4 / 10

4

 ナナシで神島(かしま)に迎えられ、いつものように奥に向かった七音(ななお)の足が止まった。  今日はいつもと違い、アキの隣にただ者ではない雰囲気の先客がいた。  長髪の黒髪を後ろで一つにまとめた欧米系の大柄な男がアキの隣に座っている。離れていてもわかる程の分厚い肩と逞しい腕。やたらと距離が近く、肩を寄せて笑い合う姿が親密で近寄りがたい。アキが座っている椅子の背もたれに腕を乗せてアキに話しかけていて、まくったシャツの腕にはタトゥーが入っているのが見えた。  誰だよっ、勘弁しろよ。  七音の浮かれた気持ちがあっという間に、沈む。まだ認識したばかりのアキへの気持ちはうまくコントロールできず、すぐに墜落してしまった。  警戒しながらゆっくりと二人に近づいて 「お疲れ様です」 と声をかけアキを挟んで男の反対側に座る。 「あ、七音君、こんにちは」  七音は隣の男にも曖昧に頭を下げた。 「こちら、たまに行くスペインバルのオーナーしている人でね。アレックス、あ、アレハンドロさん。こちらはミュージシャンの久遠(くとお)七音さん」 「!Hola(オラ) Nanao(ナナオ)!」  陽気に挨拶され 「どうも」 と不愛想に返す。 「たまにって、アキがお店に全然来ないから、心配になってこっちから来てやってんだろ。なんだ、そういうことかよ」 「そういうことって?」 「新しいボーイフレンド、隠してたな。!Muy(ムイ) Guapo(グワッポ)!(すげーカッコイイじゃん!)」 と大袈裟に言って七音に笑顔を向ける。 「隠してないし、七音君はボーイフレンドでもないよ」  アキにきっぱりと否定されて密かに傷ついた後、新しいボーイフレンド、と言うことは前のボーイフレンドを知っている、とでも言いたいのかよ、と卑屈になる。 「そうなの?もったいない」 「もったいない、の使い方間違ってるよ」 「そんなことないだろ。アキはもっと人生エンジョイしたほうがいい」 「十分楽しいよ。大きなお世話」 「!Nooo(ノー) ! !Mas(マス) mas(マス)!(いーや、もっと、もっと)」  アレックスはアキの肩に顎を埋めるように顔を寄せ、背もたれに乗せていた手で肩を抱いた。七音がその様子を睨んでいるのに気が付き 「じゃあ、今度は二人でお店に来なよ」 と七音にウインクをしてくる。 「それにしてもアキは相変わらず無防備な首だなー」  肩にかけていた手で今度はうなじを掴んだ。 「ちょっとっ!」  七音は叫んで腰を浮かせた。 「Hey(エイ) hey(エイ) Tranquilo(トランキーロ) Carino(カリーニョ)(落ち着けよ、かわいこちゃん)」  アレックスはアキの肩先にチュウ、とキスをすると素早く立ち上がり 「今度、絶対二人で来いよ」  Adios(アディオス)と手を振って去って行った。 「なんだ、あれっ」  立ち上がって色男を目で追うと、向こうで今度は神島の腰に手を回しながら笑っているのが見えた。  アキは知らん顔で雑誌をめくっている。  七音は座って 「なんだ、あれ」 と鼻息荒くもう一度言った。 「あの人、ハーフスパニッシュだけど中身は完全にスペイン人だから気にしないで下さい」 「いやいやいや、おかしいでしょ。なんすか、距離感なんかバグッてましたよ」 「まあ、日本人からしたらやたら近いですよね」 「トランキーロとか言って、煽りかよ」 「ん?あれ?七音君、スペイン語わかるの?」 「え?あ、それ決め台詞のプロレスラーがいてさ。焦んなよ、みたいな意味だよね?」  ははっ、とアキが笑って七音を見た。 「プロレス?そうなんだ。ああ、まあ、そうですね。でもまあ、落ち着いて、と言う意味で使ったかな、さっきは。別に煽ってるわけじゃありませんよ」 「そうなんすか。アキさん、変な人と知り合いなんすね」  なかなか怒りが収まらない。 「昔勤めていた会社の近くに彼のバルがあったんです。で、僕の昔のパートナーの雇い主」 「え?」 「前に話したでしょ?前につき合っていたスペイン人。あの人のバルで働いてたんですよ。そこで知り合ったんです」 「あ、ああ、そっか・・」  またしてもいきなり爆撃投下されて撃沈する。 「彼が亡くなってからはお店に行ってなくて。連絡もスルーしがちだから時々心配して来てくれるんですけど」 「ふーん、そうなんだ。優しいね」  それ、狙われてるんじゃないのか?と七音は警戒フラグを立てた。 「いちいち騒がしくて」 「ってか暑っ苦しい」 「そうなんです。声も大きいし、動くたびに音がうるさいし」 「ああ、なんかわかる。でかい犬みたいに思いっきりじゃれてたもんね、アキさんに」 「でかい犬か、たしかに」 とアキが笑った。 「ああいう騒々しい人苦手なんですけどね」 「苦手?そうなふうには見えなかったけど?」  あんなにくっついて楽しそうに笑って、うなじまで触らせておいて、と七音は不機嫌に言う。 「僕、猫派です」 「ああ、だから小説にも猫?」 「そう。犬だとどうもね、物語が進まなくて」 「ええ?そんなことないでしょ。俺、犬派だけど。ハチ公物語とか南極物語とか、小さい頃見て、すげー泣いた」 「ああ、そう言われればそうですね。犬の話、考えたことなかったな。一昔前に、おじいさんと白い犬の話の童話が流行った時がありましたよね」 「えー?いや、それは知らないっす」 「え?知らない?確か映画にもなったと思うんですけど。おじいさんにしか見えない白い犬の話で、最後、おじいさんは亡くなってしまう、というお話。会社勤めしている頃、会社の近くで白い犬を見かける時があったのを思い出しました」 「白い犬っすか」 「はい。いつも一匹で歩いているんです。首輪はしていないんですけど、野良犬にしては毛並みが綺麗で。で、会社の人たちに聞いたんです、見かけてないか。そしたら誰も知らないって言うんですよ。一緒に昼食に行った同僚でさえ。さっき、僕たちの目の前を横切ったのに見てないって言うんです」 「ふーん、で?」 「それだけ」 「それだけ?」 「うん。いつの間にかいなくなってました。でもさ、僕だけにしか見えないもんだから、僕、もしかしたらもうすぐ死んじゃうのかなあ、おじいさんみたいに、ってちょっと本気で怖かったんです」  七音はしばらくうつむいていたが、耐えきれずに吹き出した。  アキさんの話、いっつも着地点がおかしいんだけど。 「何の話っすか」 「笑ってるけど、これ、おもしろい話じゃないからね。本気でその時は心配になっちゃってさ、脳の検査までしたんだから」 「え?嘘、マジで?ごめん」  七音は笑ったことを激しく後悔して慌てて謝った。 「うん、嘘」  そう言われて、しまった、と思った時にはもう遅かった。今度はアキが嬉しそうに笑い 出す。 「嘘かよっ。もー。なによ、なんで時々そういう嘘言うのー?」 「七音君の反応、おもしろいから」 「どっからが嘘?全部?」 「いや、最後の脳の検査したところだけ。犬の話は本当」 「もう次からアキさんの話、絶対信じない」  そう言って七音が機嫌よく笑っていると 「何、何?なんか二人で盛り上がってんじゃん」 と突然、ユウが二人の間にヒョッコリと顔を出した。 「あ、ユウ君。こんにちは」 「ユウ君じゃん。お疲れっす」 「お疲れ。なーに、何か楽しそうだね、二人とも」 「七音君が嘘ばっかり言って困る、って話」 「ちょっとっ、またっ、そうやって嘘つく!子供かよっ」  きゃはは、仲いーね、とユウが笑いながら七音の横に腰かけた。 「君たちこそ。こないだ二人で話ししたんでしょ?」  アキが訊いた。 「あ、そうそう、監督の事務所で七音君のスケッチさせてもらったんだー。その後、ちょっとねお茶したの」  そう言ってタブレットを取り出した。 「わあ。相変わらずユウ君、人物描くの上手いね。っていうより、目が良いよね。七音君の表情、すごくよく見て描いてるのがわかる」 「でしょー。モデルがいいと描いてて楽しいんだー」  先日見せてもらった荒い線のデッサンではなく、水彩絵の具で着色されたようなイラストになっていた。 「うわ、すご。もっと他のも見ていい?」 「いいよ。アキさんがモデルの見たい?」 「見たい」  タブレットをトントンと叩くユウに七音は頭を寄せ覗き込んだ。 「ほーら」  開いた画面に三つ揃えのストライプのスーツでポケットに手を突っ込んで立つアキのイラストが出てきて 「うわ、カッコいい。マジかよ。もっと良く見せてっ」 とテンションが一気に上がる。  アキが神島と話している間に七音はタブレットのページを次々と送って見ていった。イラストになったものから、デッサンまで何枚もある。  ワイシャツにネクタイ、腕まくりをしてソファのひじ掛けに腰かけているアキのデッサンが目に留まった。 「あれ、これってさあ。もしかして、探偵シリーズの挿絵になってるやつじゃない?」 「あ、そうそう。あれはアキさんがモデルなの」 「あー、そう言われれば、ぽいなー」 「でしょ。顔と髪型変えてるからほとんどの人は気付かないんだけど。さすが七音君」  「いいね」 「いいでしょ」 「俺、あの話、すげー好き」 「へぇ、七音君、アキさんの本、他のも読んでるんだ」 「もちろん。今、全作、攻略中」  ユウの前ではアキのことを素直に話してしまえて気が楽だ。 「そろそろおやつの時間ですよ」 「やった、シュークリーム」  アキの呼びかけにユウが振り返って声をあげる。 「うん。ユウ君これ好きでしょ」 「さすが、アキさん。わかってる」  シュークリームとユウにはジンジャーエール、七音にアメリカン、アキにはアールグレイがそれぞれ神島の手によってサーブされていく。 「へぇ、シュークリームなんて食うの何年ぶりだろ」  そう言いながら七音はかぶりついた。  思っていたよりはるかに甘さ控えめのクリーム、そしてラム酒の香りがふわりと口の中に広がり、知っているシュークリームとは全く別物の大人な味わいに驚いた。 「うっわ、なんだこれ。うま」  カップに口をつけていたアキの目元が緩んで皺が寄る。 「あ、でた。七音君のうまい」 「いや、マジで。こんなん食ったことない」 「あー、僕も最初食べた時、そう思った」  ユウが同意した。 「田舎に住んでるばあちゃんに食べさせてあげたいなーって思って、ほけーってなったー」 「あはは、ユウ君おばあちゃん子だったって言ってたもんね」 「へえ。持って行ってあげれば?田舎って遠いの?」  七音は何気なく訊いた。 「持って行っても父ちゃんに追い返されるだけだもん」 「え?お父さんに?」 「うん。僕、父ちゃんから絶縁されてるから」 「ゼツエン?」  聞きなれない言葉に一瞬、意味を見失う。 「そ、田舎だからさー。男と同棲してるような恥ずかしい息子は帰っちゃいけない存在なんだよねー」  フォークについたクリームをペロリとなめるユウを見ながらようやく絶縁、という言葉の意味を理解した。 「まあ、僕には美青もいるし、アキさんもいるし、イラストの仕事もあるし。田舎にいるよりずっとハッピーだけどね」 「あ、ごめん。何も知らなくて。軽く話していいことじゃなかった、よな」 「んーん。別に」  好きになった人が男の人だということが家族から絶縁される理由になる得るのだ、ということに七音は衝撃を受けた。男性を好きになることが恥ずかしいこと、という意味に聞こえてしまい苦しくなる。 「七音君は?ご家族とは仲いいの?」  アキの優しい声が七音の鼓膜を撫でた。  動揺してるの、またバレた。  そういう時、アキがいつも以上に優しく話しかけてくることに七音は気付いていた。 「あ、まあ、普通・・かな」 「兄弟はー?いないの?」 「妹がいる」 「へえー、いくつ?」 「一っ個下。二十七」 「仲良し?」 「いや、全然」 「そうなんだ。えー、なんで。いいじゃん、妹。僕も欲しかったなー、かわいい妹」 「かわいいとか思ったことないけど」 「じゃあ、あんまり会ってないんですか?」 「あー、まあ、一年に一回くらい。あ、でも今度、結婚するって」 「へえ、それはおめでとう」 「いや、俺は関係ないす」 「え?でも、結婚式、行かなきゃいけないでしょ?」 「あー、それ、うん。妹はカジュアルな式だから普通のジャケットで良いって言ってるんすけど、母親からはちゃんとしたスーツ買うか、衣装借りるかしろって言われてて。でも、俺、結婚式用のスーツなんて持ってないし。衣装借りるって、どんな?って感じで」 「えー、何言ってんのー。ビシッとスーツ着てキメキメで行きなよー。七音君、背高いし、絶対似合う!」 と、なぜかユウが盛り上がる。 「確かに、肩幅もあるし似合いそう。妹さんだってちゃんとした格好のお兄さん、見たいんじゃない?」 「うーん、結婚式に着て行くスーツとかどこに買いに行っていいかよくわかんねー」 「ふーん、じゃあ、アキさん、一緒に行って見立ててあげれば?アキさん、センスいいし。さっきのスーツ姿のイラスト、かっこよかったでしょ。あれ、アキさん自前のスーツだよ」 「え?ほんと?アキさん、一緒に買いに行ってくれます?」 「え?僕?いや、僕よりユウ君のほうがいいんじゃない?歳、近いんだし」 「えー、僕、そんなスーツとかは全然わかんないもん。買いに行ったことない」 「だろ?もう量販店のでいいかなって」  七音の言葉に 「嘘でしょ?妹さんの結婚式だよ?」 とアキが呆れたように言った。 「何か問題あるんすかね?」 「まあ、なくはないんじゃない?いくらカジュアルとはいえ、親族なんだから。せめて百貨店で買うぐらいしたらどうですか?」 「ほら、アキさん、一緒に買いに行ってあげなよ。妹ちゃんが可哀想」 「妹?俺じゃなくて?」 「それこそ、彼女とかに頼めばいいじゃないですか」 「彼女がいればいいけどねえ。いるの?」 「いない」 「だよね」  しばしの沈黙の後 「まあ、僕でいいなら、いいですけど?」 と根負けしたようにアキが言った。 「え?マジ?やった」 「えー、いいな。お買い物デートじゃん。七音君、良かったね」  ユウのにんまりとした顔に七音はサンキュ、と声に出さず礼を言った。          *   *   *   *   * 百貨店の前で14時に待ち合わせでどうでしょうか    アキからのメッセージにソワソワと了解の返事をする。  お買い物デートかあ。  なんとなく緊張しながら5分前に百貨店に着くとアキの姿が見えた。  黒いⅤネックのセーターがほっそりとした長いアキの首元をくっきりと際立たせ、なまめかしい。 「アキさん」 「七音君。こんにちは」 「待った?」 「ううん、今来たとこ。じゃあ行きましょうか」 「うん。百貨店なんて久しぶり。アキさん、いつも百貨店でスーツ買ってたんすか?」 「いつもってわけじゃないよ。普段は量販店の物だけど、まあ、何着かはね」  そう言いながらエスカレーターに乗って紳士服売り場に向かい、フロアをぐるりと一周回る。 「最近の若い人の流行とかがよくわかんないなー。ここなんかどう?七音君の雰囲気に合ってそうなんだけど」  アキがそう言いながら店内に足を踏み入れた。七音はあまり興味を持てないまま、飾られているスーツを眺める。  アキはスタスタと若い店員に近寄り声をかけた。チラチラと七音を見ながら少し店員と話し、一着を手に持ってこちらに近づいて来る。 「どんな感じか、一回着てみましょうか」 と、背中を押され試着室でとりあえず渡されたものに着替えると、慣れない着心地に体を縮めながらドアを開けた。  若い店員とにこやかに話をしていたアキがこちらを向き頷く。 「うん、悪くないね。サイズもこれで良さそう」   アキの視線に心臓がギュッとなる。 「背が高くて肩幅あるからスーツも似合うよ」 「そうすか?何か、慣れてなくて」 「まあ、それはしょうがないな」  サラリとアキは店員に視線を移した。 「もうちょっとジャケットのウエストがゆるいデザインのものはありますか?少しルーズなラインの物の方が彼の雰囲気に合うと思うんですけど。パンツももう少し太目がいいな」  かしこまりました、と有能そうな店員はキビキビとアキを伴って店内を歩き回る。  店員と話ながら頷いたり笑ったりするアキの姿を七音は目で追った。  あんな感じで仕事してたのかな、と想像を巡らせる。  なんだかんだで仕事できそうだし、アキさん、もてるんだろうな。  アレックスにじゃれつかれていたアキを思い出してじわりと胸が痛んだ。 「七音君?次、これ着てみて」 「あ、はい」  年配の店員が丁寧にジャケットを羽織らせてくれて、いくつか言われるがままに着ては脱いでを繰り返した。  四着目のスーツを着て試着室を出ると、腕組みをしていたアキがパッと腕をほどき 「うん、これ、すごくいい」  そう言った。  隣に立っていた若い店員もわあ、と声を漏らす。  程よくゆったりとした形の黒みがかった濃い青のスーツは、伸びたくせのある髪とピアスが軽薄にならずにうまくマッチして七音をいつもより艶っぽく見せてくれる。  鏡に写った見慣れぬ自分の姿を眺めた。 「どうかな?」 「似合ってるかどうかはよくわかんないけど、この形と色はすごく好き」 「うん。すごく七音君らしくて素敵だよ」  そう言う鏡越しのアキの視線に、七音は痺れたように立ち尽くしてしまった。  新品のスーツを手に、丁寧にお辞儀をして見送る店員にお礼を言うと七音とアキは店を出た。 「じゃあ、次はシャツだね」 「シャツ・・いる?」 「当たり前でしょ。まさかTシャツでも着るつもりだった?」 「あー、うん。まあ」  目尻に皺を寄せて笑うアキの後ろについて今度はカッターシャツばかりが並んでいる店に入る。  こちらでも何やら店員に話しかけて白いカッターシャツを手に戻ってくると 「はい、着てみて」 と手渡された。 「もういいよ、試着しなくて。これ買う」 「何言ってんの。シャツは首元のサイズが大事なんですから。ほら」 とまた背中を押され、渋々試着室へと向かう。  全然デートって感じじゃないんだけど、と汗だくになって着替え、首元を開けたまま試着室を出ると、待ち構えていたアキが寄って来てボタンを上まで閉めた。  息がかかるほどにアキの頭が近づいて、心臓の音が大きく鳴った。 「苦しい?」  アキが人差し指をシャツと首の間に入れた。  ゴクリ、と喉仏が動いて顔が赤くなるのが自分でもわかったその瞬間、アキがスルリと指を抜いてサッとボタンを一つ外した。 「もうワンサイズ上のものを下さい。できればワイドカラーを」  アキの声が顎のすぐ下から聞こえ、息が止まる。 「こっちにしとこうか。式の途中で気分悪くなっても困りますから」  ドクドクと耳元で響く鼓動をなんとか抑えようと試着室に入り息を吸った。新しいシャツに着替え、震える指で上までボタンを留めてドアを開ける。 「うん、このサイズで大丈夫そうですね。さっきよりましでしょう?」 「あ、うん」  では、このサイズを、とアキが店員に頼んでいる間に七音は試着室に戻り、アキの冷たい指の感触が残る喉元をギュッと押さえた。  やっべ、ライブでもこんなに指震えたことないのに。  どうにか自分の服に着替えて試着室を出るとアキがソファに座って店員と話しているのが目に入った。足を組んで少し見上げながら店員と笑い合うアキに、あの人、ちょっともて過ぎなんじゃね?とまた汗が噴き出る。  手の届かない存在に恋をするとこうも制御不能になるものらしい。 「お待たせしました」 と慌ててアキに声をかけた。 「うん、じゃあ行こうか」 「あ、会計してくる」 「ん、もう払った」  アキが立ち上がる。 「えっ?あ、いや、ダメだよ。自分で払う」 「いいよ、もう払っちゃった。スーツはさすがに買ってあげられないから、シャツぐらいは。僕からのお祝いです」  そう言うとスタスタと紙袋を手に店を出る。 「え?アキさんっ」 「次は、靴?」 「もう勘弁してっ」  アキの後ろを追いかけながら七音は音を上げた。 「はは、お疲れ様。まあ、スーツとシャツは買えたから上出来かな。あのスーツ、七音君にすごく良く似合ってたし、良い買い物ができたんじゃない?」 「うん。あ、俺、ちょっとトイレ行って来ていい?」 「いいよ。僕、そこのお店見てるから。ごゆっくり」  七音はトイレではあ、と息をついた。  さっきからいちいち動揺しまくってるの、バレバレだよな。買い物デート、心臓に悪すぎる、と汗を拭う。  一旦、気持ちを落ち着かせて売り場に戻ると、アキが微妙な顔でキョロキョロとしているのが見えた。近づくと、アキの足元で三歳くらいの小さな男の子が泣きながらズボンを掴んでいる。 「どうしたんすか?隠し子登場?」 「違うわっ」 「冗談だよ」 「迷子みたいなんですけど、僕のズボン、掴んで離さなくって。名前を聞いても泣くばっかりだし」 「で?」 「いや、で、どうしたら良いもんかと。助けて下さい」  七音はしゃがんで足元の子供に両手を差し出した。 「そっか。じゃあ、一緒にお母さん探しに行こっか」  子供が泣きながらアキのズボンを離して七音の腕に捕まる。七音はその手を取ってひょいと抱き上げた。 「あーあ、すげー泣いてんな。こりゃ名前聞き出すの無理だよ。迷子センターに行こ」 「あ、そっか。そうですね」  今度はアキが七音の後をあたふたとついて来る。迷子センターに子供を託すと、アキと七音は百貨店を後にした。 「あー、つっかれた。どっかでお茶しない?」 「そうしましょう」  カフェのカウンター席に腰を落ち着け、ホッと一息ついた。 「七音君って意外と子供の扱いうまいんですね」  アキがアイスティーをストローでかき混ぜカラカラという音を立てる。 「意外?別に普通でしょ。アキさん、もしかして子供嫌いなの?」 「嫌いっていうか、怖いんです」 「怖い?アキさんの怖いもの、変なのばっかだな」 「そう?子供ってさ、予想つかない動きするでしょ。あれがどうもね。昔、友達の子供を膝に乗せてたらいきなりのけ反って頭突きされて、唇切っちゃったことがあって。それ以来、あんまり不用意に近づかないようにしているんです」  そう言ってアキはカウンターに頬杖をついた。  想像したらおかしくて堪らず、七音は腹を抱えて笑った。 「笑い事じゃありません。その後、唇、二針も縫う怪我だったんですよ」  アキが横目でチラリと睨む。 「えー、またまた。嘘ばっかり」 「ほんと。唇って柔らかいからすぐ切れるでしょ?ほら、ここ、傷跡」  そう言ってアキが七音の方を向き、唇を開いた。 「え?マジ?どこ?」 「ここ」  七音は覗き込むと親指でアキの上唇に触れた。  フニッとした柔らかく湿った感触が指に伝わってきて、七音の顔がカッと熱くなる。  その瞬間、アキが身を引いた。 「嘘です」  あ、やられた。 「またかよっ。いい加減にしろって」 「人の不幸を笑うからや」  アキが形の良い唇でストローを咥える。 「どっからが嘘?」 「最後の二針縫ったところ」  「何だよ、もうっ。その、ちょっと可哀そうな話しぶっこむのやめろよっ」 「唇切ったのは本当なんですって。すごい血が出てびっくりしたんだから」 「二針は言いすぎ」 「でも一瞬信じた」 「信じてねーし」  やっぱり買い物デートって、めちゃくちゃ楽しいかも。  嬉しそうに笑うアキの横顔を見ながら七音はすっかり舞い上がってしまった。    アキさんがシャツ、買ってくれた。  家に帰ってソファに倒れ込む。  あー、いいのかな、こんなことしてもらって。  そう思いながらも嬉しさに顔がにやけるのを止められない。  スーツ選んでもらってシャツ買ってもらって・・・。  よっ、と勢いをつけて起き上がると、帰り際にアキが渡してくれた紙袋を開けてボックスを出し、そっと蓋を開ける。包んである白い薄紙を丁寧に開くとスーツよりもさらに少し濃い青色の美しいシャツが現れた。光沢がありツヤツヤとしている。 「うっわ」 と思わず声が出た。  てっきり普通の白いシャツを買ったのだとばかり思っていた。  これを?俺のために?  手品を見ているかのような気分で青いシャツを見る。 「いや、ヤバいだろ、これ。ヤバいって」  七音は悶えてソファに倒れこんだ。その拍子に足テーブルにガツッとぶつけて紙袋が床に落ちる。 「痛って」  なにやってんだよ俺は、と起き上がって床を見ると紙袋から黒い箱が半分飛び出しているのが見えた。 「何だコレ」  何か粗品でもくれたのか、と深く考えずに箱を手に取って蓋を開けると、中には紫がかった水色の美しいガラスのループタイが入っていた。  楕円形のガラスの中に紫の煙のような模様が流れていてラメが星のようにキラキラと輝いている。  七音は目を見張った。 「何・・これ」  これも、アキさんが俺に?  慌てて電話を手に取る。呼び出し音が鳴る間、七音の心臓は狂ったように打った。  待てよ、もしかしてアキさんが自分の為に買ったのをここに入れて忘れたのかも・・? 「うわ、しまった。どうしよ」  慌てて切ろうとした瞬間 「七音君?」 とアキの声がして携帯を耳に押し付けた。  痛いくらいに耳が熱い。 「あ、あのっ。アキさん、すみません。袋に箱が入ってて・・」 「ああ、気づいた?」 「あ、うん、ループタイが」 「うん、綺麗でしょう?七音君に似合いそうなの見つけたから。それにあのシャツにすごく映えると思って」  あ、やっぱり、俺に、だった。 「あ、いや、あの。あ、どうしよ、俺、今気づいて。シャツもすげー良さそうなやつで」 「うん。気に入った?」 「うん、めちゃくちゃ気に入った」 「そう、良かった」 「あの、でも、こんな、シャツ買ってもらって、その上こんな、もらいすぎ」 「いいんじゃない?お祝い事なんだし、若者の特権です。それに七音君、上手くネクタイ締められないかもしれないから」 「できるよ、それぐらい!」  あはは、そっか、とアキが笑っているのが聞こえ、七音はループタイを部屋のライトに翳した。 「すげー、綺麗。星空みたい。ありがとう。嬉しい」  好きな人から何かをもらうって、こんなに嬉しいものなんだな、と気持ちが溢れる。 「どういたしまして。気に入ってもらえたなら良かった。じゃね、おやすみ」 「おやすみなさい」  電話を切ってソファにまた倒れ込む。  マジでヤバいって、これ。耳、熱っつ。  七音は耳に残るアキの声に全身が甘く波立つのを感じてギュッと目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!