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 音楽監修を引き受けたことでアキに会う真っ当な口実ができたような気がして、打ち合わせに向かう足取りもいつもよりも軽い。  会議室に入るとイラストレーターのユウが来ており、アキも来ているのかと期待値が上がった。 「あ、お疲れ様です」 「お疲れ様でーす」  ユウがニコリと笑って手を振る。 「お邪魔してまーす」  そう言うと、部屋の隅でタブレットに絵を描き始める。 「あ、七音(ななお)君ごめんね。ユウ君に映画に関連してイラストを描いてもらってるんだけど、七音君を描いて欲しいってリクエストがあってさ。事務所には了解取ってあるんだけど、いいかな?」 「え?俺?俺は別にいいですけど。俺なんか描いてどうするんですか?」 「いい?ありがと。まだはっきり決まってないんだけど特典付きとかしようかって。まあ、それは追々。んじゃ始めよっか」 「はい」  アキが来ないことが確定し、思っていたよりがっかりしている自分を悟られないよう、七音はうつむき加減で頷いた。   「あの、描いた絵とか見せてもらえたりしますか?」  打ち合わせが終わり七音は思い切ってユウに話しかけた。 「うん、いいよ、まだ描きかけでよければ」 「あ、はい、全然」  正直、絵はどうでも良かった。ユウにアキのことを聞くきっかけが欲しかっただけだ。 「ユウさん、そんなにアキ、若葉(わかば)先生のファンだったんすか?なんか、自分から売り込みに行ったって、監督から聞きましたけど」 「うん、そうそう。あ、敬語なしでいい?僕、そういのあんまできなくて」 「あ、うん。俺も」 「えへへ、良かった。あ、じゃあさどっかでお茶しよーよ」 「うん、いいよ」  人懐こいユウに引っ張られ、事務所近くのカフェに二人で落ち着くと早速タブレットを見せてもらう。 「へぇー、すげ。絵が描けるってすげーね。これ、俺?かっこいーな」  話しかける為の口実だったとはいえ、ユウの描いた絵を見せてもらうとその凄さに素直に感心した。まだ荒い線で描かれたものだが、美しい絵だ。  いくつも描かれた七音の横顔は、前髪のせいで顔が半分隠れているような感じだがどれも表情が違っていて、ずいぶんとカッコ良く見える。 「あはは、七音君おもしろい。七音君のほうがよっぽどすごいのに」 「え?すごい?なんで?」 「なんでって、自覚無いわけ?曲作って、歌詞書いて、歌って、楽器弾いて、ライブハウス満員にして、ってさ。どんだけだよ。すご過ぎなんですけどー」 「ああ、まあ。ありがと。いや、でもユウ君もすごいでしょ。俺より2個下?でイラストで食ってくなんてさ」 「僕はぜーんぜん。で、なんだっけ。あ、そうそう、アキさんに売り込みしたって話ね。僕ね、子供の頃、アキさんの本を読んでほんとに感動してさ。すごく勇気をもらったんだよね」 「え?子供の頃?そんな前から読んでたの?」 「うん。あー、今のようなラノベの本じゃないよ。アキさんは、もっと前に児童文学書いてたんだー。アキさんが二十代の頃」 「へぇ、そうなんだ。知らなかった。ん?でも監督がアキさんはサラリーマンしてたって」 「うん、そう。二十代でデビューしたんだけどその時はあまりうまくいかなかったみたいで、一回書くのをやめて会社員になったの。で、五年前だっけ?にまた書き始めて、今度はラノベで再デビューしたんだー。それたまたま見つけて、もう僕、これは運命だっ、って思って。その出版社に絵を持って乗り込んだってわけ」 「すげえな」 「へへ、そうかな。でも、アキさんはほんとに僕の神様みたいな人だったから。僕、子供の頃、病気で長い間入院してたことがあってさ、その時、アキさんの本読んでほんとに救われたんだー。絵を描き始めたのもアキさんの本がきっかけ」  心配になるほど警戒心無く、ツルツルと語るユウの話に七音は耳を傾けた。  「え?じゃあ、アキさんはまた小説書くためにサラリーマン辞めたの?」 「ううん、サラリーマンを辞めたのは別の理由」 「そうなんだ」 「うん。カッコいいよね、アキさん。なんかさ、大人の人って感じで。優しくって、でもカワイくてさ。色気半端ないし」  ユウのぽおっとなった顔を見て、七音はあれ?と首を傾げた。 「・・ああ。そう、だね。あの、もしかして、ユウ君ってアキさんの・・」 「うん?」 「恋人?」  ユウは一瞬驚いたように目を見開いた。 「あ?ごめん、訊いちゃマズい・・」  慌てる七音の顔をにんまりと見て 「まさかぁ。アキさんは僕の神様だよ。そういうんじゃない存在の人。僕、彼氏いるし」 とユウが答えた。 「あ、そうなんだ」 「気になる?」 「え?いやいやいや、そんなんじゃなくて」 「なんで?」 「ん?なんで?とは?」 「アキさんあんなにカッコいいのに気になっちゃたりしない?僕、会うたびにドキドキしちゃうけどな」  気にはなっている。今もこうしてユウに色々聞こうとしているのだから。 「ああ、まあ、そうね。え、そんな感じで彼氏、怒んないの?」 「うん。アキさんに会う前からつきあってて、ずっと僕の神様だってこと知ってるもん。彼氏もアキさんのこと、好きだよ」  七音とユウとはずいぶんと好きの概念が違うようだ。 「へー、あー、そう。ユウ君は前から男の人が好きなの?」 「うーん、そうだね。初恋は男の子だったから、そうなのかもね。女の子もカワイイから嫌いじゃないけど。ちなみにその初恋相手が今の彼氏」  男か女かはあまり関係ないらしい。 「え?初恋実らしたってこと?初恋って、何歳の時?」 「うーんと、八歳?」 「はっさい!」 「うん。子供の頃、入院してたって言ってたでしょ?八歳の時なんだけど、その時、美青(みお)、あ、僕の彼氏ね、も入院してたんだよね。美青は骨折だったから二週間くらいだったけど、その時、美青の事カッコいいなってすぐ好きになっちゃってー。十代になってから再会して、追っかけて、そんで付き合ってもらって今に至る」 「噓だろ?すげーな」 「だって、美青は僕の運命の人だ、って思ったから。そういう人に会えたら離しちゃだめかなって」 「マジで?ユウ君、見かけによらず、すごいな。アキさんのことにしても。よっぽど自分に自信あんだな」 「ええー、何言ってんの、逆だよ逆。自信がないから必死になってなりふり構わずいかないとダメなんじゃん。七音君みたいに自分に自信のある人はそんなことしなくても向こうから寄ってくるんだろうけど、僕みたいな奴はそんぐらいしないと気付いてももらえないからさ」 「え?あ、別に俺もそんな自信あるってわけじゃないんだけど」 「そうなの?」 「そんな自信家に見えるの?俺」 「うーん、自信家って感じじゃないけど、まあ、割となんでもうまくこなせそうな余裕な感じはするよね」 「あー、そっか」 「そうなの?」 「まあ、そんな感じのことはよく言われるけど」 「げ、なんかムカつく」 「え?なんで」 「え?だってさー、そんなに背も高くってカッコよくって才能あって、何でもできるとか、スパダリ過ぎんじゃん」 「スパダリ?」 「そ、スーパーダーリン。完璧な彼氏」 「はぁ?完璧な彼氏ってなんだよ。そんな奴、この世にいんの?」 「美青は僕のスパダリだよー」 「え?ああ、そうなんだ」  ユウの何もかもが衝撃的すぎて全くついていけない。監督がユウは変わった子だ、と言った意味が今になってわかった。 「七音君は?彼氏いないの?」 「え?あ?いや、俺は女の子が好きです、けど」 「あれ?そう?アキさんのことすごく知りたがったから、てっきりそうかと思った」  まあ、知りたがっているのは事実だ、と少し動揺する。これではバレバレだ。 「ごめん、なんか調子乗って聞きすぎた」 「ううん、僕は別にいいけど。いくらでもアキさんについて話せるけどさー。でも、アキさんに直接訊けばいいんじゃない?別にアキさん、何でも話してくれると思うよ」 「あー、まあ、そうなんだけど」  七音は最後にもう一つ訊こうかどうしようか迷って言葉を濁した。 「ん?何?」 「あのー、その、アキさんも男が好きな人?」 「うん。若い時のことはわかんないけど、前は彼氏さんがいた」 「ああ、そう・・なんだ」  彼氏がいた、という事実に思いのほか傷ついている自分に混乱して七音は黙り込む。 「でも、今はフリーだよ」 「う・・ん」  その言葉にどう返していいかわからず、しばらくユウと話をしてからモヤモヤとした気持ちのまま家に帰った。  あれ?俺、落ち込んでんのか?  自分がなぜこんなにも落ち込んでいるのかよくわからない。  七音は今日、インプットした情報の処理が全くできずにいた。  まあ、そうだよな、四十歳っていったっけ。  付き合ったことがないって方がおかしいだろ、ってか普通結婚して子供がいる歳だもんな。 『アキさんのこと聞きたがるからてっきりそうかと思った』と言われて確かに動揺した。  異性としか付き合ったことがないのだから自分は同性愛者ではないはずだ。と言うか、そんなこと考えたこともなかった。  でも、今までこんなに誰かの事を知りたいって思ったこと、ないかもしれない・・。 『気になったりしない?会うたびドキドキするけど』  そう言われてその通りだと思ったのだ。気になってわざわざユウから話を聞き出そうとした。アキに会いたくて、話をしたくてカフェに何度も行っているのも事実だ。  そんなことあるんだろうか?一回りも年上の男の人を好きになってしまうことなんて?  いくら考えて分析してみてもいつものようには答えが出なくてもどかしい。だからといていつものように簡単に切り捨てることもできない。  数日間グズグズと思考を拗らせたまま、結局我慢できずに、七音はまたナナシへと向かってしまった。 「いらっしゃいませ」 「神島(かしま)さん、こんにちは。今日はアキさんは?」 「今日はまだお見えになっておりません」  バッサリとそう言われ、七音の全身から力が抜けた。 「へ?あ?そうすか・・・」  いつでもいる訳ではない、という当たり前のことに気がつかなかった自分のバカさ加減に衝撃を受ける。  俺ってこんな失敗することあったっけ? 「そろそろお見えになると思いますが、中でお待ちになりますか?」 「あー、あ、そう・・ですね。そうします」 「はい、ではどうぞ」  神島に案内され、いつもの席に腰を下ろした。 「アメリカン下さい」 「かしこまりました」  そういえば、アキがここはデザートもいける、と言っていたことを思い出し 「あ、あの」 と立ち去りかけた神島に声をかける。 「はい、何か」 「アキさん、若葉先生は甘いものが好きなんですか?」 「ああ、そうですね。うちのgateau(ガトー)を気に入って頂いております」 「ガトーすか」 「それと紅茶がお好きなようです」  そういえば紅茶だということは分かっていたが、いつも聞いたことのない名前のものを注文していることに初めて気が付いた。 「あー、あれって紅茶の名前なんすね」 「はい。よろしければメニューを置いておきましょうか?」 「あ、じゃあ、お願いします」  メニューを開けて紅茶のページを覗いてみると、そこにはたくさんの名前が並んでいた。  ダージリン、アッサム、セイロン、ウバ、ディンブラ、ヌワラエリヤ、アールグレイ 紅茶ってこんな種類あんの?と驚いた。知らない名前も多い。  作家って、コーヒー飲んで徹夜で執筆ってイメージだったけど、家でどんな感じで書いてるんだろう?  徹夜して書いて、昼頃あの硬そうな髪に寝ぐせをつけながら起きてきたりするんだろうか、と想像して一人でニヤニヤする。 「何かいいことでもあったんですか?」  突然後ろからアキの声が聞こえて、七音は飛び上がった。 「アキさんっ」 「なんだか嬉しそうですね。えらいご機嫌やん」  心臓がバクバクと激しく打つのを感じながら急いでメニューを閉じる。 「あー、いや、別にっ」  七音のコーヒーが運ばれてきた。 「神島さん、僕、セイロン濃いめで。ミルク多めに入れたもの下さい」 「かしこまりました」  アキがメニューも見ずにオーダーする。 「アキさんって、関西出身なんすか?」 「うん、実家は今も大阪にあります。もう両親は他界しましたけどね。僕は大学でこっちに出て来たんです」 「へえ、就職もこっちですか?サラリーマンやってたって監督から聞きました」 「うん、そう。しがない会社員やってましたよ。スーツ着て、ネクタイ締めて、満員電車に乗って」  それはそれでちょっと見てみたい。 「七音君、就職は・・。七音君ていくつ?」 「二十八」 「若い」 「もっと老けて見えるって?」 「いえ、そういう意味じゃなくて。四十歳のおじさんにははるか昔のことだな、と思ってしまいました」 「お待たせ致しました」  大きいカップにたっぷりと入ったミルクティーを神島が運んで来た。 「ありがとうございます」 「アキさん、紅茶党なんすね」 「うん、そう」  熱そうにカップに口をつける。 「苦いのがあまり得意ではないんです」 「で、甘いもの好き」 「はい」  目尻に皺を寄せて笑う。苦いのが嫌いだなんて子供みたい、と七音も笑う。 「ああ、やっと目が覚めてきました」  アキが前髪を掻き上げた。 「もしかして徹夜明け?」 「いえ、四時頃まで。書き始めるとつい、ね。会社員時代だったら考えられないですね、こんな生活」 「また小説書くために会社員辞めたんすか?昔は児童文学、書いてたってユウ君から聞いたけど」  アキが椅子の背もたれに体を預けて足を投げ出すと 「あれ?もうリサーチ済み?」 と笑って七音を見た。 「あ、いや、そんな。こないだ、監督の事務所でユウ君にあって、ちょっと話しただけで」  慌てて答える七音に、あはは、別にいいよ、と笑って腹の上で手を組む。  ざっくりと編んだローゲージの淡いグレーのセーターと細身の黒いパンツを着たアキは、今日はずいぶんとリラックスして見えた。 「うん、そう。まだ大学生だった時にね、一度、児童書の出版社の賞をとってデビューしたことがあるんです」 「あ、ユウ君がその本に救ってもらったって言ってた」 「ふふ、僕の過去の栄光を知っている唯一のファンだね、彼は」 「アキさんのこと神様だって」 「大げさだなぁ。その後、夢と希望に溢れて書いていたんですけど、全然だめでね。すぐに鼻を折られました。それでも五年ぐらい頑張ったんだけど、ついに諦めて就職したんです。でも、会社員わりと向いてたみたいで。それなりにやりがいあったし、何より安定していたし、結構、充実してましたけどね」 「え、でもまた今、小説書いてるって、やっぱり書く才能があったってことじゃないすか」 「うーん、どうかな。才能っていうより身の程を知ったってことだと思う」 「身の程・・。でも安定した会社員辞めてまで、また書くのすげー大変だと思うけど」 「ああ、会社員を辞めたのは別の理由です」  そういえばユウ君がそんなこと言ってたっけ、とぼんやりと思い出す。 「会社員を辞めたのは、スペインに移住することにしたことがあったからですよ」 「え?スペインっすか?すげえ。なんで?」 「僕、昔、スペイン人男性とつきあっていてね。彼にスペインに一緒に行かないかって言われてついて行ったんです。それが会社を辞めた理由」  七音の心臓がドクッと音を立てて跳ねた。   ああ、だから。  この前、電話で話していたのはスペイン語だったのか、と納得する。 「・・・、あ、じゃあこないだの電話、もしかして彼氏さん?」 「ううん、今はもう一緒にいない。彼は四年前に突然いなくなってしまいました」 「え?いなくなったって?別れちゃったの?」 「いえ、亡くなりました」 「あ・・れ?すみません」  七音は息が止まりそうになりながら咄嗟に謝った。 「ええ?なんで七音君が謝るんですか?」 「あ、なんか、聞いちゃいけなかったかな、って」 「もう四年も前のことだし別に隠してないので大丈夫ですよ」  よっ、とアキが背もたれから体を起こす。 「何か、甘いもの食べたいな」  そう言ってフワリと立ち上がった。 「七音君は?食べる?」 「あ、うん」 「今日のおススメ、神島さんに聞いてきます」  七音は痛いくらいにドクドクと心臓が打つのをうつむいて聞いていた。  油断していた。まさか突然こんな爆弾投下されるなんて。  亡くなった・・?なんで?  衝撃が大きすぎて鼓動が収まらない。 「今日はね、ナッツのタルトがあるらしいんですけど、それにしませんか?」  アキが戻ってきて隣に座る。 「あ、うん」  じゃあ二つ、と神島を見上げてオーダーすると 「七音君は甘いもの好きですか?」 と、また背もたれにもたれて足を組みながらアキが訊いた。 「あ、どうだろ。嫌いじゃないけど、そんなに食べないかも」 「ナッツは?あんまり食べない?」 「ナッツは・・全然食べないす」  アキの優しい話し方が耳に響く。  ああ、動揺してるの完全にバレてんな。 「スペインの市場にさ、殻付きのクルミが売ってて」 「はあ」 「で、僕、殻付きのクルミなんて見たことなかったら試しに食べさせて、ってお店のおじさんに言ったんですよ。すんごい太ったおじさんで、腕も指もぶっとくて」 「うん」  いきなり始まったスペインの話に、ソワソワとしながらも聞き入る。 「そしたら、その人、良いよって言って、二つクルミを手に取って、手のひらでグッて握って殻を握り潰したんですよ」 「え?クルミの殻を?素手で?」 「そうなんです。で、ほら、ってそのまんま手の平突き出してきて。びっくりし過ぎちゃって何にも言えなくて。バラバラに潰れた殻の中から一生懸命、中身探して食べたんですけど、その時、この人に殴られたら僕、一発で死ぬなぁ、って思っちゃって。仕方なく少しだけ買って家に帰って食べようと思っても割れないんですよ、殻。家には金槌がなかったからコップの底とか、ベランダのレンガとか使って叩いてみたんだけど割れなくて」 「で、どうしたんですか」 「結局、どうもしなかったんですけどね」 「ん?」 「え?」  七音はアキと数秒見つめ合うと、堪え切れずブフッと吹き出した。 「何の話っすか」 「えー?でもさ、すごいでかい手だったんだよ。ほんと、手の平とかめちゃくちゃ分厚くって、指もぶっとくてさあ。漫画みたいだったなあ。手の平のクルミの殻、バラッバラなの。しかも生のクルミってあんまりおいしくないんですよ」  組んだ足をブラブラさせながらぼやくアキを見ながら、七音は落ち込んだ気分がぶっ飛ぶほどに笑った。 「あの、連絡先、交換してもらっていいすか?」  帰り際、七音はアキに尋ねた。 「はい、もちろん」 「もっとアキさんの話、聞きたい」 「こんなしょうもない話でよければいつでも」 「そんなことない。アキさんと話しするの・・・なんか嵌まる」  どんなにアキの話を聞きたくて仕方がないかを伝えたいのに、どう言葉にしていいかわからない。 「僕も七音君と話しするの、すごく楽しいです」 「は?」  その瞬間、七音の鼓膜が震えて世界が止まり、アキの声しか聞こえなくなった。 「じゃあ、またね」  世界は止まったまま、アキだけが七音の視界から遠ざかって行く。  俺、この人ともっと一緒にいたい。  その日、確かな答えが大きな衝撃で七音の中に落ちてきた。          *   *   *   *   * 「あー、腹減った。飯、食いに行かねぇ?」  バンドの練習を終え、花丘(はなおか)の誘いに頷くとスタジオを出て玉名(たまな)と三人でチェーンのカレーレストランに行くことになった。 『もう後戻りできないんですよ?』というアキの言葉とギョッとした顔を思い出しながら、運ばれてきたカレーを混ぜていると 「七音、最近なんか機嫌良いな」 と花丘がニヤニヤとしながら七音を見た。 「そうかな。いや、別に何もないけど」 「でも今日、調子良かったですよね、七音さん。スタジオでもすごいノリ良かった」 と玉名も頷いた。 「え?そう?」 「タマは敏感だからな。隠し事できないよ」 「え?どういう意味だよ」 「新しい彼女ができた、そうだろ?」 「え?できてねえよ」  花丘の言葉に七音は心底驚いて慌てて否定した。 「聞いたぞー、こないだまで付き合ってた子と別れたんだって?えらいひどいこと言って捨てたらしいじゃん」 「え?嘘だよ。別れたのはほんとだけど、捨てたって、なに?誰から聞いたの」 「え?バンさんとこのメンバーの子がさ、その元カノちゃんの知り合いだから。ってかその繋がりで飲み会に行ったんじゃなかったっけ?それで会ったんだろ?」 「そうだったっけ?全然覚えてねえけど」 「えー、別れちゃったんですか?結構うまくいってると思ったのに」 「おー、俺もそう思ってた。急だったからびっくりしたよ。でもさ、あれだろ?原因はあの作家先生だろ。若葉(わかば)さんの話し聞いた時からおかしいと思ってたんだよな。お前、その人とつきあってんじゃねえの?」  グイグイと核心に迫って来る花丘に冷汗が出る。敏感なのは玉名ではなく花丘の方だ。 「い、いやちょっと待って、まだっ。まだ付き合ってないし」  ついそう言ってしまった。 「なんだ、まだか」 「あ、でも、まだってことは、そうなりそうってことですよね。付き合う前って楽しいもんな。あー、いいなー」  玉名が無邪気に言う。  アキといると確かに楽しい。だが付き合う前と言うより 「どっちかっつーと俺、全然相手にされてねー感じなんだよな」 と全て混ぜてしまったカレーに視線を落として七音は呟いた。 「えへっ?珍し、七音がそんなこと言うなんて。追っかけられてるのしか見たことねーよ」 「だと良かったけど」  アキさんが俺を追っかけてる気配はないよな、とため息をつく。 「七音さんにそんなこと言わせるなんて、すごいですね。どんな人なんですか、若葉先生って」 「どんな人?うーん、話ししてると心地良くてずっと話してたくなるような人」 「へー、かわいい系?綺麗系?」 「えーと、綺麗な顔してるけど笑うとかわいい」  目尻に皺を寄せて笑うアキの横顔を思い浮かべた。 「へー、でも年上って言ってなかった?」 「うん」 「年上かあ。いいですね。いくつぐらいの人ですか?」 「四十歳」  えっ?と二人が声を揃えた。 「すげー年上じゃん」 「うん」 「お前、それ、大丈夫なの?」 「大丈夫って何が?」 「いや、何かわからんけど。不倫とかじゃないよな?」 「まさか」 「はあ、まあ、ならいいんだけど。それより、その捨てた元カノちゃん、気をつけろよ」 「え?何が。ってか捨ててねえって」 「あー、さっきも言ったけど、七音に捨てられたって言い回ってるらしいからさ。まあ、大丈夫だと思うけど映画の音楽とか良い仕事決まったとこだし、一応な」 「あー、うん」  そう言いながらも、ああ、面倒くせえ、そういうの、とまた思う。  バッグで殴って出て行った後、亜花里(あかり)から何度か電話があった。一度だけ出てみたら罵詈雑言の嵐で、すぐさまブロックしたその後のことは知らない。 「どうせすぐ新しい彼氏作って忘れんだろ」  あれだけ雑音を垂れ流しておいてまだ足りないのかよ、と七音はうんざりした気分でそう呟いた。  昨日の花丘の話しを少し引きずってしまい、なんとなく気分が晴れず亜花里に関しては、もはや面倒臭いという言葉しか出てこない。  何でこっちが気をつけなきゃなんねーんだよ。 「アキさんと話せたらなー」  アキは先々週から大阪に帰っていて、いつこっちに戻るのかは聞いていない。  いつ帰って来るんだろ。訊いてみようか?  いやいや、何もないのに聞いたら引かれるかも、と携帯を手に取ってはまた手放す。  映画音楽にもそろそろ本気で取り掛からなくてはならないのに未だこうしてグダグダととりとめもないことに頭を悩ませ、甘い余韻に浸り怠けている。  どうせなら、ナナシで仕事しようかな。  アキさんが帰ってきているかもしれないし、と微かな期待をしつつ、ナナシに向かった。 「いらっしゃいませ」  いつもと変わらず、神島(かしま)が迎えてくれる。 「ちわっす」  そのまま奥に案内されたがアキの姿はやはりない。まだ帰って来てないか、と予想通り とは言え落胆しながらいつもの席に座ってアメリカンを頼むと、七音はヘッドホンで周り の音を遮断してパソコンに向かった。  最初にアキに会った時に書いたメモを見て、あの時の空気感や読んだ小説の情景を頭の中に映し出す。  言葉をパソコンに書き連ねていきながら、七音は自分の世界へと潜り込んだ。一つ一つ丁寧に思い返し、あの時何が自分の心に引っかかっていたのかを掴めるまで、何度も繰り返し再生した。  そのうち自分がどこにいるのかを忘れ、どのくらい時間がたったのかもわからなくなる。  散々探り尽くし、もう何も言葉が出て来なくなって、ようやく息を大きく吸い込むとパソコンから顔を上げた。  いつの間にか窓の外は暗くなっている。  人の気配を肩先に感じて横を見ると、アキが座っていた。  椅子の背もたれに寄りかかって静かに本を読んでいるその横顔に一瞬、幻かと疑い七音は瞬きをして慌ててヘッドホンを外した。 「アキさん?」 「七音君、お疲れ様」  アキはパタリ、と本を閉じて顔を上げた。 「いつの間に。声かけてくれれば良かったのに」 「集中してる七音君の隣で本読むの、気持ち良かったからもったいなくて」  うわ、俺、この人のことすげー好きになってる。 「会いたかった」  思わず言葉が零れた。 「はは、こんなおっさんに?」 「うん」 「僕、コーヒーゼリー食べるけど、七音君も食べませんか?」 「食べる」  よし、というとアキが立ち上がってカウンターに向かう。  七音は書き連ねた言葉を保存してパソコンを閉じた。 「七音君、アメリカンで良かったですか?」 「あ、うん」  いつものアキが隣にいる。今日、ここに来た自分を褒めてやりたい、と七音のテンションはマックスだ。 「お待たせ致しました」  神島が湯気の立つ新しいアメリカンと、赤みのある橙色の液体に葉っぱが揺らめいているガラスのポットを置いた。 そしてコーヒーゼリーが二つ。  大きなグラスに四角く切ったコーヒーゼリーが入っていて、上にはバニラアイスがのっている。 「ありがとうございます」  黒に近い濃い褐色のゼリーを口に入れるとひんやりとして甘く、そしてほろ苦い。ブランデーの香りが鼻を抜け、疲れた脳が一気に緩む。 「うまっ。なんだこれ?ブランデー?」 「うん。七音君はほんとにいつも感動してくれるから嬉しいよ」  アキもおいしそうにゼリーとアイスを口に入れている。 「いつ帰ってきたんすか?」 「昨日の夜遅く。なんか疲れちゃって今日は家でゴロゴロしてたんですけど、これ食べたくなって」  そっか。帰ってきたことぐらい、教えて欲しかったな。  まあ、俺にわざわざ言うほどではないってことか、と少し自虐的な気分になる。  やっぱ俺、相手にされてない。 「七音君もここのカフェ気に入りました?」 「うん。今日、すげー集中できたし居心地いい」 「それは良かった」 「どうやってここ見つけたんすか?」 「知り合いが教えてくれました。名前もナナシって、おもしろいな、と思って」 「へえ」 「名前のない喫茶店って言う意味でナナシってつけたらしいです」 「名前が無いからナナシかあ」  そう言えば若葉アキって本名なのかな?  あれ?  俺、アキさんの本名すら知らないとか、あり得る?  七音の頭が急に不安でいっぱいになった。 「ねえ、若葉アキって本名?」 「え?ううん、違うよ。若葉アキはペンネーム」 「え?そうなの?本当の名前は?」  んー?本当の名前ねー、とアキがなぜか躊躇(ちゅうちょ)した。 「何か教えたくない理由とかあるんすか?」 「別にそういう訳じゃないんですけど・・」  きまずそうにこっそりと言おうとするアキの口元に耳を寄せる。 「本当の名前は・・・若葉アギトって言うんです」 「アギトッ!?すっげ、それ、仮面ラ・・」  七音は思わずのけ反った。 「嘘です」  のけ反ったまま目を見開いてアキを見る。 「そんなわけないでしょ」 「へ?」 「僕が産まれた時、まだそのタイプはいません」 「なんだよっ」 と思わず突っ込んだ七音の声にアキが子供のように笑い出した。 「なんなんだよ、その嘘」  七音もつられて笑い出す。 「本名です」 「アキってカタカナなのも?」 「はい」 「うわ、カッコいい」 「そうかな。子供の頃、からかわれて嫌でしたけど。七音君のほうがカッコいいですよ。今はやりのキラキラネーム?」 「違うよ」  七音の名前の由来を雑魚キャラだったことまで話すと、七音君もいい話持っているじゃない、とアキは楽しそうに笑った。  

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