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第3話 Shall we dance?④

 レッスンが終わった後の佐々木ダンススタジオ。  通常のスクールが終わった後の2時間、終電まで悠翔は璃空と二人きりでステップを覚えるためのごくごくゆっくりとしたワルツを踊る。  1.2.3……1.2.3……。  ステップカウントをする悠翔の頭の中で、そのカウントに合わせてどこからか音楽が聞こえてくる。  曲名はわからない。でもそれは誰もいないはずの、なにも音楽がかかっていないはずのスタジオで、璃空にホールドする(触れる)とどこかから流れてくる。  顔を上げて璃空を見る。ラテンは必ず視線を合わせる。けれどスタンダードは常に進行方向を見る。進路はリーダー(男役)が決めるので璃空の顔は通常見えない。ただ鼻歌は歌っていない。なのにその曲は、常に悠翔をリードする璃空から遊びへ誘うそよ風のように聞こえてくる。 「ん? どした?」  じっと見ていると璃空がちらっと悠翔を見る。  うっとりした眼差しで、形のよい口元を笑みで綻ばせて、砂糖菓子のような極上に甘い笑顔を見せられる。  なんて魅力的なんだろうか。  悠翔は心を浚われる。けれど相手は自分と同じ同性だと思い返して正気を戻す。  新崎璃空は天性の人たらしだ。  散々口説き文句のような言葉をかけられたが、それだって「踊りたいから」意外に他意はない。  この笑顔は誰にでも向けられるものだ。  だから誤解してはいけない。  悠翔は勘違いしそうになる自分を誤魔化して目をそらし、進行方向に意識と顔をむける。 ―――――俺を、君の王子様にさせてよ。  けれどもそれを言われた時のことはいつまででも思い出されて、璃空の顔を見るだけで何度も頭から火を噴きそうになった。  胸がバクバク言っていた。触れ合うのが右の胸でよかった。左胸なら、きっとこの鼓動の高鳴りが伝わってしまっただろうから。  掌が汗をかいていた。それが恥ずかしくて、悠翔の手に力が入る。 「そんなに強く握らなくてもいいよ。この段階で転けることはあまりないし、俺が支えてるから。大丈夫。任せて」  くすっと笑って璃空が言う。馬鹿にした感じではない。誰からも抜群の安定感と言われる自分を確信している余裕だ。  けれど璃空のそういう扱いがますます悠翔を「お姫様」にしているように感じさせる。自分のむさ苦しさを自覚しているだけに恥ずかしい。掌がさらに熱を掴んだ。 「少し疲れたかな。休憩しようか」  悠翔の胸中のざわめきを璃空は察して、ふわり、と白鳥が水辺に降り立つような滑らかさでワルツを止める。手を離すと悠翔に聞こえていた旋律はどこかへと去ってしまった。 「大分慣れてきたね」 「う、うん」  二人ともペットボトルで喉を潤す。けれどもまだ顔が熱くて悠翔は璃空の顔が見られなかった。 ―――――君が辞めたら、俺も辞める。  それを聞いた時、正直なところ悠翔はとても腹がたった。  璃空が指摘するように、悠翔はこのスタジオで出会った人たちの事が好きだ。そこに萌子がいなくたって辞めるつもりなどさらさらないくらい、今はもう居心地がよくなっていた。  そして璃空は、そのスタジオの人たちに愛されている。  なのに悠翔が思い通りにならないなら、それを捨ててもかまわないという。  努力しなくても愛されてきた傲慢さだと思った。スタジオの仲間達を人質にした脅しじゃないか、と。  そうではなかった。 ―――――ごめん……でも、悠翔君がもし辞めるんだったら、俺は悲しい。 ―――――俺は、悠翔君と、踊りたい。  沈んだ璃空の声に嘘はなかった。  ただ彼は、悠翔を引き留めたかった。  自分を支えてくれるもの、愛してくれるもの、それらを全てよくわかっていた。その上ですべてを敵に回しても、悠翔を選ぼうとしていただけだった。  踊りたい。その一点のためだけに。  まるでワルツのような誘惑だ。  こんな自分に真剣にそんなことを彼のような王子様が言うハズなんてないと悠翔は思っていたから、度肝を抜かれた。自信満々に「俺なら、悠翔君を気持ちよく踊らせてあげる」なんて宣言されて、自分の外見に対する恥ずかしさだとかなんだとか、そういうことが本当に些細に思えて、憑きものが落ちた。  悠翔はちらっと璃空を見る。  さっきまで別のところを見ていた璃空が、声を掛けてもいないのにすぐに視線に気づいた。  学校の同級生にしろ街を歩く人にしろ、普通の男からこんなまめな反応されたら絶対に警戒する。  なのに璃空だと何故かみんな嬉しくなってしまう。その整った顔立ちと下心のなさげな振る舞いのせいだった。  きっと付き合った女の子たちにたいしてもそうだったのだろう。  だったらなぜ彼がいつも最終的にふられてしまうのかが悠翔にはまったくわからなかった。  悠翔はふと時計を見る。終了時間まであと40分ほどになっていた。 「ワルツはここまでにして、ルンバウォーク練習する?」 「そうだね」  ペットボトルはおいて、二人は並んで壁一面に据え付けられた大きな鏡に向かう。ここからは悠翔が璃空の先生となる。 「5678……1……2……3……4……」  鏡の中でピタッとした半袖の速乾シャツに浮き出た二人の男の筋肉がカウントに合わせて複雑な8の動きを描くのを、悠翔は眺めた。 ―――――君じゃなきゃだめなんだ。  熱烈な口説き文句と同じセリフが、大変現実的な問題のためだと知ったのは悠翔がワルツのステップを練習する初めての日だ。  佐々木の姪っ子である紗季が長年連れ添ってきていた男性とここへきてパートナーを解消したことを璃空はごくごく簡単に悠翔に説明し、自分が『つなぎ』として次の大会に出るんだと言った。  その上で、彼女がラテンダンサーであることも。  話を聞いた悠翔の顔は複雑に歪んだ。なぜなら悠翔は璃空がスタンダードを踊っているところしかあまり見たいことがないからだ。  本人も基本ステップは知っているけれども、得手不得手で言うならスタンダードの方が得手だという。去年のチャリティーでも紗季とはタンゴを踊ったはずだった。 「紗季さんと練習は?」  悠翔は鏡越しに璃空へ尋ねる。璃空は汗だくになりながらの思うように柔らかく動いてくれない自らの筋肉と骨と格闘していた。 「まだ……だから……それまでに少なくとも、もうちょっと体をほぐしておけ、と先生から……」  佐々木が悠翔をべた褒めしているなんて、当の本人は知らなかった。今年のチャリティーのペアは紗季と組むための準備運動として、悠翔からラテンの身体の使い方を学ぶように言われた結果だという。 「大会を避けてたのって……」 「そ。紗季さんと組む噂がずっとあったから。でもそうなると俺はラテンをベーシックからやっていかなきゃならなくなる。努力とか、練習とか、嫌いなんだよ」 「あ、僕も~。でも新崎君との練習は好きだよ。丁寧だし。努力してる、って感じはしないから。なんか友達と遊んでる感じ」 「あはは、嬉しい。ほら、紗季さんはアマって言っても全国レベルの人でしょ? 練習不足でいきなり彼女の指導を受けると、たぶん、俺は……潰れちゃうんだよね。だから去年のチャリティーはラテンの紗季さんがわざわざスタンダードナンバーやってくれて、俺にレベルを寄せてくれたぐらいでさ」 「ああ、なるほど」 「だから初心者でもしっかり基礎ができてる悠翔君がこうやって話しながら教えてくれると俺も楽しいし、助かる」 「よかった」 「なんか運動やってた?」 「陸上をね」  悠翔は鏡を見つめたまま苦笑いをした。 「長距離。高校入ってすぐまでは、僕もっと細かったんだよ」 「へえ」 「足を故障して続けられなくなって、競歩に転向した。競歩って競技人口のすそ野が狭いマイナー競技でさ。レギュラーになれるかなって思ったんだけど、すそ野が狭い分ある一定以上のレベルの人がゴロゴロいるんだよね。足の怪我もずっと影響してて、それを避けるために筋トレするようになって、今だよ」  悠翔はちらっと鏡に映る璃空を見る。  高い身長を支えるための腹筋と腰は、細そうに見えてしっかりとしていて無駄がない。  それが見る者を誘惑するように艶めかしく蠢く。  体幹のうねりに合わせて長い腕が、足が鞭のようにしなやかに動く。  基本(ベーシック)に忠実であるはずなのに、高潔なスタンダードの舞手に酒場の娼婦の色気を纏わせる。  スレンダーな体は夜中に餃子30個、豚骨醤油ラーメンをすすっても依然変わらない。水ですら太ってしまうような体質とは違う。 「一回筋肉つけるとさ、筋トレやめるって怖いんだよね。筋肉質になるってことは、やめれば太りやすいってことでもあるからさ。ラガーマンとか、年を重ねてあちこち弛んで、みっともないオッサンになってたりするじゃない? ああいうの、嫌なんだよね。新崎君はなんか運動してた?」 「卓球」  鏡の中で少し空虚な目をして璃空は言った。 「高校入って1年目くらいまではね」 「その体格で? どっちかというとバレーとかバスケじゃない?」 「そのあたりのスポーツをするには全体的に筋肉が足りなかったし、競技競争率が高かったから。レギュラーになれない」 「楽しくないね」 「そう。俺はさ、やるんだったら楽しくやりたいんだよ。運動の習慣を身に着けるためだっていうなら長く続けられる方がよかったし、無理はしたくなかった。御遊びで昔やったことがあったから卓球を選んだ。部活としては人数が少なくて、実績も少なくて、楽しく「運動やってる」っていう実績が作れるスポーツだったしね」  鏡越しに見る璃空に悠翔は卓球ラケットを持っている姿を想像する。  卓球はスピードがパワーになる。  確かに彼の長い手足は動くことなく鉄壁の防御を誇り、その鞭のような腕から繰り出されるスマッシュは相手を粉砕するだろう。  ただ小回りがきかない分、きわどいラインを集中的に狙われたら弱い。それを克服するにはその大きな体を素早く動かすための筋肉がいる。人よりも背の高い人間がそのための筋肉を手に入れるのは食事もトレーニングも人の三倍の量の努力がいる。しかし彼は食べても食べても太ることができない。その上……。 「足が32cm越えちゃって、卓球の公式で使える靴が手に入らなくなってさ。日本じゃそういう人って競技を変えたりするんだけど、バスケやバレーじゃ筋肉量が足りなくて。だからすっぱりやめた。大きくなりすぎたモンを小さくするのは無理筋だしね」  それでも全国大会の一回戦までは行ったんだよ、と璃空はニコッと笑う。その笑顔は無理に作ったようで、悠翔の胸を寂しく鷲掴みにした。  羨ましい、と璃空に対して悠翔は憧れと共に妬みも多少はあった。  しなやかでスラリと長い手足、スレンダーな体躯、整った顔、さらさらでふわふわの髪、太らない体質、地頭の良さ、紳士的な態度、穏やかで飄々とした性格……。熱意以外は何だって持ってる。そう思っていた。  そうじゃない。  熱意を失い努力をしなくなってしまったのは、そうしなくても何でも手に入るんじゃない。努力しても何しても諦めざるを得ない過去があって、その時に失うまで保ち続けていたものが彼の中で大きすぎたからだ。だからその時の辛さごと、物事に対する熱意も心の奥底に封じ込めてしまった。  悠翔は努力して努力していろんなものをやっと手に入れてきたという点が璃空とは違うけれども、それだけ努力してもやはり自分ではどうしようもないところで諦めざるを得なかったのは同じだ。彼の消失感と達観の理由が痛いほどわかった。 「頑張ろうね」  それぞれの帰る先へ別れる前まで、一緒に歩いていきながら悠翔は頬を寒さに赤らめて、白い息とともに璃空に言う。  練習できる時間についてはどうしても学校やバイトがある関係上限られてくる。悠翔はそのあたりをメッセージアプリで密に調整して、できるだけ練習量を増やしていこうと提案した。 「無理……してない?」  璃空が気遣う。  悠翔は冬の最中にも関わらず、常夏の太陽の日差しにも似た朗らかさで返した。 「全然。楽しいじゃん、踊るのって。やってみたらさ、思いのほかワルツも僕いけるんじゃないかな、とか調子に乗っちゃえたしさ。きっと新崎君の教え方が上手だからだね」 「うれしい。そう言ってもらえると」  璃空が微笑む。相変わらず自分だけに向けられたと錯覚しそうな微笑みがキラキラと悠翔にはまぶしく感じられた。 「僕らはきっと、出会うべくして出会ったんだよ。そういう縁なんだと思う。だから一緒に……」  悠翔がそう言って、璃空の大きな手を掴む。勝手に小指を絡めて指切りげんまんのふりをすると、璃空は一瞬口をぽかんと開けて、大きく見開いた眼を瞬かせた。  その綺麗な顔がすぐに泣きそうな笑顔に変わる。 「うん。そうだね」  そう言って、少し言葉をにじませながら璃空はこくんと頷いた。

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