに、ワルツのリーダー としての熱が抜けきらないまま、璃空に憑依した紳士 が条件反射で「大丈夫」と言わせてしまった。
何とか家までたどり着きはしたけれども、もう何もする気力がない。
大学の課題のレポートが今週中。中身の筋書きや下調べはできているので、あとは文章化するだけ。それはもう明日。
お腹がすいているはずなのに、まったく食欲がわかない。昔からそうだが、消化する為の体力まで使い果たしてしまった感じで動けない。
「っていうか、もう、動きたくない」
そう思っているのに、暗闇の中でベッドに投げ置かれたスマートフォンの画面が光る。
死に体で腕を伸ばして画面を見ると、佐々木先生からだった。添付ファイル、とある。
璃空は嫌な予感を覚えつつ画面を開く。新着マークがついたメッセージアプリの一番上を開くと、冬にある競技会の大会要項があった。
「だから俺はでません、って~」
ばたり、と止めを刺されて力尽きる。添付ファイルには「本気で考えてほしい」というメッセージがついていた。
ダンス系の本気は金がかかる。璃空は実家が太いわけでもないし、幼いころからみっちり仕込まれたわけでもない。趣味と健康維持として続けるのは楽しいが、本業としてやるつもりはなかった。
一方の先生はどうしても璃空を全国へ押し出したいという。君にはその才能がある、と。
熱心に語るけれども、才能云々だけが理由でないことは相手をしているおばちゃんダンサーから聞いた。教室でインストラクターをしている先生の姪っ子が璃空を見初めて、パートナーを組みたがっているのだ。
その話は萌子ちゃんと付き合う前から噂には聞いていて、萌子ちゃんと付き合うことで立ち消えたと璃空は思っていた。どうやら別れた云々で再燃したらしい。
大会に出るとなるとパートナーはほぼ固定化される。実質上、佐々木先生の仲人でお付き合いをしないか、という話と一緒だった。
「う゛~ん」
只お付き合いするだけなら「いいですよ」とお受けするところである。
ただその「いいですよ」は「ダメだった時はすぐに別れます」というのが大前提にあっての「いいですよ」だ。別れる=ダンス界から追放みたいな重たいバックグラウンドを背負った相手へ簡単に返事はできない。
ダンスは割と楽しめているから続けていたい。だからその障害となりうる事象の付随は避けたい。
違う教室へうつる、ということも考えられるが、タイトルなしの一般人を今より好条件で受け入れてくれるところはまずない。
「……メンドクサイぃ……。なんでただ楽しいだけじゃダメなんだよぅ」
ぼそっと呟くとまた画面が光った。
眉間に皺を寄せて璃空は画面を見る。
『無事に、家へ帰れた? 足、辛そうだったけど』
メッセージの相手は悠翔だった。璃空は怠い身体を押して俯せたまま上半身を上げるとぽちぽちとメッセージを返す。
『帰れた。でも、疲れた。何もする気が起きない』
そんな短文を送信しただけで、またばたりと布団に顔を埋めた。
すぐにルルル、と着信音が鳴る。悠翔だ。璃空はすぐに電話に出た。
「もしもし?」
「寝てたんだったらごめん。ちょっと心配になってさ。何か食べれそう? 新崎君、疲れすぎると食べれなくなるって言ってたから、この間の買い出しの時に冷蔵庫にゼリー飲料入れといたんだけど」
「ホントに? ちょっと待って」
璃空はゆるゆるとベッドから這いずり出て、手探りで冷蔵庫までたどり着く。開いたドアから漏れるオレンジの光の中で、エネルギーチャージ系のゼリー飲料が3つ並んでいた。
「あった」
「とりあえずそれ飲んでから寝た方がいいんじゃない? でも吐いちゃうようだったら連絡してよ」
「したら来てくれる?」
「救急車を呼ぶよ」
「そこまでひどくはない」
璃空は軽く笑って冷蔵庫を閉めると、それを背に肩にスマートフォンを挟んだまま、ぱきん、とゼリー飲料の蓋を開ける。食欲は相変わらずなかったけれども悠翔の気遣いをありがたくちびちびと口にした。
「悠翔君はもう寝るの?」
「明日学校だしね。テストも近いって前に言ってなかった?」
「うん、そう」
「体、大事にしなよ」
「ありがと。ダンス楽しいからさ、ついつい夢中になっちゃって」
「わかる。気晴らしにはいいよね」
電話の向こうで悠翔が笑う。きっと太陽のようにキラキラとした笑顔なんだろうな、と璃空は電話で他愛もない話をしながら思う。
今日も彼は楽しそうだった。彼を可愛がってくれる年上のおじさんたちとアレンジしたマツケンサンバの曲で踊っていた。
自分が辞めたら、彼も辞めるだろうか。璃空はふと考える。しかしそれはすぐに胡散霧消した。自分が思うほど相手は自分と繋がっていないものだというのは萌子の時で実証済みだ。残念だな、くらいは言ってくれるかもしれないが、飽きるまでは変わらず楽しく踊っているのだろうと思われた。
「中指、バンドエイドになってたね」
「学校の保険医に見せたら、最初の処置がよかったから、この程度でも大丈夫だって」
「火傷、思ったよりも軽くてよかった」
「ありがとう。心配させてたらごめんな。でも気にしなくていいよ。昔から僕の手なんてあっちこっち怪我してるし」
「体、大事にしなよ」
「はは。お互い様だったねぇ」
「そうだね。ゼリー飲んだらちょっと元気出た」
「よかった。じゃあ、もう救急車はいらないね。僕は寝るよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
恥ずかしそうに悠翔はまた笑い、電話は切れる。璃空はツーツーという話中音が響くスマホを暗闇に掲げる。それを持つ自分の長い指を、大きな手を眺めた。
悠翔は璃空の手を見るといつも自分の手を恥ずかしいという。無骨だと。
でも璃空はそう思わない。男らしい手ではあるが、働き者で繊細だ。彼の手にかかるとまるで手品のように鍋から美味しいものが溢れ、皿の上に食材の花が咲く。
何より素直だった。
バレエにしろ、フィギュアにしろ、ソシアルにしろ、日本舞踊にしろ、盆踊りにしろ、身体表現では指先に必ず命が宿る。心が出る。悠翔の指先は格好をつけない。素直なまま、今が楽しいと語る。
「なんか……いい」
ゆっくりと目を閉じる。瞼の裏でもやもやとルンバウォークでウォーミングアップする悠翔の腰が揺れる。ロッカーで見た裸体が思い出される。丁寧に整備された筋肉でかたく引き締まった体はけれどベッドに横たわった時は弛緩してふわふわになった。それを抱きしめて眠ったあの夜は普段眠りは浅いほうな璃空が、彼が泊った日は出て行ったことにも気づけないくらいに熟睡していた。
「ああ……いいなあ」
ほうっとため息が漏れる。
同時に胃袋が盛大な音を立てたので、璃空はゆるゆるともう一度冷蔵庫の扉を開けたのだった。
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