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第4話 君に恋してた①

 大学の研究科室の中はあっちこっちで阿鼻叫喚となっていた。 「誰か! 英語のヤマ! ヤマ教えてくれ!」 「ヤマは知らん。登ればわかる。それより、基礎理化学概論のレポートできた人いる?!」 「情報処理って出席割合いくらだって?」 「微積分と物理数学の答え見せて!」 「なんで理工に来てまで憲法の事やらなきゃならんの? テストどこ出るの?」 「力学解法は?! 誰か先生の本もってない?」  後期評価期間、いわゆるテスト前というヤツだからである。  同期の学生たちが泣きそうな顔で知り合いにノートやレポートを有償無償を問わず借り出している。その騒ぎを目の前で眺めながら、璃空は椅子に座ってただ一人のほほんと静かだった。  そんな彼を血走った眼をした年上の同期が睨みつける。 「おい、余裕だな色男。レポートはできたのか?」 「提出済み」 「え、全部?」 「登録してる分はね。あとはテスト勉強だけ」  璃空はテスト用に講義内容をまとめたタブレット画面を眺めつつ、ずずずっと四角いパック入りのプロテイン飲料を啜る。  美味しいわけではない。ただダンススタジオでいつものレッスンにくわえて紗季さんとの練習も始まった。だから手っ取り早く身になるカロリーを取らなくては持たないのだ。  そんな一抜け男にその場からはブーイングの嵐である。 「えー! 提出前に見せてくれるってのが友達だろ?」 「すでに何人かにはノートを売ってる。それを元にすると似たようなレポートができるから、あんまり数が多いと俺が教授に睨まれるだろ」 「売ったのか?」 「人的コストはランニングを考える上での基本だよ。レポート売った相手は俺と週額のサブスク契約してる人なの」 「お前、そんな商売やってたの?」 「うん。テスト前になってあっちこっちから声かけられるのもめんどくさいしね。集中したいことがあるときに心配事の雑音で邪魔されたくない」 「テストに集中するために、先に厄介ごとを片付けるとは、おぬしデキるな」  と同期達は褒めたが、実は違う。当初の目的はそうだったかもしれないが、今は目の前のテスト用の内容など、困ったことにこれっぽっちも頭に入ってきていなかった。  悠翔のことだけ、考えていたかった。  璃空は両手のこぶしを握ってまじまじと眺めると、左手の小指だけをぴこんと伸ばす。悠翔が指切りしてくれた指だ。 「へへ……」  思わず顔が緩む。花が綻ぶような笑顔にその場に居合わせた同期達がはた、と動きを止めた。  数人が手元の作業そっちのけで璃空の側に椅子を寄せて座る。 「なんだよ、おい。もう次の彼女出来たのか?」 「ううん」 「その割にはなんでそんな可愛い顔してんだよ」 「ふふ……内緒」  璃空ははにかんだ様子で笑った。  その笑みが彼の整った外見と相まって、あまりの美しさに集まった男たちがうっすらと頬を赤らめてほうっと溜息をつく。 「なんか……いつもとは違うな」 「そう?」 「いつもだと、彼女ができてもこれほど浮ついたりしなかっただろ?」 「俺、浮ついてる?」 「自覚なしかよ」 「なんだよ。ようやく理想の相手、ってのに出会ったわけ?」 「ふふふ」  璃空はにこにこ笑うだけで応えない。  悔しい思いで諦めた過去のことについて、誰かに話したことはなかった。  自分の中にぽっかりとあいた深淵であり、楽しい話ではない。璃空は自分の外見が他者から『完全無欠の王子様』のイメージを抱かれていることは知っていたから、それにはそぐわないだろうとも思っていた。  でもなぜだか悠翔には話せた。  気負いがなかったのは彼が同じような経験について自己開示してくれたからだ。 ―――――僕らはきっと、出会うべくして出会ったんだよ。そういう縁なんだと思う。だから一緒に。  頑張ろうね、という指切り。  19歳にもなったいっぱしの男がするような行動じゃない。だからこそ彼の素直な優しさになおさら心が震えた。  あの夜から二日もたっているのに、彼が結んだ小指が温かい。  壁のない性格。  太陽のような笑顔。  抱き心地のいい身体。  むっちしりた腰つき。  本人は自分をクマだなんだと卑下するけれど、あの肉感的な体がラテンのリズムを刻み、指先が命の奥底から溢れる喜びを表現するとき、本人はまったく自覚のない妖艶さが周りを魅了する。  ああ、早くまた一緒に踊りたい。  璃空は深くため息をつく。なのに今週はすでにバイトに学校にと予定が先に入っていたらしく、来週までスタジオには行けないのだという。  らしくもなく璃空は机に顔を俯せて、胸に溜まる澱を吐き出した。 「あー! 一週間が長いぃ!」 「言うな! あっという間に過ぎたら俺らのレポートが死ぬ!」 「早くテスト期間が終わればいいのにぃ!」 「待って待って待って。むしろちょっと時間止まってぇ!」  温度差の違う二つの絶叫で、本日の研究科室は大変賑やかであった。

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