2 / 10

2

 コンコン、とドアをノックして久遠(くとお)七音(ななお)が部屋に入ると、応接セットのソファで監督と話をしていた眼鏡の男性が顔を上げた。  ベージュ色のパンツに茶のジャケットを着た細身の体がフワリと立ち上がる。   耳にかかる長さで切った真っ直ぐな黒髪と細い顎、長い首。三十代後半くらいだろうか、清潔さと適度にこなれた感が漂う。一見、神経質そうだが、こちらを見てすぐに伏せてしまった眼差しは温かみと好奇心が混在しているように見えた。  七音は一瞬、初めて会ったのになぜか昔から知っている懐かしい人に会ったような不思議な感覚に囚われ、お久しぶりです、と言いかけて 「お・・疲れ様です」 と無理矢理軌道修正しながら応接室に入った。  今日は主題歌を手掛けることになった映画の監督と原作を書いた作家との曲のイメージのすり合わせだと聞いている。  部屋の端の椅子にはさらにもう一人、茶髪にパーマをかけた若い小柄な青年がタブレットを手に座っていた。 「ああ、七音君、お疲れ様です」  監督がソファに座ったまま手を挙げ 「こちら、映画の原作を書いた作家の若葉(わかば)アキさん。と、アキちゃんの本のイラスト描いてるユウ君」 と、立ち上がった男性と部屋の端にいる青年を両手を広げて大げさな身振りで紹介した。  若葉アキという名前からてっきり女性だと思い込んでいた七音は少し驚いた。 「初めまして、若葉アキと申します。今回はよろしくお願いします」  アキが眼鏡を取りながら丁寧にお辞儀をしたのに続き、茶髪の青年が 「ユウです。桂木(かつらぎ)夕陽(ゆうひ)」 と首を傾げながらニコリと笑った。 「久遠七音です」  七音も名前を告げると頭を下げる。 「七音君のバンドのSeven(セブン) Timbres(ティンブレス)の曲をどっかに使いたいって、僕がアキちゃんに推薦したらアキちゃんもすでに知っててさ。ダメ元でオファーしてみたら、引き受けてもらえたもんだから嬉しくて」 「あ、はい。よろしくお願いします。あの、ホン、読みました」  七音はなんとなく知って欲しくなり、部屋の真ん中あたりに向かってそう言った。 「台本を、ですか?」  その言葉をアキが丁寧に拾う。 「あ、いえ、小説を。台本ももちろん読みましたけど」 「小説を?監督、課題図書にしたんですか?」 「ええ?まさか、違うよ。俺も今初めて聞いた」  どうぞ、座って、と監督に促されて七音はアキの斜め前に座った。 「映画のお話もらった時に一応、原作読んどきたくて」 「ああ、それは嬉しいな。ありがとうござます」  アキが目を伏せたまま口元だけで笑う。その目の伏せ方で、あ、警戒されてるな、と七音は思った。  まあ、初対面はいつもこんなものだ。  一八五㎝の身長に目が隠れるほど伸ばしたくせのある髪と、耳につけたいくつものピアス。そのビジュアルにプラスしての不愛想な態度は初対面の人に好印象を与えるには程遠い。打合せと言われて、ジャケットを着てくるような気の利いたこともできない。 「で、今回の主題歌についてなんだけど、アキちゃんはどんなイメージ?」 「ん?僕ですか?いや、監督に全てお任せしますよ。僕は原作を書いたまでで。脚本は監督が書かれてますし」  嫌味の無い、カラリとした歯切れの良い言い方でアキが答えた。 「あ、そういうこと言っても逃がさないよ。お任せはなし。何か言って」  だが監督は台本に目線を落としたままズケズケと言い返した。 「ダメ?」  そうだな、と言いながら少し考えてアキは話し始めた。 「僕は内容自体にそんなに引っ張られなくてもいいと思ってます。ハッピーエンドとは言いがたいですけど、悲しい中でも嬉しいことも感じながらしっかりと毎日生きていくところとか、主人公の見る明るい光みたいなものが感じられるといいな」  それを聞いて、うーん、と監督が目を閉じて上を向く。 「でも、監督は反対ですよね?」 とアキが尋ねた。 「うーん反対ってほどでもないんだけど、もっと全体的な余韻を引っ張って欲しい感じなんだよね」 「もっと悲しい余韻ですか?」 「悲しいのとは、ちょっと違うのかなー」 「じゃあ、絶望?」 「絶望だと強すぎる」  アキが誘導する空気のままをメモに取りたくなってモゾモゾとバッグを漁っていると、ボールペンの載った台本がこちらに向かって滑るように押し出されてきた。  あまりのタイミングの良さに驚きながらもアキに軽く頭を下げ、七音は二人のやりとりを台本の裏表紙にすぐさま書き留め始めた。 「ふーん、じゃあ、罪悪感、かな?」 「あー、うん、そう、罪悪感」  アキが一つ一つ言葉を拾い集めながら、見えない道筋を誘導していく。 「ごめん、って心の中で謝ってる?口には出せないけど」 「うん、ごめんな、っていつも思ってる」 「いつも謝っているのに、手放す気はないんですよね?」 「うん、ない。手放すなんて考えられない」 「でも、自分でもずるいなって思ってるんでしょ?」 「そう、ずるいなー、傷つけてるよなー、とは思ってる」 「ふうん。ずるいなって自覚はあるけど、それを相手が何も言わずに許してくれてるから、こっちも何も言わずにそれに甘えちゃうんだ?」 「まあ、そうね、甘えてるんだろうね」 「甘えたり逃げたりで忙しい人だ」 「逃げてる・・のかなあ。まあ、そう思われても仕方ないとこはあるか。それで忙しいって、嫌な言い方するなあ」  アキが組んだ自分の足に肘を乗せ頬杖をついた。ブラブラと揺らした自分の足先を見ている奥二重で切れ長の目元に、なでつけた髪からはらりと垂れた前髪が影を落とす。 「ふーん、しょうがない人ですねえ」 「しょうがないよねえ。駄目だよなあ」 「それをわかっていて相手も離れないわけだから、共犯ではありますけど。困った人ですよね」  骨ばった長い指とその手のひらに収まってしまいそうなくらいの小さな端正な顔。  七音はメモをするのを忘れてその顔に見惚(みと)れた。 「困った人、かあ」  監督がそう呟いた時、部屋の隅でタブレットに絵を描いていたユウの腕時計が目覚まし時計のようにピピッと音を立てた。  無機質な音が仮想空間に紛れ込んでいた景色を一瞬で現実へと引き戻す。 「アキさん、時間だよー」 「わかった、ありがと。じゃあ僕たちはそろそろ失礼します」  バッグとコートを手に取りアキが立ちあがった。 「アキさん、台本」 とユウがアキのジャケットの背中を引っ張る。 「え?あ、そか」 「あ、すみません。今、写メ撮りますんで」  七音は慌てて携帯をポケットから取り出した。 「あ、いいですよ。そこ、破っちゃって」 「え?」  言葉の意味がわからず、止まったままの七音の手から台本を取るとアキは裏表紙をサッと破り取って、はい、と七音に渡した。  初めて真っ直ぐにこちらを向いたアキの形の良い唇が前髪の隙間から見える。 「あ、え?すみません」  焦ってお礼を言いながら中途半端に腰を上げて受け取った。  いいえ、じゃあ、とアキはドアの前でこちらにお辞儀をするとユウと部屋を出ていった。  七音は破り取られた裏表紙を手に、置いてきぼりを食ったような気分でその背中を見送ると、ドス、とソファに腰を降ろした。 「なんか、不思議な人ですね、若葉先生」 「アキちゃん?そう?俺の中ではかなり常識人だけど。サラリーマン経験者だし。ユウ君のほうが変わった子じゃない?」 「そうですか?まあ、確かに、若葉先生、ちゃんとしてる感はありましたけど」  脱サラして小説家になるなんてすごいな、と七音は感心した。 「ってか俺さっきまでずっと若葉先生、女の人だと思ってました。なんとなく」 「え?あ、そうか。名前だけだとそうか、そうだよね。女の人でもおかしくない名前か」 「ネットで調べても顔出ししてないし、本の情報しか出てこなくて」 「ああ、アキちゃん、顔出しNGにしてるからね。まあ、最近は顔出ししてない人も多いけど」 「はあ、そうなんですか?若葉先生っていくつなんですか?」 「えーと、たしか、四十歳?ぐらいだったと思うよ」 「イラストレーターの人はすごく若いですよね」 「ああ、うん。ユウ君は二十六歳」  七音よりも二つも若い。 「すごい年の差コンビなんですね」 「まあ、そうだね。ユウ君がアキちゃんの大ファンらしくて、押しかけ女房的な感じで迫ったらしいよ。挿絵を書かせてくれって、猛烈に売り込んだんだって」 「へえ」  見かけによらず随分と積極的な子だな、と七音は驚いた。いくらファンとは言え、なかなかできることではないだろう。 「なんだか中途半端なとこで終わっちゃったな。曲のイメージの邪魔になってない?大丈夫?」 「あ、いえ、それは全然・・。でも・・」  七音は一瞬、考えて 「若葉先生に少し訊きたいことがあるんで連絡先教えてもらえませんか?」  そう言った。 「え?あ、そう?うん、いいけど、ちょっと待ってね。一応、アキちゃんの了解取るから」 「あ、そうすよね」  監督が早速電話を入れてくれる。 「んー、ちょっと今、電話でないな」 「あ、いえ、大丈夫です。さっき、直接聞かなかった俺が悪いんで」 「あ、じゃあさ、ナナシに行ったら会えるかも。三つ先の駅前大通りから少し入ったカフェなんだけど」 「え?カフェですか?」  「うん。よくそこで原稿書いてて、俺もたまに探しに行くけど結構な確率で会えるよ。ロケーション送るし行ってみたら?カフェの人に彼がいるか訊いたら案内してくれるから」  ピンッと音が鳴って七音の携帯に通知が届く。 「ありがとうございます。いきなり行っても大丈夫なんすか?」 「大丈夫、大丈夫。ダメな時はそこのウェイターに追い返される時あるけどな」 「はあ」  ウェイターに追い返されるってどんなカフェだよ、とすでに七音はアキにまつわることについて興味津々になっていた。  家に帰り着き、帰りにコンビニで買い込んだカップラーメンや飲み物の入った袋をデーブルの上に投げ出すと、七音はソファにゴロリと仰向けに寝転んだ。  意外に緊張していたのか、今日の打ち合わせの空気感は鮮明に肌に残っているのに頭の中の情報が追いついてこない。  作家の先生っていうからもっとお堅い感じの人想像してたけど、全然違ったな、とアキの最初の印象を分析し始めた。  思ってたよりも年が上で、落ち着いた話し方が耳に心地良く、綺麗な人であったことまでを辿り、男性だったことに衝撃を受けたことを思い出した。  七音のことを警戒していたように見えたことが少し残念だ。さぞかし印象が悪かったんだろうな、といつもは気にもならないようなことが気になった。  丁寧に言葉を扱う人だ、と裏表紙のメモを持ち上げてぼんやりと眺める。そこにはアキの発した言葉がいくつも記してあった。  初めて会ったはずのにずっと待っていたような気がするのがほんの少しこそばゆい。  ようやく会えた安堵感のようなものと、時間の経過と記憶が前後してしまった不思議な感覚がまだページに漂っていた。 「しょうがない人・・か」  ふと、メモをした裏表紙の反対側に何か書きつけてあるのがライトに透けて見えた。  あれ?と起き上がって裏返してみる。  「何だ、これ?」  見慣れぬ細い筆跡のその文字に七音は一人で声を出して笑った。  次の日、七音の足はカフェ『ナナシ』へと向かっていた。  普段は曲の歌詞を書くときには人の意見をほとんどといっていいほど聞かない。それななのに昨日の今日で、何の約束もなくアキに会いに行こうとする自分に戸惑いながらも、気が(はや)る。  小説の映画化の曲な訳だし原作者の意見を聞くのは別におかしくないよな、普通、普通と繰り返しながら駅の改札を出た。  カフェは大通りから外れた木々に囲まれた中にあり、静かな佇まいだった。白い壁に木のドアがついており、外からはアキがいるかどうかどころか、店が開いているのかもよくわからない。  OPEN という札を確かめ、少し躊躇しながらドアを引くと、目の前にやたらガタイの良いヨーロッパ人のような風貌のウェイターが立っていた。 「いらっしゃいませ」  ギャルソンの制服をきちんと着こなし、手を前に組んで迎えてくれる。 「あ、あのー、ここカフェ『ナナシ』で合ってます?」  あまりにも予想外な人物の出迎えに七音は腰が引けて、体を半分外に出したまま尋ねた。 「左様でございます」 「あ、えっと、若葉アキさんはいらっしゃいますか?」 「はい、いらしてます。先生にご都合聞いてきますので、お入りになって少々お待ちください。お客様のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」 「あ、あ、えと、久遠七音です」  少々お待ちください、と慣れた様子で細い廊下の奥に向かって行くのを見送ってから、ようやく店の中に足を踏み入れた。 「どうぞ、こちらへ」  大きな体の割には静かな動きのウェイターの後を追って細い廊下を進むと店の奥は開けており、部屋の真ん中に大きな木が生えていた。  真ん中の木の他にもあちこちに草木が植わっており、ツタが垂れ下がっている。入って正面は一面の窓になっていて、庭とその先の背の高い木々が見え、高い天井のすりガラスからたっぷりとした光が降り注いでいた。 「うわっ、すげえ、植物園みたいすね・・・」  思わず制服の上からでもわかるほどの逞しい背中に話しかけてしまう。 「ありがとうございます。先生はあちらです。すぐにメニューをお持ち致しますのでおかけになってお待ちください」  窓に向かって低めのテーブルがいくつか置いてあり、その前で立ち上がってこちらを見ているアキの姿に七音の足が、ぐん、と前に進んだ。 「こんにちは、久遠さん」 「あ、こんにちは。すみません、こんな所まで押しかけてきて」  アキの穏やかな声にほっとしながら挨拶を返した。 「いいえ、こちらこそわざわざ出向いて頂いて。監督からここに行けって言われました?」 「はい、大抵ここにいるからって。お仕事中でしたか?」 「ええ。でも、ちょうど休憩しようと思っていたところです」  いつの間にかウェイターが後ろでメニューを手にフカフカとした座り心地の良さそうな椅子を引いてくれている。 「どうぞ」  座って差し出されたメニューを受け取った。 「神島(かしま)さん、アップルパイ焼きたてですか?」  アキがウェイターを見上げて親し気に話しかけた。 「はい、先程、焼きあがりました」 「じゃあ、僕はアップルパイとディンブラにしようかな。ミルクを別でつけて下さい」 「かしこまりました」 「久遠さんは?ここ、デザートもおいしいですよ。甘いもの嫌いじゃなかったら試してみませんか?」 「はあ、デザートですか。じゃあ俺もアップルパイとアメリカン下さい」 「少々お待ちください」  低く響く声でそう言うとウェイターは素早く立ち去って行った。 「すごい店っすね」 「すごいですよね。森の中にいるみたいでしょ。家よりも居心地が良いからオフィス並みに使っています」 「確かに、森の中みたい」  異空間の中にいるせいか昨日よりもアキとの距離が近い気がする。 「監督から久遠さんが何か訊きたいことがあるみたいだと連絡頂いたのですけど」 「あ、まあ、そうなんですけど。それより先にもっと気になることがあって」  七音はそう言って昨日の台本の裏表紙を取り出した。 「この裏に、しゃもじって書いてあって。これ、何かなって」  七音は昨日、見つけた裏表紙の反対側を見せた。 「うん?しゃもじ?」  アキが首をかしげて覗き込み 「あ、ほんまや」 と、関西弁で呟いて顔を上げる。  え?関西弁?と七音は数秒間アキを見つめて、ブフッと吹き出した。 「ええ?このタイミングで関西弁ってずるいでしょ」  一気に気持ちが緩む。 「あはは、すみません。ちょっと不意打ち過ぎて、つい」  笑い出したアキの目尻に皺が寄り、一瞬で柔らかい表情になった。 「お待たせしました」  緩んだ空気の二人の間にアップルパイの匂いが広がり、シナモンとリンゴの甘い香りが柄にもなく七音を華やいだ気分にさせる。 「何なんですか、これ。もう俺しゃもじって言葉が気になっちゃって、昨日、一人で爆笑したんすよ」  七音は笑いが収まらないまま尋ねた。 「あはは、それね」  アキも笑いながらカップを手元に寄せてポットを傾ける。紅茶の良い香りが立ち上り、湯気がフッとアキの眼鏡を曇らせてすぐに消えた。 「小説に出てくる猫の名前を考えてて、忘れないようにメモしたこと忘れてました」 「猫の名前?」 「ええ。ちょっと大きな白猫のイメージだったもので。まさかそんなところまで逃亡していたとは。でも救出してもらったからもう大丈夫。絶対忘れません」  そう言いながら眼鏡を外すアキの横顔を昨日よりも近くで眺めて、うわ、やっぱめちゃくちゃ綺麗な人だ、と改めてびっくりする。 「そっか、良かったです」  同性にそんなことを思ってしまった自分に慌ててしまい、怖ろしく凡庸な言葉を返してしまったがアキはそんなことは気にもせず、嬉しそうに 「はい、ありがとうございます」 ときちんと礼を言った。 「うわ、アップルパイなんて久しぶりに食べたけど、うまっ。ヤバいっすね、アイスと一緒に食うと」  トロリと中身が零れ落ちそうなアップルパイとバニラアイスを一緒にして頬張る。 「そんなに感激してもらえたなら良かった。ここまで来てもらった甲斐ありました。焼きたて は香りが高くてほんとにおいしいよね。でも若い頃、僕、この温かいアップルパイに冷たいアイスが一緒になっているのが苦手だったんです。歳を取ってからだいぶ許容できるようになりました」 「そうなんすか?熱いのと冷たいのが一緒になってるのを食うのがうまいんじゃないんですか?」 「んー、まあ、そうなんでしょうけど。このアイスが溶けてしまって、液体がパイの底に浸ってしまうのがどうも。ビジュアル的にも味的にも、どうにも受け入れられなかったんです」 「へぇ、他にも受け入れられないものあるんですか?」 「そうですね、ワンプレートとかも苦手でした。ライスがサラダのドレッシングに浸ってしまうのがどうにも気持ちが悪くて」 「ええ?じゃあ、カレーライスとかも別々がいいんすか?」 「ん?そういえば、カレーライスは大丈夫ですね。ああ、でも、最初から全部を混ぜて食べるのはできないかもしれない。カレーとご飯の境目を少しずつ混ぜながら食べてますねえ」 「あー、俺、最初に全部混ぜてから食べる派」 「ええ?そうなの?最初から全部?・・勇気あるね」 「そうすか?それ、勇気の問題?」 「だってさ、何か怖くない?」 「は?怖い?意味わかんないんすけど」 「そうかな。最初に全部混ぜちゃったら、もう後戻りできないんですよ?」 「後戻りってなんすか。食ったら全部後戻りできなくないすか?」 「えっ」  アキがギョッとした顔で七音を見る。 「あー、まあ、それはそうなんですけど。え?考えたことなかったな。確かに食べたら全部後戻りできないですよねぇ・・」  七音はうーん、と唸るアキにまた笑ってしまった。  結局、本当に訊きたいことは訊けずにただとりとめもない話をしただけだったことに帰ってきてから七音は気が付いた。  カフェの居心地の良さだけでなく、アキとの会話も声もやはり心地良く、やたら話しやすかったことにすこぶる気分を良くしてソファに寝転ぶ。  混ぜたカレーが怖いとか、意味不明過ぎる。  ウトウトと気持ちの良い眠気に身を委ねながら、頬杖を突いて話すアキの横顔を瞼の裏に映しているといつの間にかソファでうたた寝をしてしまった。  電話の呼び出し音でハッと目が覚める。 「・・・はい」  彼女のからの着信にノロノロと応答した。 「あ、ナオ?今からそっち行って晩御飯作るからさ、一緒に食べよ。買い物してきた」  寝起きの耳にいきなりねじ込まれる声に七音は顔を顰めた。 「あー、悪い。今日は・・。俺、寝てたし」 「え?起きてるじゃない」 「いや、この電話で起こされたんだよ」 「んじゃ、ご飯作ったげる。照り焼きチキンでいいよね。あと十分くらいで着くから」 「でも俺、あんま腹減ってねえんだけど」  一方的にブツッと切れる電話の音が暴力的に鼓膜に突き刺さる。  中途半端な時間に起こされたせいか少し頭が痛んで、面倒臭い気持ちが湧きあがった。  亜花里(あかり)とは知り合いの知り合いとかで誘われた飲み会で出会った。もはやどの知り合いだったかも思い出せない程度の飲み会だ。不愛想な感じの七音だが、誘われれば気軽に行くし嫌ではない。その時もそんな感じで行って、それなりに楽しかったのは覚えている。  隣に座った女の子もそう悪くなかった。明るくて可愛らしくて、Seven Timbresの音楽が好きで特に七音の作る歌詞が好きだと、嬉しそうに話してくれた。連絡先を交換して、何回か会って、キスして、セックスして、概ね順調なお付き合い。  それが亜花里だ。  8か月過ぎて今、目の前に座っている彼女は照り焼きチキンを食べながら、とめどなく話し続けている。  つまんね、といつの頃からか思うようになり、今では亜花里の話はほとんどミュート状態だ。 「どうしたの?七音、照り焼きチキン好きじゃん」  そんな事、いつ言った?今日?それとも何か月も前?ついさっき腹減ってないって言ったことはガン無視なのに? 「今日は俺、もっと寝てたかったんだけど」 「うん」  それで?という風に亜花里が首をかしげてこちらを見た。 「だから、なんていうか、ほっといて欲しかったっていうか」 「でも、起きて電話に出たじゃん」 「まあ、そうだけど」  彼女には当然の権利、とでも言わんばかりだ。ほっといて欲しいとか、一人になりたい、とか言うのは、自分以外の人に向けられるべき言葉で彼女には適応されない、とでも思っているのだろうか。  あなたも含まれてるんですけど、と七音は思う。 「あのさ、俺の言葉、届いてる?」 「え?」 「だから、今日は来てほしくなかったって言ってんの」 「は?何言ってんの?せっかく来てご飯だって作ってあげたのに」 「作ってあげたって。作って欲しいとか俺、言った?一言も言ってないよね。亜花里が勝手に来て、勝手に作ったって記憶してんだけど」  亜花里の目にみるみる涙が盛り上がってくる。 「はあ?七音こそ、亜花里の話いつも聞いてくれないくせに。なに?勝手に作ってとか、ひどい。いっつも当たり前みたいな顔して食べてるじゃない」 「嫌なら別に作んなくてもいいよ」 「でも、作らなかったら機嫌悪くなったりするじゃん。だから、いつも七音の為に一生懸命作ってあげてるのに」 「いつ機嫌悪くなったよ。亜花里が飯作らなかったから機嫌が悪くなったわけじゃないだろ。嘘言うな」 「嘘?なに?亜花里が悪いの?勝手に作った亜花里が悪いの?」 「料理作るのが悪いって話じゃない。話、すり替えんな。俺の話をちゃんと理解しろよ」 「してるよ!七音の方がいっつも亜花里の話を聞いてないんじゃない」 心底この不毛なやりとりに嫌気が差し 「聞く価値ある?」 と思わず口に出してしまった。  亜花里がパクパクと口を動かすが言葉が出てこない。 「もういいっ、帰る」  亜花里はそれだけ言うと、泣きながら部屋を出て行ってしまった。  七音だけが悪いかのような言い方に気分が悪くなる。  こっちの都合もお構いなしにやって来て、雑音垂れ流したのはそっちだろーが。  せっかくいい気分で寝ていたのに、今日一日の何もかもが台無しになってしまい嫌な気分だ。照り焼きチキンを八つ当たり気味にゴミ箱に捨てると、買って来たカップラーメンのフィルムを乱暴に剥がし、お湯を注いだ。  その次の日の夜、亜花里は七音の家に上がり込むと、過去に七音が犯したであろう様々な罪をあげつらった。  あの時は、こんなことしてあげたのにどうだったとか、この時はこう言ったのに聞いていなかったとか、七音の記憶の中には残ってないことばかりがゴミ屑のように次から次へと吐き出されてくる。  ああ、全部、雑音だ。  不快な雑音がゴミのようにどんどんと床に積み上がっていくのが見える。  おいおい、部屋がゴミだらけになってるだろ。そんなことも気が付かないのかよ? 「あのさ、悪いんだけど、そろそろ俺の人生から消えてくんない?掃除したいんだけど」  七音はギターのチューニングを合わせながらそう言った。  亜花里はピタリと口を噤み、コマ送りのようにゆっくりと立ち上がると手にしたバッグで七音を思い切り殴って出て行った。    七音はごく普通の小学生だった。そこそこやんちゃ、成績は悪くはないが特別良くもない。たまに先生や母親に怒られはするが、校長室に呼び出される程ではない。  学校は大体楽しくて、クラスに仲の良い友達が何人もいるような、どこにでもいる小学生。  中学生になって、友人たちがこぞって音楽や楽器に興味を持ち始める頃、七音ももれなくギターを始めた。  そこで何かが七音の中で目覚めた。  少し練習しただけでも明らかに他の友達とは違う音が鳴る。頭の中で鳴るメロディーを音にすることや、考えていることを文字にすることが得意なことにもすぐに気がついた。  みんなができることだと思っていたが、そうではないらしい、ということも。  その頃は自分の思い通りになるものがある、ということが七音は単純に楽しかった。もちろん、友達と遊んだりすることも楽しいし、学校も嫌いではない。  だが、それ以外に自分の手で自在に構築できる世界がある、ということに七音は夢中になった。  もちろん、自分なりに一生懸命考えて作っているし、作るときは苦労もする。できないこともたくさんあるし、もっとうまくなりたい、とも思う。   だが、みんながどうやったらそんな風にできるんだ、と羨ましそうに訊いてくるのと同じに、なぜ、みんなにはできないんだ、と不思議に思っていた。  人がそれを〝才能〟と呼ぶことに気が付くまでは。  本当は、俺と同じぐらい頑張ればみんなもできるんだろう?と。 「七音は落ち着いてるよな」  高校生の頃にはそう言われることが多くなった。 「そうか?」 「うん。なんか、いつも余裕?って感じ」  ある程度の予測をたてて少し考えればわかることじゃないか?なぜ、他の人はそうしないのかの方がわからない。  いくつものシュミレーションと分析、プラス想像力。それで大抵はうまくいくし、駄目なら違う方法を考える。それでもダメなら切り捨てる。そうすれば合理的で効率的に事は進むし、時間を無駄にすることもない。  音楽に関してもそうだ。  分析して、どうすればうまくいくのか、どれが一番気持ちの良い響きになるのかのパターンを考え、シュミレーションしていく。自分の中にあるイメージとそれを実行するための技術は必要だが、技術は練習して身につけていくしかない。  自分に何ができて何ができないかがわかれば対処方法だってある。  中学・高校では友人とバンドを組んだりもしたが、あまりにも嚙み合わなくて、それを調整する時間がもったいなくなった。機材があれば全て一人で作ることができるということが分かってからは、七音は自分だけの音の世界にどんどんとのめり込んで行った。  大学生になって、一人で音楽を作っては配信したり、頼まれて曲を書いたりしているうちに今のバンドメンバーたちと知り合った。何度かメンバーの入れ替えをしながら、残った面子でライブハウスに出てたりしているうちに音楽会社の人に声をかけられたのだ。 『Seven Timbres(七つの音色)』というバンド名は七音の名前からつけられたものだ。  バンドの曲も歌詞もそのほとんどを七音が作っていたから当然、という空気だったから特に気にもしなかった。 「七音なんて、もうミュージシャンになるためにつけられた名前だな」  よくそう言われたが、子供の頃に聞いた名前の由来は確か〝その頃嵌まっていた漫画の主人公の名前〟だった。しかも戦隊ヒーロー物だったはずだ。  七音、ということは七番目、ということだ。  普通、戦隊ものは五人だろう、そう思って大人になってネットで調べてみたら、やはりヒーローは五人組だった。  七音という名前は主人公ではなく雑魚キャラの名前でさすがにそれには笑った。  何がミュージシャンになるためにつけられた名前だよ。主人公ですらねーし。 「いいよな、才能あるやつは」  そう言ってくる人間も多い。  苦労しまくってミュージシャンになった、というわけでないが、すべてが思い通りになる人生というわけでもない。才能、なんて簡単に言われるほど、次々に曲ができて歌詞が書けてというわけではないのも確かだ。  運よく好きなことで食っていくことができた、とは思う。  恵まれている、とも言われる。  確かにそうかもしれない。だが、たいして苦労もしてないくせに、と言われる筋合いもない。  自分にできることを精一杯やることに恵まれてるも何もない。  最大限、自分の能力を使い、持っている技術を駆使して何が悪い。それを効果的に利用するほうがいいに決まってるのは誰にだってわかることだ。  何をやっても悪く言う奴はどこにでもいる。つまらなくて、くだらないことばかりを話す奴ら。  そんなのは全部、聞く価値のない雑音だ。人の口からヘドロのように吐き出されては、耳を汚す。だからなるべくそういうものは耳に入れないようにしている。  だが、こういうことは思っていても口に出したりはしない。  言ったところで引かれるか、また嫌味を言われるだけだ、ということを七音は十分すぎるほどわかっているから。  亜花里がいなくなり一人になった部屋で七音はギターを抱えたままゴロリと床に寝転ぶと、そのまま積もった雑音を亜花里ごとゴミ箱に入れカチリ、と迷わず全消去した。           *   *   *   *   *        三週間ぶりにようやくナナシを訪れる時間ができ、細かい雨が霞のように煙った街を七音は速足で歩いていた。  今日は朝から雨が降っていて暗く寒いが、気分は良い。  ずっと頭の片隅から離れず気になって仕方がなかったのに、なかなか時間が取れなくてなんとなく不機嫌な三週間だった。  今日、若葉先生いるかな、と期待しながら傘を差して歩く人の間をすり抜けるようにしてカフェまで急ぐと、ドアを開ける。  カフェの中はほの暗いが暖かくて七音はほっと息をついた。 「こんにちは」 「いらっしゃいませ」  神島、と呼ばれていたウェイターが静かに迎えてくれる。 「今日は若葉先生、来てますか?」 「はい、いらしております。先日と同じ席にいらっしゃいますので、どうぞ」  覚えてもらえていたのかそのまますぐに奥に通されると、パソコンに向かっているアキの背中が見えた。 「先生、お疲れ様です」  その背中にそっと声をかけると、眼鏡をかけた顔を上げてアキが目尻に皺を寄せた。 「久遠さん、こんにちは。先生はやめて下さい。恥ずかしいです」  そう言って眼鏡を外しうーん、と猫が伸びをするように腕を前に伸ばしたアキは先日の雰囲気とは違い、大きめのカーキ色のプルオーバーに黒いカーゴパンツを履いていて、カジュアルな姿だ。  服装のせいか、こないだよりずいぶんと若く見える。今日は髪も撫でつけておらず、自然におろしているのがさらに若々しい雰囲気で七音はまたアキに見惚れてしまった。 「じゃあ、何て呼べば?」 「名字でも名前でもいいですよ。みんな大抵アキって呼びますけど」 「じゃあアキさんで」 「はい」 「俺のことは?」 「久遠さん?」 「いやいやおかしいでしょ。そこはナナオで」 「じゃあ、ナナオ君、で」 「うん」  神島がいつの間にか後ろに控えている。 「神島さん、今日はパウンドケーキはありますか?」 「はい、ございます」 「じゃあ、僕はパウンドケーキとウバをストレートで下さい」 「じゃあ俺も。それとアメリカンで」  かしこまりました、と神島が静かに去って行く。 「こないだ訊きたいことをちゃんと訊けてなかったんで」 「あはは、こないだは全然関係ない話をしちゃいましたもんね」 「すげー楽しかったけど」 「僕も。今日は先に聞きたいこと、聞いときましょうか」 「じゃあ、あの、打ち合わせで監督と話していた時のアキさんの言葉を少し歌詞に入れても大丈夫かなって」 「うん?どんな言葉?」 「うーん、ハッピーエンドじゃないけど光は差す、みたいなのはちょっと気になってる。あとは傷つけていても離せない、とか、甘えたり逃げたりで忙しい、とか?あ、まだ全然、何も書いてないんすけど」 「構いませんよ。別に何一つ特別な言葉使ってませんし」 「え?マジで?」  自分で訊いておきながら間の抜けた返事をする。  結構特別な言葉の感じがしたんだけど、と七音は少し肩透かしを食らった。  そんな七音の顔を見てアキが笑う。 「じゃあ、僕も七音君の書いた歌詞から小説に使いたい言葉があるんですけど、いいですか?」 「え?俺の?どんな言葉ですか?」 「カッシーニの間隙(かんげき)」 「え?それこそ、全然いいすよ。そんなの、誰でも使える言葉じゃん。固有名詞なんだから俺の許可とかいらないし」  もっと特別な言葉を選んで欲しかった気がして七音は落胆した。  俺自身が書いた言葉、そんなにつまんないのかな。 「そうですけど、この言葉を使った歌詞を書いたの七音君しか知らないから。この名称をチョイスするなんて、僕には結構な衝撃でしたけど?」  アキの優しい口調に自分が子供じみているような気がして今度は少し腹が立ってしまう。  微笑んでいたアキが急に真面目な顔になって少し肩を寄せると小声で言った。 「でも、このことは2人だけの秘密にしてください」 「え?このことって?」 「お互いの言葉を借りること、です。この先、一生、死ぬまで」  子供が大切な秘密を打ち明ける時のような言葉でアキが言う。 「は?一生?何でですか?」  七音も思わず身を寄せて訊いた。  死ぬまでって、随分と大袈裟な言い方だな、と七音も子供のようにドキドキと胸を高鳴らせた。 「だって、人の言葉を借りるのは重罪だと思うから」 「ジュウサイ」  重罪?  肌がゾクリと粟立つ。アキの声が耳の奥にまで流れ込み、体中に電流のように甘い痺れが走った。  あ、なんかやべえ気がする。  ゴクリと七音の喉が鳴ったその瞬間 「冗談です」 とアキがパッと身を引いて言った。 「え?」 「その日の会話は監督と話した内容ですから監督がOKなら大丈夫ですよ。秘密もなにも、あの時、僕たち以外の人もいましたし。七音君があんまり真剣に聞いてくれるもんだから、つい。すみません」 「あ・・」  喜びなのか落胆なのか羞恥心なのか、よくわからない感情に揺すぶられ、七音の顔が一瞬で熱くなった。  その時机の上で携帯が振動し、今度はアキがビクリと体を震わせる。 「失礼、ちょっと出ます」  すぐさま立ち上がると 「Halo(アロ)?」 と答え、プルオーバーのフードを被りながらドアを開けて庭に出て行った。  七音はアキの姿を動揺したまま目で追う。  外は雨で暗く寒いのか、アキの吐く息が白い。フードが邪魔で表情は見えないが言葉を発する度に白い煙が上がった。  まるでアキの言葉そのものが、体の中から抜け出して空へと昇っていくようだ。  外の暗がりで雨に煙る中、ポケットに手を突っ込んで立つ姿は頼りなく悲しそうで、うつむきながら何度も頷いている様子が余計にそう感じさせる。  アキはうつむいたままじっと電話の声に聞き入っていたが、手をポケットから出して口元をこするとそのまま目を押さえた。  さっきまでの緩く温かい空気とは違う緊張した気配が漂う様子に七音の胸がざわつき、立ち上がった。 「お待たせ致しました。冷めないうちにどうぞ」  神島の落ち着いた声にハッとして七音の尖った気分が一気に削がれ、椅子に腰を降ろす。 「あ、ありがとうございます。」  踏み込むな、と警告を受けた気がして意気消沈し、アキから目を逸らして熱いコーヒーに口をつけた。 「すみません、お待たせして」  外の冷たい空気を纏って戻ってきたアキは、寒さのせいか顔が蒼白だ。 「ああ、温かい。ありがたいな」  フードを脱ぎ、震える手でカップを口に運ぶアキのプルオーバーの肩口が濡れている。  肩の水滴がアキの涙のように見えて七音は思わず手を伸ばし、ジャージの袖で拭った。  ハッとアキが肩を引いたのを見て七音もビクリと手を引っ込める。 「あ、ごめん。急に触ったりして」 「あ、いや、僕こそすみません。七音君の服を濡らしてしまいました」  気遣うはずが逆に気遣われて恥ずかしくなり、急いで目の前のケーキを口に押し込んだ。複雑な香りと控えめな甘さの中にピリリと刺激的な味がする。 「ん?なんか辛い。いや、甘い?え?うまい」 「そうでしょ。ここのパウンドケーキ、おいしいんだよね。スパイスとかドライフルーツとかがたくさん入っていて」 「スパイスなんすか?よくわかんないけどなんか、食ったことない味する」  あはは、食ったことない味かあ、いいね、とアキが笑った。  七音はほっとして窓に映ったアキの笑い顔を何度も盗み見た。   小雨がまだ降る中、濡れた歩道をビチャビチャと足音を立てながら歩く。  冷たい雨と濡れた靴が気持ち悪い。指先も足先も痛いほど冷たいのに顔は火照っていて、吐く息が熱かった。  家に帰ってコートを脱ぐと、濡れた靴下とジーンズを体から引き剥がし、暗い部屋の中電気も点けずにそのままソファに身を投げ出す。 「何だよ、結局また何の話しをしに行ったんだか、よくわかんねー」  腕を上げて顔を覆うとそう呟いた。  電話、何だったんだろう。泣いてんのかと思った。  あんな様子になるほどの電話なのに受けなければならなかった相手とは一体、どんな人物なのだろうと気になって仕方がない。  さらには一緒にいた自分を放っておいてまで電話を取るアキにも少し腹が立ってしまう。  あの人が死ぬまで秘密、とか言うからこっちもなんか変な気分になっちゃったし。  アキの一言一言に激しく反応してしまう自分がいる。 『ジュウザイ』という言葉が苦く、そして甘く七音の耳に響いて離れない。  それは二人が共犯になった瞬間だったから? 「せっかく共犯者になったのに、邪魔しやがって」  見えない電話の相手に向かって七音は小さく毒づいた。          *   *   *   *   * 「えっ?映画音楽なんて俺らやったことないじゃん。てか音楽監修?できんの?そんなの」 「もうやるって言ってしまいましたので、どうかよろしくお願いします」  七音はバンドメンバーの2人に手を合わせて拝むように頭を下げた。  監督から主題歌だけでなく映画の音楽監修もしてみないか、と打診されていることを担当者から知らされ、七音はその場で引き受けた。事後報告もいいとこなのでひたすら謝り倒す。 「おいー、一人で勝手に決めるなよ」  バンドリーダーでギターとメインボーカル担当の花丘(はなおか)がぼやいた。 「監修自体は七音さんにきたオファーなんですよね?すごいじゃないですか。僕、サポートなら全然やります」 とドラムの玉名(たまな)は全面賛成だ。 「また、タマはっ。七音に甘いっ」  まあ、でも映画の音楽全部ってのはすげーな、と花丘もまんざらではない様子になりほっとする。 「そういえば、原作の作家先生、どうだったよ。会うの面倒臭がってたけど」  花丘がギターを肩にかけながら尋ねた。 「え?そうだっけ?」 「うん。原作者に会う意味わからん、ってずっと言ってただろ」 「それは全然覚えてねえけど、結果、良かった。思ってたよりちゃんとした大人って感じでさ。最初、嫌われてんのかと思ったけど話してみたらめちゃくちゃ話しやすい人なんだよ」  七音もベースを手に取り機嫌よく答えながら顔を上げると二人が七音を見ている。 「ん?なに?」 「え?なんか、七音の反応が意外で。あんまりお前、そういうの話さないから。なぁ?」  花丘が玉名に同意を求めるように見る。うんうん、と玉名が頷いた。 「そんなにおもしろい話したんですか?その先生と」 「え?そりゃ。だってアキ・・、若葉先生が原作の映画化なんだから、色々話し聞くだろ、普通」 「七音の普通はいつも誰にも聞かないっ、てことだと思うんだが」 「・・・まあ、いつもはそう、かな?」 「もう下の名前で呼ぶくらいなんですか?かなり気が合ったんですね」 「そうかぁ?。まあ三回も会えば・・」  えっ、とまた二人が手を止めて七音を見る。  しまった、と七音は冷汗をかいた。  別に隠すことでないが、もうしばらく独り占めしておきたかったような気がしてもったいない気分になる。 「もう三回も会ったのかよ。七音にしては結構な感じだと思うぞ」 「別に。若葉先生が心の広い人なんじゃねーの」 「でたよ、ナチュラルボーン人たらし」 「何だ、それ」 「七音のその見た目無愛想なのに意外と誰とでもニュートラルな感じのギャップがさぁ、女心をくすぐるんだよなあ。本人は気づいてないところがまた罪を作っちゃうんでしょ」 「罪って・・・」  アキの発した『ジュウザイ』を思い出して喉がヒクリと反応する。  玉名がドンッ、とキックしたバスドラの音が今日はやたらと腹に響いた。  

ともだちにシェアしよう!