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第3話 Shall we dance?③

 人が去った更衣室は静かだった。 『練習がんばれよ』 『楽しみにしてる』  大トリ発表を聞いた後、妬んだり、嫌味を言ってくる人は誰もいない。皆悠翔を励ましてくれた。 『うん。頑張るよ』  悠翔は笑顔で応える。  本当は、そうじゃなかったとしても。 「無理。踊れるわけない」  ロッカーをぱたん、と力なく閉じて悠翔はぼそっと零す。その傍で璃空はロッカーに背中を預けて立っていた。 「はじめから、ダンスなんて僕には向いてないんだ。ここへ来たのだって萌子ちゃんへの下心があっただけだ。自分が踊りたくって来たっていう他の人とは違う。不真面目だし、そうだろ?」  悠翔は璃空に同意を求める。しかし璃空は何も言わない。  何を不安がっているんだろう。  それを知るために悠翔の本心がこぼれ出るのをじっと待っていた。 「君はいいよ。スタンダードで映える細身の長身に、王子様のような美形で、余裕綽々でなんでもできる。でも僕は違う。どれだけ努力しても、君みたいなスタイルには骨格的になれない。萌子ちゃんだって君を選んだ。不器用で、サンバしか踊れない。そんな男が女役(フォロー)でワルツだって? みんなの笑いものになるだけじゃないか。無理だ」  悠翔は俯く。その大きな肩が少し震えていた。  璃空はその肩へ手を伸ばす。強い拒絶の衝撃を予想して、触れるのを躊躇った。 「先生が君を女役(フォロー)にしたのはソシアルでは基本男役(リーダー)の方が覚えることが多いからだよ。ヴェニーズワルツはスタンダードの中でも覚えなきゃいけないステップがそう多くない。そもそもワルツ自体、数種類のステップを覚えるだけで一晩中踊れるようなものだよ。難しく考えないでよ」 「嫌だ。恥ずかしい。辞めたい」 「君が辞めたら、俺も辞める」  考えてもいなかった言葉がするりと出た。悠翔も、そして璃空も。  悠翔は大きな目を見開いていた。  璃空はその目を少々虚ろな目で見返していた。 「そんな……卑怯だ!」  目を見開いたまま悠翔は顔を怒りに歪める。  沈黙したまま璃空はその顔から目をそらさない。そうして人生で初めて投げつけられた非難を形のよい唇とともに噛みしめていた。  脅しをかけるようなことは基本嫌いだ。  人を変えることは基本できないことだと常々思っている。恫喝したって命令したって脅迫したってなだめすかしたって、相手が意志を持った一個人である限り、心の奥底深くに抱いた決意を他人が変更することは並大抵ではない。  それで思い通りになっても必ず先々で破綻する。最終的にはいつか心の呪縛が解けたときにその人が決めたような結末にしかならない。  自分だけの事なら人生の大体は工夫すればなんとかなるものだけれども、こればっかりは本当になんともならない。  だから無理なすり合わせをしないと続かない相手とは関係を切って、常に自然体でいられる環境を選んできた。  そんな璃空の記憶の中で付き合ってきた女の子達が涙して怒って呆れて去っていく。わかっていないと同期達が冷笑する。  優しいといえば聞こえがいいが、所詮は臆病なのだと、冷感症なのだと、耳の奥で誰かが囁く。クールで取り澄ましているのがおまえなのだと。  でも目の前の悠翔にはそれができない。  何故かはわからない。ただここで引き下がったら、ここで彼にだけ無理を強いたら、きっともう二度と一緒には笑えないんじゃないだろうか。その不吉な予感があった。  それは嫌だ。  困難を背負うなら二人ともであるべきだ。璃空は悠翔に対してそう心に決めていた。 「ごめん……でも、悠翔君がもし辞めるんだったら、俺は悲しい」  心臓が、バクバクしていた。幼い子供の駄々のように手放したくないと思ったことも、だから引き留めるなんて事も、今までしたことがなかったから。  璃空は本当に細心の注意を払って悠翔の肩にそっと手で触れる。悠翔は拒絶しなかった。ただやはりかすかに肩が震えていた。 「無理だよ……できない」 「嘘だ。本当にできないなら、みんなに対して笑顔で頑張るなんて言わない。みんなが好きで、応援してくれることに応えたいって思うのは、やってみたいって気持ちがあって、自分でもできるかもしれないって体がわかってるからだ」  実際、佐々木にしても璃空にしても丁寧に指導すれば悠翔は必ずスタンダードも踊れるようになる。それだけのポテンシャルを秘めていると見ていた。  だから璃空から佐々木に「大会用に紗季とペアを組む代わりに、発表会では悠翔とペアを組ませてほしい」と頼んだ。  問題は本人がそれに気がついていない、実感がない。だからあと一歩が踏み出せないでいる。璃空にはそのように見えていた。 「経験が違いすぎる。きっと、うまく踊れなくて、君を怪我させてしまう。それに僕のこの体格でワルツなんて、みっともないよ。似合うわけない。恥をかかせることになる」 「恥なんて、どうでもいい」  璃空の声が珍しく強めに出た。彼は真摯に、悠翔に対して言った。その声は少し震えていた。 「俺は、悠翔君と、踊りたい」 「新崎、君……」 「俺なら、悠翔君を気持ちよく踊らせてあげる」 「無理…………だって」 「無理じゃないよ」 「……こんなごついお姫様なんて……ありえないよ」 「ドレスを着る訳じゃない。二人とも燕尾服で踊るんだよ。でも君が恥ずかしいっていうなら、俺たち二人でドレスでもかまわない。それで最後に笑いをとってもいいじゃないか。重要なことは楽しむことだ。俺たちならそれができる」  璃空は腰を曲げ、悠翔の指をそっと取って引き寄せると、手の甲に唇で触れる。怪我を舐めたあのときとは違う。唇が触れるか触れないかほどの感触と恭しさだった。  その上で、ちらりと上目遣いに見る。その目には艶やかでありながら心の奥底から許しを渇望する者の情熱が宿っていた。 「ねえ、悠翔君。俺を、君の王子様にさせてよ」  璃空は甘えるような極上の笑みを見せる。それを見る悠翔の顔からは先ほどまで不安と怒りによるこわばりがすっかり消えて、口元がぽかん、と開いたままになった。  悠翔は少し俯いて躊躇いがちに尋ねた。 「ほ、本当に僕で……いいの?」 「君じゃなきゃだめなんだ。訳はまた言うけど」  璃空はニコニコと笑ったまま、つないだままになっていた手にもう一度唇で、今度は意図的に音を立てる程にしっかりと触れて、軽くウインクしてみせる。  対する悠翔は真っ赤になった顔をそらして、 「……ずるいって……その顔は」  とぼそっと呟いた。

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