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第7話 ナイショの二人③
終電まで40分を切っている。
歩いて半分は過ぎるから、もうそろそろスタジオを出る必要がある。そのために照明や空調はすでに電源を落としてあって、後は着替えて出入り口を施錠し、セコムをかけるだけにしてある。
なのに更衣室では唇が触れあう湿った音が止まることなく響き続けていた。
「駄目だよ……」
そう言いながら璃空の首に回した腕を悠翔はほどけずに居た。
璃空の肩越しにアナログの時計が見える。その秒針が一秒一秒を刻むたびに心の中は焦るのに脳髄が蕩ける快楽を手放せない。
「電車に……遅れちゃう」
「俺の家に泊ればいいよ」
悠翔はなんとか理性をかき集めて巧みなキスから逃れようとするのだが、目の前の飢えた紳士面の狼が逃してくれない。興奮に荒い吐息を吐きながら執拗に唇を追いかけてくる。
ついに腹を決めて、悠翔は首っ引きで縋り付くことで物理的に璃空のキスを封じた。
「そんなにナニをガチガチにしておいて、一緒に眠るだけなんて無理だろ? 駄目だよ。僕はまだ答えが出てない」
「俺は出てる」
「待ってくれるんだろ?」
ぐずった子供を宥めるように言われて、璃空は強く抱きしめようとしていた腕を中空で泳がせる。ぐっと拳を握って彼は我儘になりたい気持ちに堪えた。
「ありがと。さ、はやく着替えないと」
悠翔は璃空から離れて自分のロッカーを開ける。璃空の視線は何かを言いたげであったが敢えて見ないふりをして汗に濡れた衣装をためらいなく脱いだ。
パンパンに筋肉のはった胸板が露わになる。それを見る璃空の視線が痛かった。
見過ぎだろ。
速乾性の短パンを履き替えながら悠翔は小さくため息をつく。そうしてちらっと璃空を見て、
「えっち……」
と冗談めかして言ってみた。
璃空は慌てて視線を逸らすとダンス用のゆったりとしたズボンを脱ぐ。ボクサーパンツの前面は通常よりも少々浮き上がっていた。それをひたすら押し込むように普段着の窮屈そうなボトムに素早く着替えた。
「制汗シートでマーキング されるとは思わなかったよ」
駅までの道は時間的にもう人の姿は見ない。飲食店の明かりもポツポツと落ち始める時間だ。暗くなっていく静かな通りを二人で並んで歩きながら、悠翔は冗談めかして笑った。
「独占欲強かったんだね、新崎君」
言われた璃空は気まずそうに寒さで赤くなった鼻頭を人差し指でカリカリと軽くひっかいた。
ちらっと悠翔を流し見る。
「嫌いになった?」
「ううん。前から執着しない方だって聞いてたから、意外だっただけ」
「俺が一番……意外」
璃空はコートの襟もとで首をすくめて、ふうっと白い息を吐いた。
「香水とかは、つけないの?」
「悠翔君はつけてるの?」
「そういう柄じゃないかなと思うし、料理やってるから。強い香りを常用すると味覚が狂うんだよね。制汗スプレーとかも無香性使ってる」
「俺は体臭が強い方じゃないらしいし、ダンス以外ではあんまり汗もかかないからそれほど必要性を感じなくて。ボディーシートで十分。それに香水なんてつけたら、更衣室で俺たちの関係がバレるじゃない」
「まあねえ」
今日は更衣室に入るなり悠翔は璃空に背後から覆い被られた。キスをしてもいいかと、続いて同意を求められたが断れるような雰囲気ではなかったし、その後はずっとお互いに『言葉よりモノ言う肉体の部分』を擦り付けあっていた。香水などつけようものなら互いに同じ匂いが染みついて、察しの良い年配仲間にはすぐにわかってしまう。
「俺はバレてもいいけど、悠翔君もそうとは限らないじゃないか。それとも今度一緒にお店に行ってみる? 匂いついてもいいなら」
「いいね。発表会用におそろいの香水なんてどう?」
「え。いいの? ほんとに?」
璃空の顔がぱっと明るくなる。普段クールな紳士を装う魅惑の美青年の中身は19歳の多感な男子だった。それがまたかわいい。
「さすがにスタジオではつけらんないけど、二人きりの時ぐらいは、よくない? だって僕らはダンスのパートナーで、恋人……なんでしょ? 同じ匂いを纏って踊るなんて、素敵じゃない」
「嫌がられるかと思ってた」
「だったらボディーシートなんて受け取らないよ。僕だって雄 なの。独占欲はそれなりにあるよ。君の匂いならそれは僕の匂いだろ」
次の休みを合わせてちょっと遠出してみようと悠翔は提案する。それを聞いた璃空は「デートの誘いだ」と大きな体に似つかわしくないほど軽いスキップとツーステップを踏んだ。
本当に可愛い。
初めて見たときは完成され過ぎて近寄りがたかったのに、中身に自分と同じ年相応のかわいらしさを見せられると、そのギャップにたまらなくなる。
みんな、この手におちるのだろうか。ふと悠翔はそんなことを思った。
「新崎君はさ、萌子ちゃんとかと付き合ってるときも、こんな感じだったの?」
「こんな感じ、とは?」
璃空が首をかしげる。
悠翔はその小指に自分の小指を絡ませてから、するっと手を繋いだ。
「で、デートに浮かれたり、キスに夢中になったり……手を繋ぐと、頭の中でYUIのCMソング流れちゃったりとか」
「聞こえた?」
「なんとなく……」
笑いを堪えて悠翔が言うと、恥ずかしそうに璃空は俯いた。
「信じてもらえないかもしれないけど、こんなに余裕がないのは、初めて。悠翔君は?」
「僕も、初めて。今まではさ、女の子の側からせっつかれる程反応が悪い方だったんだけど、新崎君といると、なんか、次々やりたいことが浮かんでくるっていうか……すごく、楽しい」
悠翔は上目遣いにちらっと璃空の顔を見る。真顔の彼は冷えた鼻先とは違う理由で頬を真っ赤にしていた。繋いだ手にきゅっと力がこもって、手のひらがかすかに熱っぽくなる。
駅が見えてきて二人は足を止める。スマートフォンに示された時間はまだ終電まで7分の時間があると告げていた。
二人は手をつないだまま向かい合う。悠翔は璃空を見上げた。
「次は、二日後に」
「夜に電話する。この間みたいに一方的にブッチしないでね。俺、あのあと妄想が滾りすぎて眠れなかったんだから」
ぷうっと頬を膨らませるところがまた可愛すぎた。
背伸びして、悠翔から璃空にキスする。駅の明かりがぎりぎり届かない場所だったので、誰も見ていないはずだった。
「発表会には答えを出すよ。だからもう少し……待ってて、くれる?」
まっすぐに見つめて、悠翔が言う。
璃空はさっきよりも赤い顔でぷるぷると震えてから、大きな腕を精一杯広げて、ぎゅっと悠翔を抱きしめた。
強くて苦しい。
でもそれが幸せだった。
あと5分を示してスマートフォンがけたたましく鳴る。それを聞いて璃空が悠翔から鼻息荒くわが身を引きはがした。
「悠翔君成分補充完了。明日からまたちょっと頑張れる気がする」
「僕も。来週の予定、連絡する」
もう一度キスしたい。その気持ちをお互いに抑えた視線だけが、名残惜し気に未練を伝える。
それを断ち切るために悠翔はスマートフォンのアラームを止める。
「じゃあ、また」
背を向けられず、悠翔は璃空を見つめたまま足早に遠ざかって、駅舎に入る。
璃空はその姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
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