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 オーベルジュに出発の日、朝からうだるような暑さと刺すような日差しの中、七音(ななお)たちは楽器を抱え汗だくでコンビニの駐車場に集合した。 「七音くーん!」  ユウが走って来るワゴン車の助手席から手を振る。 「おー、ユウ君。おはよ」 「おっはよー」  車から降りて来たユウと美青(みお)をメンバーに引き合わせ、挨拶を交わす。 「後はアキさんだけか。先に荷物積んじゃいましょうか」 「すごーい、バンドのツアーみたいー」 とユウがはしゃいだ声を上げた。  玉名(たまな)が持っている箱のようなものを見て 「ナニコレ?」 と訊いている。 「カホンっていって、叩いて音出すんです」 「へえー。おもしろーい。後で叩いてみていい?」 「いいよ」  ユウが早速、花丘(はなおか)と玉名に人懐こく絡んでいると美青の携帯が鳴った。 「あ、アキさんからだ。もしもし?」  慌てて電話に出た美青の様子に七音は心配になって側で耳を寄せた。 「あー、ごめんね美青君。寝坊して今、起きた」  アキの寝起きの声が七音にも微かに聞こえてくる。 「だと思った。何度電話しても出ないんで」 「んー、ごめんね。携帯、充電切れてた」 「今から迎えに行きます。アキさん、今起きたって」  美青が皆に顔を向けた。 「美青くん?いいよ、もうみんな待ってるんでしょ?みんなで先に行ってて。僕、後から一人で行けるから。夕方には着けると思う」 「みんなで先に行ってて、って。後から一人で行くって言ってるけど、どうする?」 「え?そうなの?いいじゃん、待ってるよ。みんなで行こうよ」 「じゃあ、みんなは先に車で行って。俺が残ってアキさんと一緒に行く」  七音は咄嗟にそう言った。 「え?お前が残って大丈夫なの?」  花丘が驚いた顔で七音を見る。 「え?いいよいいよ。僕が残るからさ、七音君はみんなと先に一緒に行きなよ」 「は?ユウが?余計ダメだろ」  ユウの言葉に今度は美青が目を剥く。 「締め切りきついから行きたくないって言ってたのに俺が無理矢理アキさん誘ったからだ。美青君、俺の荷物だけそのまま積んで先、行って。頼む」  美青は一瞬考えて、七音に頷いた。 「わかった。じゃあ、二人は電車で来てください。向こうに着いたら駅まで車で迎えに行くから、何時に着くか分かったら連絡して」 と言うと再びアキの電話に出た。 「アキさん、七音君が残ります。アキさんは七音君と一緒に後から電車で来てください。アキさんの家、七音君に教えてもいいですか?」 「ん?いいけど?」  アキはぼんやりとしたままの声で反応が鈍い。 「じゃあ、七音君に家まで迎えに行ってもらいますから家で待っていてくださいね」  美青はそう言って電話を切った。 「じゃあ、悪いんですけど七音君、アキさんの家まで迎えに行ってもらえますか?だいぶぼんやりしてたから、ほとんど寝てないんだと思います。アキさん、寝起き悪いので気を付けて下さい。大丈夫って言っても信用しないで」 「え?どういう意味?」  美青は七音の質問には答えずテキパキとみなに指示していく。 「あ、ユウとお二人はコンビニで飲み物とか、朝飯とか、車の中で欲しい物あったら買ってきて下さい。昼飯は向こうで準備してくれてますので。ユウ、俺の分のコーヒーとパン、頼む。あと、水と。でかいのな」  はーい、じゃあ、コンビニ行きましょー、とユウが花丘と玉名と連れ立って行く。  「じゃあ、アキさんの家のロケーション送ります」  連絡先を交換して、美青からロケーションを送ってもらう。 「オートロックなので下で部屋番号押して、アキさんにドアを開けてもらって下さい」 「了解」 「京極山(けいごくやま)までの行き方はアキさんが知っていると思いますが、もしわからなかったら連絡下さい」 「うん、サンキュ。携帯で調べるから大丈夫。悪いけど、あいつら頼む」 「はい。七音君も、アキさんよろしくお願いします」  アキさん、大丈夫かな。  無理をさせたようで七音は罪悪感に駆られ急いでタクシーを拾い、アキの家に向かった。  部屋番号を押すとしばらくしてインターホンのスピーカーからゴツゴツと音がして 「はい?」 と言うアキの掠れた声がした。 「アキさん、俺。七音」 「あ、待ってね」  自動ドアが開き、中に入って家のチャイムを鳴らすと、ガチャガチャと音がして無精ひげを生やしたアキが顔を出す。 「七音君、ごめんね」  シャワーを浴びたのか、湿気を含んだ空気がまとわりついている。 「いや、忙しいのに無理矢理誘ったの俺だし」  アキの後について部屋に入ってその狭さに驚いた。 「早かったね。もっと時間かかると思ったからぼんやりしてた。ちょっと待ってて。急いで用意する」 「いいよ、ゆっくりで」 「そこの椅子にでも座ってて」  立ち尽くしている七音を見てアキが言った。 「小さい部屋だね」  見たことのない程の狭さの部屋に他の言いようが見つからない。 「うん。極小アパートだからね」 「確かに極小。ずっとここに住んでんの?」 「うーん、もう二年くらいか。すぐに大阪に戻るつもりで一時的に借りてたんだけど、結局ズルズルとそのまま」  作り付けの机と椅子。そしてその上、顔の高さほどの位置にベッドが作りつけられている。ベッドの頭の方に小さな棚があり、本が数冊、積んであった。部屋の隅には傷のついた大きな黒いスーツケース、それだけしかない。机の上にバックパックと薄手のパーカーが準備してある。 「まあ、一人だし。パソコン一つあれば、仕事できるから意外と快適で」  そう言いながら、ひげを剃ったアキが洗面所から出てきた。 「何時間寝たの?」 「んー、二時間くらい?寝ずにいくつもりだったんですけど気づいたら寝てしまってて」  アキがバックパックに洗面道具とパーカーをせっせと詰め込む。 「ごめん、無理させて」 「ううん。こっちこそ、迎えに来させちゃって悪かったね。大丈夫だったのに」 「美青君がアキさん、数時間しか寝てないだろうし、寝起きが悪いからって」 「ええ?心配しすぎだよ。そんなに寝起き悪くないし。よし、できた」 と言いながらキョロキョロと何かを探してベッドの上を覗いているアキに 「何探してるの?」 と七音は尋ねた。 「パーカーを・・・。どこ置いたっけ?」 「今、バックパックの中に入れたやつじゃなくて?」 「え?どんな?」  七音はアキのバックパックを開けて見せた。 「これ」 「あ、それ」  さっき詰め込んだパーカーをまた取り出して羽織ると 「じゃあ、行こっか」 とバックパックを持って玄関に向かうが机の上に携帯が置きっぱなしだ。 「アキさん、携帯忘れてる」 「あー、そうだ充電してた」  バックパックを床に放り出し慌ててアキが戻って携帯を手に取り 「あれ?八パーセントしか充電できてない」 と上げた声に、ついに七音は吹き出した。 「アキさん、すげーバグってる」  美青がここまで迎えに来させる訳だ。 「いいよ、後は俺の携帯があるから電源切っとけば?向こうに着いてから充電しよ」  七音はアキの手から携帯を取り上げて自分のポケットに入れ、そのままバックパックを手に持って靴を履いた。 「ごめん」  アキも後に続く。 「カバン、自分で持つよ」 「いいよ、今のアキさん、そのままどっかに置いていっても気づかなそうだし」 「そんなにボケてないよ」  そう言いながらもポケットをあちこちと探っている。 「やっぱ心配なんだけど」 「いつもと違うカバンだから」  そう言ってバックパックのポケットからようやくキーホルダーを取り出し鍵をかけた。 「じゃ、行こうか」 「うん」  夏の日差しを避けながら駅まで二人で前になり後ろになりながら歩く。 「京極山までの行き方、わかる?」  アキの細く白いうなじを眺めながら訊いた。 「うん、大丈夫」 「不安しかない」 「大丈夫だって」 「いつも寝起き悪いの?」 「悪くないよ。ちゃんと目が覚めるのに時間がかかるだけ。紅茶飲んだら覚める」 「じゃあ、駅前で飲み物と朝飯買って電車乗ろっか。食ったら少し寝ればいいよ。どのくらいで着くかわかる?」 「一時間半くらいだったと思う」  駅前のベーカリーでアイスコーヒーとミルクティー、いくつかのパンを買い、ホームのベンチで並んで飲み物をすすりながら電車を待つ。 「何かいいですね、こういうのも」 「うん」  アキさんが寝坊してくれて良かったかも、と七音は少し得をした気分で答えた。 「次の電車です」 「ほんと?」 「うん。ほら、これで終点まで行って、で、極北(ごくほく)線に乗り換えて2駅」 「ちょっと待って、調べる」 「大丈夫だって」  アキが到着した電車にさっさと乗り込み、七音も慌てて後を追って乗り込んだ。  二人掛けの固い座席が進行方向に整列していて、古めかしい雰囲気の車内が一気に旅行気分を高める。 「ちょっと目が覚めてきた」  アキがガラガラに空いた車両の座席に座った。 「七音君、早く座って。パン食べよう」 「ああ、はいはい」  パーカー姿が今日は幼く見えるアキにベーカリーの袋を渡した。  なんか、今日のアキさんめちゃくちゃ可愛いんだけど、と七音のテンションは上がりっぱなしだ。バックパックを棚に上げ、袋を開けて中を覗き込んでいるアキの隣に腰かけた。 「七音君、どれ食べますか?」 「ソーセージのやつ」 「はい」 「他に何買ったっけ?」 「クルミパンと、チーズパン、ベーグルと後はブラウニー」 「結構買ったね」 「おいしそうだったから、つい。後でブラウニー半分こしましょう」  アキが嬉しそうに言う。  七音はソーセージの入ったパンを齧りながら、走り出した電車の到着時間を調べた。 「ねえ、一時間半くらいって言ってなかった?」 「うん、そのはず」 「二時間以上かかる感じなんだけど」 「えー?それはかかり過ぎだと思う」  アキが身を寄せて携帯を覗き込んだ。 「あー、これ、特急じゃないからだ。次のに追い越される」  七音の言葉にアキがチーズのパンを頬張りながら大きく目を見開いた。 「え?間違えた。何かこの座席の雰囲気で特急かと思って」 「何その言い訳。小学生?」  七音は笑い出した。 「今日のアキさん面白すぎるんだけど」 「どっかで降りて特急に乗り換えられるんじゃないですか?乗り換えよう」 「いいよ、これで。ゆっくり行けば」 「そう?ほんとに?着くのが遅くなりませんか?」 「いいじゃん、別に」  なるべく長く二人でいたいし、と心の中で付け足す。 「にしても、よくそれで一人で大丈夫って言ったね」 「ごめんて」 とアキが関西弁でおかしそうに笑いながら謝った。 「いや、いいよ。アキさんのバグってるとこ、見られて面白いから」 「面白いですか?普通、ちょっと怒ると思うんですけど」 「そうかな」 「七音君て、あんまり怒りませんよね」 「いや、それはアキさんのほうでしょ」 「まさか」 「いやいや。アキさんのほうがなんでも受け入れちゃうじゃん。嫌なこととかも受け入れて全部飲み込んでると思う。俺は最初(はな)っから受け入れ拒否だから」 「そう?そうかな。受け入れ拒否っていうか、すごく早く選択できるのかな。いつも冷静に取捨選択している印象だけど」 「あー、それは・・、雑音だから」 「え?雑音?」 「うん。人の話、雑音にしか聞こえない時があって。そういう時は話が聞こえてないんだよ。だから全然覚えてない時がある」 「へえ」  アキがミルクティーを飲みながら組んだ足をブラブラさせている。  あ、これ、引かれたかも・・、と言った瞬間に後悔した。 「ん?じゃあさ、僕の嘘の話に七音君また騙される可能性あるってことじゃない?」  アキがパッと顔を上げた。 「え?ないよ」  何言ってんだ、この人?と七音は呆気に取られた。 「そうかな」 「当たり前だろ」  引くどころか、楽しそうなアキの横顔を眺める。  やっぱりアキさんの話しの着地点はどこかおかしくて、そしてすごく心地がいい。 「ね、俺の雑音のこと、二人だけの死ぬまでの秘密にして。アキさん以外の人に知られたくない」 「うん、わかった」  アキの声が耳に響く。  俺は、この人を失いたくない。  七音はアキの全てに夢中になっていた。    しばらく電車に揺られていると七音の肩先が少し重くなり、アキが寄りかかって眠っている気配がした。アキの体温を肩先に感じて体が熱くなる。  七音は手を伸ばしてアキの手をそっと握った。  今日は温かく感じるその指先を絡めて肩にもたれたつむじに鼻先を寄せると、スゥスゥと密やかな寝息が聞こえる。  七音は指先を絡めたままそっと手を引き寄せて唇に押し当てた。気だるく甘い空気に胸が震えて息が苦しい。  気づいて欲しいような、誰にも気づかれたくないような、どうしようもない気持ちで体がはち切れそうだ。  俺はどうしたらいい?  受け入れられたいと願っているのに、拒まれるのが怖くて踏み込めない。  最初は、ただ話がしたいと思っていただけなのにいつの間にこんなに欲張りになってしまったのだろう。  幸せなのに泣きたい気分で七音は手を握ったまま電車の外を眺めた。 「アキさん、もうすぐ着くよ」  こっそり握っていた手を放して七音はそっと声をかけた。  アキがぼんやりと目を開ける。 「んー、寝てた」 「ちょっとは寝られた?」 「うん。ごめん、もたれてた。重かったでしょ」 「平気だよ、そんぐらい」 「あー、めっちゃ寝た」  手を繋いでたことに気づいてない様子のアキにホッとしながらバックパックを棚から降ろす。 「乗り換えたら二駅だからすぐ着く。美青君が駅まで車で迎えに来てくれてるって」 「ありがと。七音君のお陰でゆっくりできた」  京極山駅に降りると、街の空気とは違った緑の瑞々しい匂いがして、山のすぐそばまできたことがわかる。  パッと車のクラクションが鳴り、二人で車の後部座席に乗り込んだ。 「あー、美青君、おはよ。ありがとう。ごめんね、お世話かけました」 「いいえ、おはようございます」 「お疲れっす」 「お疲れ様。七音君、ありがとうございました。アキさん、朝、大丈夫でした?」 「いや、結構やらかしてた。迎えに行かせた意味がよく分かった。アキさんの大丈夫を信用するなって意味も。で、どう?オーベルジュ」 「もう、さいっこう」 「マジで?楽しみ」  二十分程山道を走ると、木立の中に木の柵が現れ、白い平屋の建物といくつかのコテージのような建物が建っている場所に着いた。  平屋の前の駐車場に車を止めて外に出ると、向こうのほうからキャーキャーと叫ぶ声とズン、ズンと腹に響く音楽が聞こえてくる。 「え?何?」  山の中と音楽のあまりのギャップに驚いて美青に訊いた。 「行けばわかる」  建物を回り込むと、青々とした芝の庭が目に飛び込んで来る。芝の先は岩場になってい てたっぷりとした水量のある川が流れ、水着姿で寝転んでいる人や、叫びながら川に飛び 込む子供達の姿が見えた。  アレックスのバルで演奏していたギタリスト達やウェイトレス達もいてみなリラックスした様子だ。  子供の頃にどこかで嗅いだような、懐かしい草の匂いと水の匂いが漂い、芝生の上に無造作に置かれたスピーカーからは爆音で音楽が流れている。  バカンスへようこそ、と言わんばかりに大きなクーラーボックスに詰まった氷にビールやジュースが刺さっていた。 「うーわ。なんだよこれ、最高かっ」 と七音は思わず声を上げた。 「アキ!ナナオ!」  タープを張った下にDJブースを設けて音楽を流しているアレックスが両手を挙げた。  アキも手を挙げて応えながら 「あそこにいるのがここのオーナーのクリスチャン。スペイン系スイス人の超金持。奥さんが日本人」 とアレックスの隣にいる腹の突き出た男性を見て素早く言う。 「うへ」  あれが本物の金持ちの外国人か、と目を瞠る。 「アキー!!」 「クリス!」  二人が軽く抱き合って肩を叩く。 「久しぶり」  クリスが流暢な日本語で話し始めた。 「ご無沙汰。元気そうだね、クリス」 「もちろん。アキは相変わらず痩せてるな。日本人は痩せすぎだよ。今日はたくさん食べさせるからね」  朗らかに笑いながら突き出たお腹をさする。 「こちら、七音君。プロのミュージシャン」 「ようこそ。楽しみにしてたよ!」  クリスが七音に手を差し出し握手する。 「初めまして、七音です。今日はお招きありがとうございます」 「どういたしまして。楽しんで下さい」 「はい」 「じゃあ、コテージ行きましょうか」  そう美青に声をかけられ 「お、サンキュー。俺の荷物は?」 と背中を追いかける。 「もう部屋に」  美青が七音に言いかけた時にアキがふと気づいて 「ん?あれ?七音君、君の荷物どうしたのっ!?」 と急に慌て出した。 「今頃?いやいや、車に積んで先に運んでもらったんだよ」 「車?あ、そうか。びっくりした。僕の家に忘れてきたのかと思った」 「んなわけねーじゃん。今日、アキさんマジでポンコツ」  三人で爆笑する。 「何か今日はもう、ダメだな。二人がいなかったら来るの諦めてたかも」 「今日は仕事忘れてみんなで思いっきり楽しみましょう。僕たちはB棟です。一階の部屋が七音君と花丘さんと玉名さん、二階がアキさんとユウと俺です。七音君の荷物、一階の部屋に入れてあるよ」  コテージに入ると中は木調で天井が高くリビングが吹き抜けになっている。 「すっげ、なにこれ」  七音は度肝を抜かれた。 「ね、サイッコーでしょ。各棟ジャグジー付き」 「ジャグジー!?マジで、すげえ。セレブ?」 「七音君、水着持ってきてるでしょ?」 「うん、もちろん」 「じゃあ、早く着替えて。アキさんも」  美青の待ちきれない様子に 「はーい」 とアキが返事をしながら2階へ上がって行った。 「アキさーん、七音くーん!」  着替えて外に出ると、ユウが川辺から手を振っている。焼け付くような暑さの中、川の水がキラキラと冷たく光るのが目に眩しい。 「良かったねー、ちゃんと来れて」 「ユウ君、ごめんね。心配かけました」  花丘と玉名がソワソワと立ち上がった。 「初めまして、七音がいつもお世話になってます。バンドメンバーの花丘と玉名です」 「初めまして、若葉(わかば)アキです」  アキが頭を下げる。 「すみません、いきなり寝坊で遅刻してしまいまして」 「いえ、お仕事大変なのに七音がわがまま言ったって聞きました。こちらこそ、こんな凄いとこ、招待してもらっちゃって。ありがとうございます」 「いや、僕も招待してもらってる側だから。でも楽しんでもらえたら嬉しいです」  アキを囲んで話していると 「ミオー!」 という叫び声と共に褐色の肌の男の子が全身ビショビショのまま体当たりして美青に抱き着いた。 「うわ、ペドロ。冷てっ」 「ミオ。早く、早く、跳ぼ!」  美青が男の子にせがまれグイグイと手を引っ張られて行く。 「なんだ、待ちきれなかったか?」  美青はTシャツを脱いで川上に向かうとペドロと呼ばれた子や他の子供達と一緒に岩を登って行った。  どうやら登った岩の上から川にジャンプするらしい。  キャアキャアと子供たちのはしゃいだ声が聞こえ岩に上って行く美青の姿を七音たちは下から眺めた。 「いくぞー!」  美青はそう叫ぶと、岩の上に後ろ向きに立ち、勢いをつけて跳び上がるとくるりと後ろに一回転して足先から着水した。  イェーイ、とみんなの歓声が上がる。 「うげ、うっそだろ」  七音は声を上げた。 「わ、さっすが美青君」  アキも驚いている。  続いてペドロが鼻をつまんで走って来ると、岩から飛び出し足から飛び込んだ。一瞬沈んだかと思うと、プハッと水面から顔を出し、美青に抱き着きながら大きく口を開けて笑う。その後も子供たちが次々と飛び込んでは歓声を上げた。 「マジかよ、みんなすげぇな」 「アキは俺と一緒に跳ぼうぜー!」 「おわっ」  後ろからアレックスがアキに抱き着いてきた。 「アレックス重いから絶対イヤだ」  そう言いながらアキがサングラスを外してTシャツを脱ぐ。 「え?アキさんもやるの?」 「もちろん!」  七音を見て笑うと、両手を頭の上に挙げ、うーん、と伸びをして肩を回す。 「イェーイ、アキさん跳べ跳べ!」  ユウが叫ぶ。  アキがアレックスの後ろから岩場を登って行く。岩の先に立つアレックスを後ろから突き落とそうとして、二人でじゃれて笑い合っているのを七音は下から眺めた。  アレックスの分厚い身体が宙に跳んで膝をかかえ尻から着水した。派手な水しぶきに、歓声が上がる。続いてアキが両手を挙げて組み、躊躇なく岩を蹴ると美しい弧を描き見事に指先から着水した。  またしても歓声が上がり、アキが水面から顔を出して頭を振った。  泳いでいるアキにアレックスが肩に手をかけ、沈ませようとする。逃げるようにアキが水に潜るとアレックスが追いかけて潜った。水面が揺れ、ザバッと二人で顔を出して大きく息を吸いながら、またお互いを沈ませようと今度は頭に手をかけ合って派手に水しぶきを上げた。 「俺らも跳ぼうぜー!」  花丘と玉名も岩に向かいながら七音に叫ぶ。 「え?無理無理、あんなのっ」 「バク宙とか無理に決まってんじゃん。普通に上から跳ぶだけ」 「え?マジで?」 「大丈夫、大丈夫。気持ちいいから」  花丘と玉名はもう何度も跳んだらしく、岩場に登り次々に足から飛び込んでいく。  七音も岩の上に立って、下を覗き込んだ。熱い岩肌が足の裏を焼く。想像していたよりもはるかに高く感じて一瞬躊躇するが下から、跳べっ!跳べっ!と皆にけしかけられ思い切って岩を蹴った。  体を投げ出してフワリと宙に跳んだ瞬間、ザブッ、と体に衝撃が走り冷たい水の中に沈む。ゴボゴボと泡にまみれて、キラキラと光る水面を見上げ、水の圧力を感じながら水面に上がって大きく息を吸った。  イェーイ、という歓声が聞こえ、太陽が水面から上げた顔を暑く照らす。 「ひゃー、気持ちいい!」  七音は空に向かって大きく叫んだ。  飛び込んだり泳いだりしているうちに川の水に体が冷えてきて、七音はボトボトと雫を滴れさせながら陸に上がった。  芝の上にバスタオルを敷いて寝転んでいるユウとアキの隣にタオルを敷き、ゴロリとうつ伏せに寝転ぶ。  太陽に焼かれた地面が濡れた体をじわじわと温め、全身がほぐれていく。 「あー、川で泳ぐとか久しぶり。めちゃくちゃ気持ちいい。アキさん、飛び込みうまいね。泳ぐのも」 「うん、ほんと、僕もびっくりした」  ユウも頷く。 「そう?子供の頃、水泳教室行ってたから。でも今日の優勝者は美青君だね」 「美青君はすごすぎ。何あれ。腹筋バキバキじゃん。しかもバク宙で飛び込みとか、カッコ良すぎだろ」 「まーねー。美青、すっごく楽しそう。僕、泳げないから海とかプールとか美青が気を使って一緒に行ったことないんだよね。だから、僕のせいでこういう楽しみ、美青から奪ってるのかもって思ってたからさー。でも、美青のあんな楽しそうなとこ見られて嬉しい。みんなと一緒だと僕を一人ぼっちにしないようにっていう心配もしなくていいしね」 「ユウ君、泳げないの?子供の頃の病気のせいで?」 「うん。病気は治ったけど運動嫌いになっちゃって、泳げないままになっちゃった」  美青は子供たちに囲まれて楽しそうだ。子供たちは一緒に遊んでくれる美青にすっかり夢中でまとわりついている。美青が子供の体を抱え上げグルリと回転させて水に放り投げてやると、キャーキャーと嬉しがりせがまれてはまた投げ飛ばして、を飽きもせず繰り返している。 「そっか。みんなで来れて良かった。七音君に感謝だね」  アキが言う。 「え?俺?」 「うん。七音君が行こうって言ってくれなかったら来てなかった」 「あは、七音君、グッジョブ。楽しいね」  ユウがにんまりとして七音を見る。 「ん、めちゃくちゃ楽しい」  そう言って七音はドヤ顔をユウに返した。  日が落ちて暑さが少し和らいできた頃、芝の上でバーベキューの準備が始まった。  大きなバーベキューコンロに炭が敷かれ、バーナーで火を点ける。  クリスとアレックスが運んできたビールが大量にクーラーボックスに追加され、テーブルが並んでクロスがかかると、皿が並べられていく。  寝転んでいたアキが起き上がった。 「そろそろ準備が始まった。僕らも行こうか。花丘君達はスペインのシュラスコ初めてだよね?」 「スペインのシュラスコ?ブラジルのとは違うんですか?」 「うん、だいぶ違うんですよ。肉を焼くのを見ながら飲み始めよう」  ゴーゴーとバーナーで炭を炙り、火を起こすと、長い牛のあばら部分が何本も運ばれてきた。大きなボールから溢れんばかりの太いソーセージも見える。 「うひゃ!何だあれ。牛、何頭分?」  花丘が声を上げた。 「ナナオ達も今日は思いっきり食えよ!」  アレックスが豪快に笑う。 「もしかして肉のみ?」  美青がこっそりとアキに尋ねている。 「そ、ほぼ肉のみ。あ、チップスはあると思うけど。フライドポテト」 「それ、揚げ物ですよね」 「はは、今日だけは体に悪いとか言うのは無しね。吐くほど肉、食べさせられるから。頑張って」  きゃはは、野菜無しなんて美青、死んじゃうよー、とユウが大笑いする。 「僕、肉好きですっ!」  玉名が叫ぶ。 「おおー、頼もしい」 「いっぱい食おうな」  そう言う七音の腹もかなり空いてきた。  網の上に、大きなあばら肉が乗せられジュウジュウと焼き始める。肉からしたたる肉汁が焦げた匂いの煙をもうもうと立たせ、おおおー、と歓声があがる。 「アキ、ビールくれ。乾杯しようぜ」  アレックスが声をかけた。 「OK」  アキがクーラーボックスの底の方から冷えたビールを取り出し、アレックスとクリスに渡すと、それぞれがビールやジュースを手にコンロの周りに集まって来る。 「!Salud(サルー)!(乾杯!)」  クリスがビールを掲げ、全員でサルーと言いながら一斉に喉を鳴らして飲んだ。  散々遊んで火照った体にビールが心地良く染みていき、夕暮れの夏の匂いと、音楽、人の声のざわめきが聞こえて、夏の夜の解放感がそこにいる全員を包む。  ビールを飲みながらすぐにそれぞれがおしゃべりに夢中になり、七音達も長くなったテーブルでビールを飲みながらなんでもない話で盛り上がった。  七音は炭酸水を飲んでいるアキの隣に当然のように陣取ると 「ちょっとだけビール入れてレモンビールにする?ビール、分けてあげよっか?」 と囁いた。 「うーん、どうしよ。今日、寝不足だからなあ。でも、ちょっと飲もうかな。今日は泊まりだし、いいよね」 「ん」  七音は空いているグラスに自分のビールを少し注いだ。もうちょっと?と顔で問いかけると、アキが首を横に振る。立ち上がろうとするアキの肩に手を置いて、自分が立つとレモンジュースを取ってきてビールの上に注ぎ足した。 「ありがと」  二人で小さく乾杯するとアキがおいしそうに喉を鳴らして飲む。  その白い喉元を眺めながら自分が特別な存在になったようで、七音の胸はドキドキと甘く高鳴った。  肉の焼ける匂いが濃くなってきた頃、アレックス達が焼けた大量のあばら肉が乗った皿を頭上に掲げ 「!Chicos(チコス) ! ! Vamos(バモス) a() comer(コメール)!(みんな、さあ、食べよう)」 と叫んだ。  歓声が上がり、皆が片手にビールやワインを持ってテーブルに着く。日本語やらスペイン語やら英語やらが飛び交い、肉の乗った皿とフライドポテトが乗った皿、切り分けられたバゲットやソーセージが次々と手渡しで回ってきた。 「すげーいい匂い」  アキの隣で七音は声を上げた。 「食べたいだけ食べてね。次々、来るから」  アキが肉を手に取って皆に言う。 「ういっす。頂きますっ」  周りの皆もそれぞれ、肉を手に取ってかぶりついた。 「うっま」  焦げた匂いと共に肉汁が口に広がる。 「どうだっ!お前らっ、シュラスコうまいかっ?」  アレックスが後ろから、さらに大盛りになった肉の皿を七音たちの前にどんっ、と置いた。 「メッチャクチャうまいっ」 「サイッコー」 「当たり前だっ!スペインのシュラスコは世界一美味いんだっ。どんどん食べろっ」  大人も子供も手にした肉にかぶりついて口の周りを油でドロドロにいる様子がなんとも幸せそうだ。 「笑けるくらいうまいな」  花丘も七音の隣で笑っている。 「うん、うまい」 「金持ち外国人の愛人になりてえ。なんか頑張ったら俺、なれる気がしてきた」 「なに、頑張ったらって」 「わからんけど」 「愛人じゃないものになれるよう頑張れよ」  二人で大笑いする。 「日本のボーイズたちには白飯(しろめし)あるけどー?」  クリスの妻の十庭(とわ)が七音達に声をかける。 「白飯っ!?食いたいっ!!」  みなで一斉に手を挙げる。 「アキは?いつもの焼きおにぎりする?」 「作っていいですか?」 「もちろん。私の分も作って」 「かしこまりました」  笑いながらアキが立ち上がると周りで 「俺もっ。焼きおにぎりも食いたいっ!」 「俺もー」 と声が上がる。 「わかった、わかった。とりあえず、今は白米ねー」 「はーい」 「なんか部活の合宿みたいで楽しいわね。寮母さんとかやろうかな、ここで」 「えー、それ、めっちゃいい。ここに音楽スタジオ作ったらさ、ここでレコーディングとか作曲とかできんじゃん。そしたら俺、ここに住みます」  花丘の言葉に 「いい、それー。僕もここで絵、描きながら暮らしたいっ。アキさんもここで本、書いてさ、美青はVIP向けのスポーツジム開いてさ、みんなで一緒に住もうよっ。超楽しそうっ」 とユウが大はしゃぎする。  食べて飲んでおしゃべりして笑って、また食べて、を繰り返し、気が付けば空はすっかり暮れて星が出ていた。  散々食べ散らかし、またさらに飲みながらそれぞれが話をしては笑っているとアレックス達がギターを鳴らし始めた。 「ナナオー、ギター持って来いよ」  アレックスに声をかけられ 「おう」 と気持ち良く酔いが回った体を持ち上げた。 「楽器取りに行こうぜ」 「よっしゃ」  三人でコテージに向かう。 「よし、俺は酔ってるぜっ」  ギターを手に花丘がふらついた。 「俺もー」 「僕、もう喉まで肉が詰まってる気がする」 「タマ、めちゃくちゃ食ってたもんな。お前、腹すげーことになってんぞ」  三人で笑い転げながら(もつ)れるようにアレックス達のところに戻ると早速、玉名がカンタオールからフラメンコの手拍子をレクチャーされてカホンでリズムを打ち始めた。タン、タン、タン、タン、タン、タンと強弱をつけながらリズムを取る。  リズムが揃ってきたところで、ギタリストが弦を弾き始めた。  それに合わせてアレックスが重ねて簡単なコード進行を弾き、花丘と七音が真似をする。  リズムとギターが重なり合い、最初は単調だった音がだんだんと複雑に絡み合って音楽になって夏の夜空へと響き始めた。  周りもいつの間にかおしゃべりをやめて聴き入り始める。  6人で合わせる音が段々早くなり、勢いが付きすぎてバランスが壊れそうになる一歩手前で、ギタリストが頷き、演奏が終わった。 「!Ole(オーレ)!」 と声がかかり、拍手が起こる。  七音は前髪を掻き上げ、ユウたちと話しながら手を叩いているアキを見つめた。  もっと俺だけを見てくれたらいいのに。  もっと、俺の気持ち、伝われ。  そんで俺のことだけでいっぱいになればいい。  七音はリズムに身を委ね、身体の芯からユラユラと沸き上がるアキへの気持ちをギターの弦に込めて思い切り強く(はじ)いた。    目が覚めると、部屋の中はすっかり明るい。ぼんやりした頭で携帯を見るともうすぐ昼だった。 「うわ」  まだアルコールの抜けていない体を無理矢理起こし、熱いシャワーを浴びるとやっと目が覚めてくる。  アキさん達はもう起きたかな。  着替えて二階にあがろうかどうしようか迷っているとガチャリと音がしてドアが開き、美青が入ってきた。 「あ、おはよう、七音君」 「んあー、おはよう」  声がガラガラで自分でもびっくりする。 「あは、すごい声。二日酔い大丈夫か?アキさんとユウが外で朝食食べてるから一緒にコーヒーでも飲んできなよ」  二階に一段飛ばしで駆け上がって行く美青の健やかな姿に羨望の眼差しを向ける。 「ん、サンキュ」  そう言って外に出ると、眩しい夏の日差しが容赦なく目を刺してきてクラクラする。  芝の上に張ったテントの下でアキとユウが十庭と話をしているのが見えた。  近寄って行って 「おはようございます」 と声をかけると、3人が一瞬ギョッとした顔をしてから笑い出す。 「おはよう、七音君」 「おはよー」 「おはよ。七音君、コーヒー?紅茶?」 「あ、じゃあ、コーヒーを」 「トーストでいい?昨日の残りのご飯もあるけど」 「あ、トーストで」 「OK」 「あ、すみません、お話し中だったのに」 「ゲストなんだからそんなこと気にしなくていいの」 と言い残して、十庭がコテージの方に向かって行く。  「すっごい声。ウケる」  ユウに言われて 「んー。こんなになると思わなかった。喉、カラッカラ」  こんなになるまではしゃいだ自分がおかしくて笑ってしまう。 「何時に寝たの?」 「うーん、わかんないけど、朝5時くらいかな」 「それでよく起きられたね。夕方くらいまで寝てるかと思った」 「アキさんは何時に起きたの?」 「僕もさっき起きたところだよ。昨日は早くにダウンしちゃったのに」  テーブルにはまだ食べかけのトーストやゆで卵が載っている。 「すごい眠った。家よりよく寝たかも」  アキがすっきりとした顔で言う。 「うん、ここのベッド、フカフカで気持ち良かったー。しかも、ゆっくりと外で朝ごはんとか最高過ぎる。本気で住みたい」  ユウがゆで卵を剥いてパクリとかぶりつく。 「お待たせ」 と、十庭がトレイに載せて朝食を運んできてくれた。  半分に切ってカリカリに焼き上げたバゲットから香ばしい匂いが漂い、胃を刺激する。  ゆで卵と瑞々しいレタスにスライスしたチーズ、バターやジャム、なにやら赤いペーストが入った小皿が目の前に並ぶ。  熱いコーヒーとオレンジジュースが汗をかいたグラスにたっぷりと注がれていて、七音の喉がゴクリ、と鳴った。 「おわー、ありがとうございます。すげえ」  搾りたてのオレンジジュースが細胞にまで染みわたっていく。 「これなに?」  七音は赤いペーストの入った小皿を手に取ってアキに訊いた。 「トマトのペースト。ガーリックとオリーブオイルが入ってて、トーストに塗って食べるとおいしいですよ」 「へえ」  早速、バゲットにつけて食べてみると塩気とトマトの酸っぱさが口の中に広がった。ほんのりガーリックの匂いがして、酒が残った体にも優しく、たまらなくおいしい。 「うわ、うまい」 「ねー、アキさんも時々、作ってるよね」 「うん。でも十庭さんが作るほうがおいしいんだよな。自分で作ると何か物足りない」  アキもそういいながらバゲットを齧る。 「七音君、二日酔いでもちゃんと朝ご飯食べられるんだね」  美青がヨーグルトを乗せたトレイを手に合流した。 「うん、結構、平気。ってかうますぎ。最高」 「ほんと、すごい声だな」  美青が笑う。 「でも、七音君の生演奏と生歌、聞けて興奮しちゃったー」  ユウがそう言うと 「うん、ほんと。僕も感動してしまいました」 とアキも頷く。 「え?マジで?じゃあさ、今度の夏フェスみんなで見に来てよ」 「え?行く行く!行きたい」  ユウが身を乗り出す。 「へぇー、夏フェスかぁ。いいですね。楽しそう」 「思いっきり楽しませるよ」  七音は昨日から続いている高まった熱を込めてアキに向かってそう言った。    ジャグジーに入ったり、日光浴したりと、のんびり過ごし夕方近くになって、七音たちは帰りの車に乗り込んだ。  遊び疲れて運転手の美青と助手席のアキ以外は皆、とろとろとまどろんでいる。 「途中で運転代わるからね」 「大丈夫ですよ。アキさんも疲れてるでしょう。眠って下さい」 「うん、ありがとう。いつもよりよく寝られたしゆっくりさせてもらったから大丈夫。美青君、ありがとうね。色々、気、使わせたんじゃない?最初っから、僕、遅刻しちゃって迷惑かけちゃうし」 「あはは、そうでしたね。昨日のことなのに、ずいぶん前のことみたいだな。濃い2日間でした」 「ほんとだよね。美青君は楽しめた?」 「はい。あんなに全力で遊んだの久しぶりです。子供たちかわいかったし。ユウもあんなに楽しそうで、来て良かったです」 「そっか、楽しめたなら良かった。また来年、みんなで来られるといいね」 「そうですね、是非」  七音は後部座席で、アキと美青の会話をウトウトしながら聞いていた。  また来年、みんなで。再来年も、その次も、この先ずっとアキさんと一緒に何度も夏を過ごせたら最高だな。  そんなことを妄想して幸せに浸った。  集合場所に戻って来て、夏休み明けの子供のように赤く日に焼けた鼻で七音たちは車から楽器をおろした。 「アキさん、ありがとうございました。色々と話できて良かったです」 「僕も。素敵な生演奏、聴かせてくれてありがとう、花丘君。玉名君も。七音君は、またナナシで」  じゃあね、と手を振って車で去って行くアキたちを見送り、七音は別方向の玉名と別れて花丘と歩き出した。 「ちょっと名残惜しいし、飲みに行かねぇ?」  花丘の言葉に 「まだ、飲むのかよ」 と笑いながらも頷く。  ザワザワとうるさい居酒屋が、無理矢理に現実へと七音を引き戻すようで、少し寂しい。  遊び疲れた体はすぐに酔いに染まった。 「で、七音はアキさんに自分の気持ちは伝えられたの?」 「んー、はっきりとは伝えてない。引かれたら、って思うと怖いし。でも、確実に伝わってると思う。こないだなんとなく振られた」 「へえ。珍しいね、お前がそんなこと言うなんて」 「んー、だよな。自覚あるわ」 「お前が人とあんなに近い距離にいようとするの初めて見たかも」 「近くねえよ。アキさん、全然近寄らせてくんねーの。近づいたかと思った瞬間、すぐ離れんだぜ。もう、どうしたらいいかよくわかんねーよ。俺ばっかりが必死になってるみたいで嫌んなる」 「お前がそれを言うかね」  えー?と、七音が酔った顔を上げた。 「七音君、そういうのは普通一〇代で知ることなんだよ。それはね初恋というの」 「はつこいっ」  七音と花丘は顔を見合わせて爆笑する。 「二八歳にもなって初恋って、だっせぇ」  七音は涙が出るほど笑った。 「いやいや、何言ってんの、めちゃめちゃカッコいいよ」 「そっかな」  笑い過ぎて喉の奥が痛み涙が止まらない。 「初恋って結構つらいのな」 「初恋は切ないものなんだよ」 「なんだそれ、やっすいセリフ」 「なんだとぉ。俺にはな、金持ちの愛人になるっていう夢ができたっ」 「なんだよ、それ。そんなん、夢じゃねえっ。邪心(じゃしん)だっ。(よこしま)なこころっ」 「なんだよ、お前っ!恋を知ったからって、急に偉そうになるんじゃねーよ」  腹を捩らせながら二人は笑い転げた。 「じゃあ、あさってスタジオでなー」 「おー、またあさって」  深い酔いを引きずりながら家に帰る。 「初恋かぁ」  体を捻ればあちこちからアルコールが滲み出てしまいそうな体をベッドに投げ出し、すでに幻のようになっていく2日間の記憶を頭の中に保存しながら七音は眠った。           *   *   *   *   *  オーベルジュから帰って来てすぐ、七音は野外フェスティバルや音楽監修という現実に追われ、アキも大阪に帰ってしまい会えないまま夏は過ぎた。  アキと再会できたのは夏も終わり、夜は肌寒く感じる頃になってからだった。  久々にナナシに足を運び、窓際のいつもの席にアキの背中を見つけて七音は速足で近づいた。 「アキさん」 「あ、七音君、今日は」  アキがパソコンから顔を上げて眼鏡を外す。少し痩せたように見えたが、いつもと変わ らない様子のアキに自分ばかりが会いたがっている気がして七音は苛立った。 「ども」  久しぶりに会えて、どうしようもなく嬉しいのにひどく不機嫌に答えてしまう。  オーベルジュではかなり距離が近くになったと思ったのに、また距離を取られたようでもどかしい。  会えない間、七音は毎日アキに連絡しようかどうしようか迷いながらできずにいた。   いつ帰ってくるのかも、次、いつ会えるのかも、今、どこで何をしているのかもわからない。かといって気軽に電話するような距離感はとっくに見失っている。 「お待たせ致しました」  神島(かしま)が持って来てくれたアメリカンを言葉を見つけられないまま啜っている七音にアキが優しく話しかけてきた。 「ユウ君と美青君が夏フェス、楽しかったって言ってました。すごく盛り上がったんだって?行けなくて残念だったなあ」 「別に、いいけど」  残念なんだったら来てくれれば良かったのに、と言う恨みがましい言葉をなんとか飲み込む。 「ユウ君が今度、花丘君達と一緒にアレックスの店に行きたいって」  第三者を介入させるような会話を続けるアキに苛立ちがマックスになる。 「アキさんにすげー会いたかったっ。電話したかったし、声が聴きたかった。ほんとはステージの俺、見て欲しかったのに。俺、もっと、アキさんとの時間が欲しい」  七音は我慢できずにアキの話を遮った。 「そう?今でも結構な時間、一緒に過ごしてない?」  アキの声は穏やかなのにやたらと七音の鼓膜を震わせる。 「今のままじゃあ、駄目なの?今でもすごく楽しいじゃない」 「そうだけど。そうじゃなくて、アキさんを独り占めしたい。もっと特別になりたいんだって。いつでも電話して良くて、いつ帰ってくるのか知っていて、今、何をしてるか訊いても良いような、そんな、一番近い・・近くになりたい」  七音はついにそう言ってしまった。 「そう?つき合うより、つき合う前のほうが楽しいままでいられると思うけど?今だっていつ電話してもいいし、何を訊いたっていいじゃない」 「そういう曖昧なのはもう嫌だ」 「つき合ったら、お互い嫌な部分が多くなると思わない?」 「そんなことない。嫌な部分も好きになっちゃうもんだろ?」 「そうかな。最初はそうかもしれないけど、そのうち、日々の小さな嫌なことが増えていくよ?不安も積み重なったりしてさ」 「小さな嫌なことって?」 「えー?」  そう言ってアキはしばらく考え込む。 「加齢臭がひどいな、とか」 「アキさん、加齢臭ひどいの?」 「自分ではわかりません」 「俺にもわかんない」 「えーと、じゃあ、居酒屋さんでおしぼりで顔とか首とか拭いちゃったりして、おじさんぽくて嫌だな、とか」 「アキさんおしぼりで顔とか拭いてた?」 「そんな気持ちの悪いこと絶対しません」  七音はいつものように笑う気になれず、憮然としてアキを見た。その視線に、はあ、とアキがため息をつく。 「仕事で遅くなって、メッセージの返事もなくて、ああ、今頃、若くてかわいい子と楽しい時間を過ごしてるのかな、って思っちゃったりとか」 「うん」 「若い女の子とただ仕事の話をしてるだけなのに、やっぱりそっちのほうがいいよな、とか、勝手に傷ついて、勝手に機嫌悪くなって、とか。そういうの嫌だな、って思いませんか?」 「そんなこと俺に思うの?アキさんは?」 「そりゃ、思うようになるでしょうねぇ、お付き合いするようになれば」  アキは頬杖をついて視線を彷徨(さまよ)わせる。 「それに、いついなくなるかわからない不安な気持ちを抱えて生きるのは、もうしんどいな。人って急にいなくなる時があるから」 「今は?思ったことない?俺に?」 「今はないです」  はっきりと言われて深く傷ついた。 「俺はもう、アキさんに思ってる。とっくに、何度も、いつでも。そんなの、ズルいよ、俺ばっか」  あまりの傷の深さに完全にコントロールを失う。 「勘違いさせたのかな。僕も楽しかったからつい。ごめんね、七音君。でももうこんなおっさんと会うのはやめて、もっと同年代のかわいい子との時間、過ごしてよ」 と突き放される。 「前は彼女がいたんでしょう?」 「・・いたけど」 「どうして別れちゃったんですか?」 「話が・・」 「うん」 「聞こえなくなって、雑音になっていって、ゴミみたいに床に積もっていった。覚えていない会話とか、壊れて汚れた言葉が部屋いっぱいに転がって」 「ああ、そっか。それは七音君にとってはすごくつらくてしんどいことですよね」 「うん」 「僕とはつらくなって欲しくないんです。七音君とはずっとこうして楽しく話ができるままでいたい。ここではいくらでも独占していいし、何を訊いたっていいよ。七音君は聞きたいことだけを聞いて、覚えておきたいことだけを覚えておいて。ね?」  違う、違う。アキさんの話は全部、覚えてるんだよ。だって全部が特別だから。  そう言いたいのに、言葉が出てこない。  そろそろ甘い物食べようか、そう言ってアキはこの話はもう終わり、と言うように立ち上がった。

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