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第6話 君がほしい②

 音楽が聞こえる、と悠翔は言った。 「どんな?」  二人きりのスタジオ。悠翔がバイトへ行ってしまうまでの少しの時間をワルツの練習に費やす中で、璃空は尋ねた。  悠翔がハミングで音程をなぞる。多少狂いはあったけれども、さっきまで自分の頭の中に流れていたので璃空はすぐに曲目が思い当たった。  「美女と野獣だ。すごいね。それ、俺の頭の中に流れてたやつ」 「あ、やっぱりそうなんだ。新崎君と手を繋ぐとね、聞こえてくるんだよ」 「嬉しい。俺の頭の中の曲が伝わってるって、俺たちのダンスの相性、ばっちりってことじゃない?」 「そうなんだ。あはは」  悠翔が嬉しそうに笑うから、璃空は本来進行方向に向けるはずの視線で悠翔をちらりと覗き見る。スタイルこそしっかりとしたホールドなのだが、まだステップカウントを復習中のため割とゆっくり目に踊っている。その程度の余裕はあった。  悠翔の顔はキラキラして見えた。 「ああ……」  感嘆のため息が小さく零れる。  可愛くて、可愛くて、愛しい。今すぐここで抱きしめたい。  しかし悠翔は自分の容姿をむさくるしいと思っているから、誰かに強い好意を向けられるとか、あまつさえ性的に消費される対象になるなんて考えもしない。そんな相手に同意なくキスやセックスを迫るわけにいかない。  璃空が悠翔を心置きなく愛せるのは夢の中だけ。  小さい尻尾とプリンとしたお尻、厚い胸板を含む全身黒い毛皮のもこもこ着ぐるみクマちゃん。その姿で楽しそうに逃げ回る『誰か』を璃空はいつも森の中で捕まえる。  捕まえて、肩を滑らせるように毛皮を剥ぐと、うっすらと汗ばむむちむちとした肉厚の裸体が露わになる。それを後ろから絡め取り、抱きしめて、どれほど求めているか口よりも正直な反応をむっちりとした尻の谷間に擦り付けて、耳朶を甘く噛んで囁く。  愛しているよ。俺を受け入れて、と……。  最初は顔が見えなかったクマちゃんは、紗季から指摘を受けて以降、悠翔の顔になった。 「新崎君」  悠翔に名を呼ばれ、ふっと璃空の意識が爛れた昨夜の夢から現実へ引き戻される。  ワルツのステップがピタリと止まってしまった。 「え? あ、カウントずれてた?」 「いや、それは全然。むしろ無表情のまま何にも言わなくなったからどうしたのかと思って」 「ちょっと、大会の方を考えてて……。集中してなかったね。ごめん」  璃空はにこりと笑う。先ほどの卑猥な妄想の後ろめたさが強ければ強いほど笑顔は爽やかになった。  悠翔はじっとそれを見上げてから、ぽつりと尋ねた。 「昨日、どんな夢見てたの?」 「え?」 「寝言を言ってた」  璃空の笑顔が能面のように凍り付く。背筋がすうっと寒くなるのを感じた。 「ど……どんな?」 「愛してるって。相手は……紗季さん?」  悠翔の眉尻が少し下がった。  璃空はレム睡眠中にはっきりとした寝言を言っているのを付き合ってきた相手から度々指摘されていた。中にはかなり相手をイラつかせる類もあったようで、起きてから彼女に強く責められることも少なくない。結局別れの原因に繋がったこともある。今まではそれでもかまわなかった。去って行くのを追いたいと思う相手ではなかったから。  悠翔はちがう。でも彼はこれまでの相手のように深く追求しようとはしなかった。  困っているような、寂しいような顔。  時々夢の中で見るクマちゃんの顔とそっくりで、璃空の胸の内がきゅっと切なく、ほっこりと温かくなった。 「俺が見てたのはね、僕が大好きな可愛いクマちゃんと、ダンスをする夢」  璃空は片手を繋いだままするっと悠翔の背後に回る。肉付きのいい腰にぴたりと腰をつけてルンバのステップを軽く刻んだ。 「え、あ……何、その曲……えっと……ルンバ? 無理、僕知らない」 「いいから。ゆっくりする。腰の動きを俺とトレースして。悠翔君の方がたぶん理解したら俺よりも上手だと思うよ」  言われるまま戸惑いつつも、ゆっくり悠翔が璃空のステップを辿る。  まるで一つのようにぴったりと重なり合って踊る。  ベーシックなステップアクションを覚えると悠翔の身体は音楽に揺蕩い、柔らかく体を動かして楽しみはじめた。  璃空はそれを見計らい、指先は皮膚一枚を残して繋がったまま、するっと背後から悠翔の正面へと移動する。  遠く、さらに遠く。  一縷の望みを指先に託すように長く伸ばした互いの腕が一直線を描く。璃空は悠翔の手を掴み、強く引き寄せる。  クローズドポジションからのコンタクトポジション。見つめ合う視線は熱く絡みあう。  もっと近くに、もっと濃密に。  性的で、魅惑的で、卑猥なルンバウォーク。密着したまま腰の動きが興奮を高める。  心拍数が高まる。  汗が噴き出る。  息が上がる。  頭が真っ白になる。  ヒートアップする意識を絶頂への高みへと駆け上がらせる。   「に、いざき、く……」  激しいまま終わりの見えない璃空の旋律に悠翔ははあはあと息も絶え絶えとなる。それを見つめる璃空の目は情欲に潤んでいた。  ポジションではなく璃空は悠翔を長い腕で包み込むようにしっかりと抱きしめる。  どれほど貴方に恋焦がれているのか。  璃空の口よりも正直な反応が悠翔の引き締まった腹筋にあたっていた。  そして同じ反応は悠翔も……。 「はる……ま、君」  吐息が触れる距離に顔が近づく。  今朝方悪戯した時に見た濡れた唇を璃空は思い出す。理性はこれ以上近づくことを戒めるが、本能が先へ、その奥へと求め続ける。  そんな璃空の葛藤は、悠翔からの軽く、そしてゆっくりとしたキスで打ち切られた。 「あ……」  悠翔は自分のしでかしたことを後から理解して戸惑っていた。とっさに離れようとしたけれども、璃空は逃がさなかった。    「悠翔君。君が僕の大好きなクマちゃんだよ」 「新崎……君」  今度は璃空から、そうっとゆっくりと悠翔の唇に自らの唇を重ねた。  悠翔は逃げなかった。強張った体から力が抜け、璃空の背中に腕が回る。 「ん……っは」  キスだけで、満足しなきゃいけない。  璃空の理性が歯止めをかける。なのに唇が触れたら、さらにその奥へ踏み込みたくなる。噛みつくような口づけを交わし、舌を差し合って相手の中を探る。  その間、悠翔を抱きしめる璃空の手は背中から背骨へ、ラインを辿って腰の窪みへ、腰から肉厚のヒップラインへ、双丘の隙間へと滑っていく。  夢の中のように、身に纏うすべての隔たりを引きはがしてしまいたい。  普段なら相手の嫌がるようなことも、強引な接触もしないと決めているのに、今だけは理性が働かない。とにかくもう、悠翔を抱きたくてしかたなかった。 「わー!」  悠翔の叫びが聞こえて、190cmの巨体が宙に浮いた。何が起こったかわからなくて璃空はあたりを見回す。悠翔が眼下に見える。どうやら彼のたくましい腕が脇に差し入れられて、自分は飼い猫のように抱え上げられているのだと気付くのに少々時間がかかった。  長い腕は伸ばせば悠翔に届きはするけれど、がっちりと脇を固められているし、床から数センチ足が浮いているのでこれ以上は近づけない。手も足も出ないとはこのことだった。 「こんな僕と、セ……セックス、できる、の?」  眉をさっきよりますます八の字に下げて上目づかいで悠翔が尋ねる。  璃空は高いところから見下ろしたまま不敵に笑って即答した。 「余裕」 「ええっ?!」 「試してみる? 俺の覚悟」 「え、え、え、え、でも、ど、ど、ど、どどっちが、そ、その、お、男役?」 「悠翔君がしたい方でいいよ。俺はどっちでもいい。ただ悠翔と深く触れ合いたい。それだけだし」  素直な気持ちが割と冷静に口から出た。  悠翔は少々俯いてじっと考えている。璃空のほうは脇の動脈が圧迫されているせいでそろそろ手の先が痺れてきた。  ゆっくりと悠翔は璃空を地上へ下ろす。  拒絶ではない。たぶん困惑だろう、と璃空は見ていた。  璃空はそっと悠翔の両手を取る。それを口元まで寄せて、軽く唇を当てた。  おずおずと顔を上げた悠翔と、うっとりと見つめる璃空の視線が愛しさの綾を織る。 「い、つか、ら?」 「入会してきたときから。ずっと、気になってたんだ」 「はは。知らなかったな」 「俺も、人から言われるまで、知らなかった。恋だった。ずっと、好きだったんだ。悠翔君は?」 「……………………好き。で、でも、ち、ちょっと……考えさせて」 「キスはいい?」 「うん……。キスは……してほしい。僕も…………したい」  消えるような声で言って、悠翔は真っ赤な顔で俯く。  俯いたらキスできないよ、と思いながらもその仕草が泣きたくなるほど可愛くてしかたない。  璃空は腰を曲げ、ぐずる小さな子供の顔を伺うように覗き込むと、ちゅっと軽く唇を奪った。  それでようやく悠翔の顔が上がる。おずおずと、彼は尋ねた。 「もう一度、いい?」 「うん」  今度は悠翔から少し背伸びする。  お互いの距離が、吐息が、唇が溶けあう。もう軽い触れ合いでは満足できない。互いの背に腕を回して抱き合い、ちゅ、ちゅぶ……と何度も交わして、舌を絡めて貪る。  密接した腰は固く熱を帯びて昂っている。男役だとか女役だとか関係なく、キスだけではしたなく着衣のままでイってしまいそうだ。けれど璃空は決してさっきのようにその先を急がなかった。嫌がることを強いたくはない。その程度には理性が戻ってきていた。  額だけをつけて、火照った顔ではにかみながら互いに見つめ合う。 「エロいね」 「お互い様だろ」  たまらなくなって再度口づける。ダンスよりも、セックスよりも、濃密でいやらしいキスに、暫く二人は夢中になっていた。

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