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第5話 君に恋しそう②

 悠翔は慌てて店を出て駅へ向かう。  電車で一駅。距離として走れなくはなかったけれども、電車の方が当然早い。しかし電車は悠翔の逸る心になど関係なく、一定の早さで車窓の景色を流していく。夜の闇で鏡になった窓に映る自分を眺めながらもどかしくて、走った方がよかったかと考えたりもした。  ようやく確保した時間だった。  本当はバイトに学校にと予定が先に入っていて、時間などとれそうになかった。それをなんとかバイトを早あがりさせてもらうように手配して、夜は終電を逃しても大丈夫なように璃空の家に泊めてもらうことにして、ようやくなのである。  ただ通常の時間には到底間に合わない。たどり着けるのは終わった後になってしまう。璃空を待たせたくはなかった。  駅にとまって列車の扉が開く。  悠翔は飛び出すように出て改札に引っかかりながら駅を抜ける。そこからスタジオまではそんなに距離はない。  寒さから身を守るコートにもどかしさを感じつつ走った。  佐々木ダンススタジオの窓ガラスに書かれた文字が室内照明で夜闇のなかに浮かんでいる。それを見上げて悠翔は走った。 「ごめん、おそくなりま……」  中には一組の男女ペアだけがいた。  赤いドレス姿の女性は紗季だった。そうなると寄り添うパートナーは璃空でしかない。二人は大会の練習中だった。  曲目はルンバ。  強い太陽とむき出しの情熱を4分の2拍子にのせて踊っている。  視線が交わる。  吐息が触れる。  寄り添い、離れ、また寄り添い……けれど決して相手から意識を離さない。  距離が問題なのではない。  体の交わりが全てではない。  存在が互いの愛を求めている。  それこそが、恋。  コンタクトポジションでのヒップアクションは衆目を浴びるダンスでありながら見ている悠翔の牡としての感性を刺激する程妖艶で、至近距離で見つめ合う二人の唇は触れていないのにキスよりもエロチックだった。 「わ、わぁ……」  半ば腰砕けになりながら、悠翔は入り口の陰でそれを見つめ続ける。こんな本格的なダンスをまじまじと見たことはなかったので、目が離せない。  何よりも璃空から……。  いつもニコニコと理性的に女性をエスコートしている紳士然(ジェントルマン)の青年が、今は手練れた娼婦に振り回され恋への渇望と狂気で自分を制御できない狼のように荒ぶっている。  スタンダードナンバーで見られる切れ長でありながら穏やかでエレガントな視線が、ラテンナンバーの情熱を得てセクシーにギラつく。  そうしてパートナーへ言外に語るのだ。あなたに恋い焦がれて死んでしまいそうなのだ、と。 「わ……あぁ」  悠翔は急に泣きそうになって、入り口の隅っこで座り込んで膝を抱えた。  なぜなのかはわからない。  ただ目の前の光景が悔しかった。  自分では決してたどり着くことのない世界がそこにあったから。  そこに存在する璃空が、悠翔にはずっと遠く感じられたから。 「悠翔君?」  昂った気持ちがおさまり、目元に滲んだ涙が乾く頃、ひょいっと入り口をのぞき込んだ璃空が悠翔に声をかける。悠翔は目元を少々赤らめて顔を上げ、ずずっと鼻をすすった。  いつもの璃空だった。  物腰柔らかで、穏やかで、気品がある彼だった。 「いつからそこに居たの?」  座ったままの悠翔の前に璃空が踵を揃えたまま長い足をたたんで座り込む。  長い彼の指が悠翔の目元を拭い、柔らかな頬に触れた。様子をうかがってのぞき込む目つきが優しくて美しくて、悠翔の頬がほんのりと赤らむ。 「入ってくればよかったのに。寒いだろ、ここ」 「紗季さんと踊ってるの見て、なんか、僕はまだまだだなあ、って恥ずかしくなっちゃって……入れなくて」 「気にしなくていいよ。経験値が全然違うんだから」 「あ、うん……その……すぐに着替えるね」  悠翔は慌てて立ち上がると、逃げるように更衣室へ入っていった。  更衣室から出ると紗季はもういなかった。 「おいでよ」  スタジオの真ん中で璃空が腕を伸ばす。大きな鳥が両翼を広げたように両手を広げて。  悠翔はうっとりとした様子でその両翼に手をかける。やはりいつも通りどこかから音楽が聞こえた。ただ今日は少々雑音が混じっている感じがする。針のとんだレコードのように、時々ぷつぷつと途切れた。 「じゃあ、いつも通り。ゆっくりとステップの確認から」  1.2.3……1.2.3……。  頭の中で流れる音楽に合わせて悠翔は淡々とカウントを繰り返す。そうしている間に音楽は滑らかになっていった。 「もう大丈夫?」  進行方向を向いたまま璃空が尋ねる。はは、と悠翔ははにかんだ。 「ごめん。心配かけて。でもなんか、紗季さんと新崎君のラテンダンスが、すごすぎて」 「ようやく、ってところかな。ずっと叱られて怒られて引っ張り回されてた」 「あはは」  条件反射的に笑ってみたけれども、悠翔の心の中は少し暗かった。  璃空は「つなぎ」だと聞いている。  けれどもラテン、スタンダードに限らず、ダンスパートナーがそのまま恋人になることは珍しくない。  今日の様子を見る限り、もし紗季に釣り合う相手が現れなければ、璃空がずっとパートナーを務めることになる。  先ほど見たような情熱を交わし合って、本気の恋が盛り上がらないなどとは言えない。  悠翔の足が止まる。 「悠翔君?」  手をつないだまま、璃空も立ち止まって悠翔を見た。 「悠翔君?」  もう一度璃空が尋ねる。  悠翔の耳の奥で、ぶつぶつと音楽が途切れ続けていた。 「やだな……」  璃空が、とられてしまう。  自分の手の届かない領域へ、去って行ってしまう。  それを思うとなぜだかまた目元が熱くなって、悠翔は少し俯いた。 「悠翔君」  今まで聞いた中で、一番柔らかい声色だった。見上げると璃空が悠翔を見て泣きそうな笑顔で見ていた。 「今から、俺に身を任せて。時々指示するからその通りに。ステップだけ、間違わないように気をつけて」 「え?」  頭の中の曲が切り替わる。華やかで壮大なワルツ楽曲になった。  ただつないでいただけの手が正式なワルツのホールドになる。自然と悠翔の体が反り返る。その体勢を璃空の長い腕がしっかりと支えた。 「ア……わぁ……」  璃空に身を任せたまま悠翔はスタジオを縦横無尽に動き回る。まるで遊園地のコーヒーカップや回転ブランコに乗っているような回転とスピードだった。 「あはは! 何これ。すごい! 早い!」 「そう? じゃあこれは?」  スピードがありながら、羽が舞い降りるような柔らかい浮遊感を受ける。  目を閉じていたくなるような心地よさだ。  実際目を閉じていても璃空に任せていれば大丈夫という全幅の信頼がおける安定感がある。  大きな足と長い腕に安全を担保されている。それで固く守られている、深く愛されていると感じられる。 「どうだった?」  腰を抱かれるような形で終わった悠翔の体は璃空の胸の内に引き寄せられる。長い腕で包まれて、汗だくの悠翔はトロンとしたまま璃空にすがりついていた。 「……気持ちよかった」 「言ったでしょ。俺なら、悠翔君を気持ちよく踊らせてあげる、って」  顎に添えられた手で悠翔はくいっと顔を上に向けさせられる。  璃空の顔は、紳士然としていながら牡の艶めかしさを感じさせた。 「新崎、君……」 「俺もよかったよ。こんな気持ちよく踊れるの、きっと悠翔君だけだ」  砂糖菓子がほろりと崩れるような甘い微笑みと少し掠れた声に、悠翔の胸の中が切なく疼いた。   「り……く……」  こんな顔を今まで付き合ってきた女の子にも見せてきたのだろうか。  これからも彼はこの顔を誰かに見せるのだろうか。  それは、嫌だ。  悠翔の中にこれまで感じたこともないような黒い感情が渦巻いていた。それはきっと独占だとか、嫉妬だとかいうものだ。  璃空はモノではない。  一個の人間である限り何を選ぶか、誰を選ぶかは彼の選択の結果なのだから、友人の立場でしかない悠翔がとやかく言うべき事ではない。  頭では、理性ではわかっている。  わかっているはずなのに、誰にも渡したくないと、そう思っている自分をその時、悠翔ははっきりと知ってしまった。  存在の全てで彼の愛情を独占したいと、愛されたいと願ってしまっている。  どうしよう。受け入れられるはずもない。自分は男で、ダンス上のパートナーで、ただの友人に過ぎない。  それでも……。  赦しと救いを求めて救世主の足下に縋る殉教者のように、悠翔は切なく璃空を見つめ続ける。  戸惑う悠翔の気持ちなど知るはずもない璃空はいつも通りの綺麗な青年の顔であどけなく微笑んだ。 「今日は俺の家に泊まるから、終電逃してもいいんだよね? じゃあもう一曲、付き合ってくれる?」 「な……なにを?」 「サンバ。これなら悠翔君は足型教えなくてもできるんでしょ? 練習に付き合ってよ」  璃空の体が悠翔から離れ、まっすぐに手が伸ばされる。  悠翔はその手を取り、二人で大きな鏡に向かって立った。

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