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第8話 僕の王子様②

 控室にまで歓声は聞こえていた。  部屋の片隅に置かれた会場を映し出す映像だけのモニターには、真っ赤なドレスに身を包んだ炎のような女の紗季と暴走する恋心を軽くいなしながら恋の闘いに挑む雄の顔をした璃空が映っている。 「わぁ……かっこいいなあ」  悠翔は佐々木ダンススタジオに用意された控室で一人、パンツと靴下、シャツといったいで立ちで、ボタンをとめながらその様子を眺めていた。  最初に男だらけのサンバ隊によるリズムアンドコミカルなダンスで場を盛り上げ、それで会場が温まったところで璃空と紗季によるパソ・ドブレが展開される。次はワルツ隊で、そのワルツ隊が終われば、少し佐々木がスタジオの紹介をして、最後に璃空と悠翔による大トリのヴェニーズワルツになる。これが佐々木ダンス教室のプログラム構成だ。  佐々木のMCが入るのは璃空の衣装替えと休憩のため。悠翔は最初と最後だけで衣装も簡易的な燕尾服調のテールコートスーツでしかない。しかし璃空はフルセットの燕尾服を纏い、髪もそれに合わせてきちんと撫で上げるのだという。その時間を稼がなくてはならない。  幸い佐々木は『立っているだけでも様になるイケオジ』ではあるので場は持つ。ただ時間が立てばたつほど観客は後に続く演技をノリで許してはくれなくなるので、そのあたりを考えると悠翔は肩が強張った。 「なるようにしか、ならないよね」  肩をほぐして太ももに巻いたシャツガーターでシャツの裾をとめる。  普通はこのあとにスラックスをサスペンダーで止め、さらにその上からピケベストでシャツを抑えるので、ガーターは基本的にいらない。ただそれはフォーマルスーツデザインを着るのに人の話である。  悠翔の場合、サンバの時の衣装のようにウエストでサイズを選ぶと胸が入らない。かといって胸でサイズを選んでしまうとウエストと袖の長さがダレてしまう。袖はジャケットを上から着るのでなんとかなるが、弛んだ裾は止めておかないと動くたびにすぐに裾がスラックスから出てきてしまうのである。特に燕尾服系統はベルトではなくサスペンダーでとめることになるので、シャツをガーターで必ず止めておかなければならなかった。  画面の中でラストを決めた璃空と紗季の背後、暗闇の中から次々とワルツ隊が出てくる。ふわふわと揺れる淡い色のドレスの華が二人を包み隠し、美しき青きドナウが流れる舞踏会から二人の姿は消えていた。 「あ、早くしなきゃ」  ワルツ隊の曲は最大でも10分。佐々木のMCはもってその半分。悠翔は璃空の忙しさを慮る。汗が引く間もないだろう。  悠翔も慌てて衣装をセッティングし、それがようやく終わった頃、佐々木のMCが始まる。  鏡にはこの日のために先生が悠翔のサイズにあつらえてくれたラベンダーシルバーのテールコートスーツが映っている。オリンピック遠征に向かう重量級選手のようなパンパン具合を想像していたが、デザインの加減でそこまででもない。せいぜい結婚式に減量が間に合わなかった新郎くらいの感じだった。 「準備できた?」  いきなり扉が開いて璃空が入ってくる。目を見開く璃空の視線と、振り返って言葉を失った悠翔の視線がぶつかった。 「あ……」  言葉が重なる。  璃空は真っ黒な燕尾服を纏った完璧な紳士だった。普段顔の輪郭を隠す前髪は綺麗に撫で上げられ、優雅でありながら艶めかしい目元も、すらっと通った鼻筋も、整った顔のラインも全てが露わになっている。それらを際立たせるように少々化粧が施されていた。  その上で先ほどのパソ・ドブレの熱が冷めきらない身体から時折汗の玉が浮く。雫がつつっと肌を滑って艶めかしい宝石のように彼を煌めかせた。  美しかった。  腕力にしろ、財力にしろ、魅力にしろ、権力にしろ、圧倒的な『力』は存在そのものが嵐のように暴力的だ。  目の前の存在はまさにそれで、優美さが色気を伴って美の絶対的な王者として君臨してた。  考えるまでもなく、この瞬間に雌雄は決した。 「…………抱いて」  恍惚とした表情で悠翔は無意識に呟く。完全に目の前の雄味に屈服し、心の中で犬のように腹を見せ、尻尾を振っていた。  璃空は整った清楚な顔立ちには似合わない、少々野性味のある目つきでにやりと笑う。 「全部終わったらね。俺の家に行こう。最高の気分で抱いてあげる」  呆然とする悠翔に近づき、頬に白い手袋に包まれた指の先まで上品な手を添えて悠翔を上向かせる。 「緊張してる?」 「う、うん」 「じゃ、おまじない」  璃空は棚の上にあったアトマイザーを手に取る。なんとかして忙しい時間をやりくりして朝から二人で出かけ、オーダーメイドで作ってもらった香水(オーデトワレ)が入っている。  それをしゅっとひと吹き、璃空は自分の足首の内側につけてから悠翔の足首にも同じようにつけた。それから腰、手首、項にも同様にしてお互い交互にかけていく。  最後に天井へ向かって一吹き。細かな霧状の香りが照明の白い光をはじいて二人に降りかかった。 「花嫁のベールみたい。綺麗だね、悠翔君」  璃空が微笑む。その穏やかな表情と、爽やかでありながらほんのりと温かみのある軽めの柑橘系トップノートが、不安に昂った悠翔の神経を徐々にすっきりと落ち着かせてくれる。  ふっと明るくなった悠翔の頬に手を添え、璃空は尋ねた。 「キスしていい?」 「ん……」  悠翔は軽く目を閉じて顔を上げる。璃空は頬に添えた手を項に落として、唇へ口づける。それはまるで神の前に永遠の愛を誓う時にも似ていた。 「もう大丈夫?」 「うん」 「では時間だね。悠翔君、俺を君だけの王子様にして」  璃空が下から手を差し出す。  悠翔はあたりまえのようにその手へそっと自らの手を載せた。

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