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 ナナシでアキに気持ちを打ち明けたのになんとなくかわされてしまい、うまく対処できないまま一ヶ月が過ぎた。  もう会わない、と言われたわけではない。むしろ、独り占めして良いし、何を訊いても構わない、とさえ言われたのにも関わらず、振られた感が満載で、前にも後ろにも進めなくなってしまった。  映画の音入れが忙しくなってきたことを言い訳にして会いに行っていない自分をかろうじて保っている。  初めての映画音楽に四苦八苦しながらも、なんとか監督の事務所で作業を進めていたところでユウと出くわした。 「あー、七音(ななお)だっ。お疲れー」 「あ、ユウ、お疲れ様」 「元気?」 「うん、まぁ」 「やだなぁ。七音、全然元気ないくせにー」  ズバリと言われてウッと喉を詰まらせる。 「アキさんに振られた?」 「うあ、ちょっとっ」  慌てて編集室へとユウを引っ張り込んだ。 「アキさんがなんか話した?」 「えー?アキさんがそんな話、するわけないじゃん。でもまたちょっと元気ないから、何かあったのかなぁー、って思っただけ。そしたら七音はもっと元気ないからさ。当たり?」  ユウの勘の鋭さとにんまりとした笑顔につい白状してしまう。 「別に、振られたってわけじゃない・・と思うけど」 「えー?何、はっきりしないな。もう、今からうちおいでよ。美青(みお)と話聞いたげる」 「今から?いいの?」  このモヤモヤとした気持ちをぶちまけてしまいたい。そしてアキが元気がない、というところをもっと詳しく聞きたい。 「行こ行こ。ピザとってさ、グダグダしゃべろうよ。誰か来たときはピザ取ってもいいことになってるんだー」  ユウが早速、美青にメッセージを送り始める。 「んー、じゃあ、行こうかな」  進まない作業にも疲れて七音はユウの言葉に頷いた。 「七音君、いらっしゃい」 「お疲れっす、悪い、美青。急に来ちゃって」  初めてのユウと美青の家に興味を引かれながら上がり込む。 「どうぞ。どうせユウが無理矢理呼んだんだろ」 「違うよ、七音がアキさんに振られたーって泣きついてくるからさ」 「泣きついてねーだろ。振られてねーし」 「ピザでも食べながら話きいてあげようかー、ってね」 「お前がピザ食いたいだけだろ」  美青が携帯で注文しながら笑う。 「なに、普段はピザ禁止なの?」 「禁止はしてない。なるべくちゃんとしたもの食べるように心掛けてるってだけ。ユウは放っておくとジャンクフードしか食べなくなるから。七音君は何ピザがいい?」 「あ、俺、具がいっぱいのってるやつ」 「あー、これ?スペシャル?」 「おー、それそれ」  ユウが冷えたビールをドン、とテーブルに置き、準備万端と言った顔で目の前に座る。 「んで?何があったの?」 「えー?何って、特には何も?」 「そんな顔して、何もないことはないだろ」  美青に訊かれるが 「よくわかんないんだよ」 と曖昧な返事しかできない。 「もう、こっちがちっともわかんないよっ」 とユウがもどかし気に口を尖らせる。  七音は少し考えてからナナシでのアキとの会話を思い出せる限り詳しく話した。 「それって振られたってことなんじゃないの?」  美青があっさりと言う。 「え?そうなのかな」 「振られたっていうか、その気はないっ、て言われたようなもんじゃないか?」 「あー、まー、そうね。やっぱそうだよな」  届いた熱々のピザの先端を七音は齧った。 「でもさ、いくらでも独占できるし、何を訊いたっていいよ、って言ったんだよ?素直に受け取れば結構良い返事じゃね?」 「まあ、そうだね。素直に受け取ればね」 「だったら振られてねーじゃん」 「いや?どうかな。印象的には振られてる感じするんだけどな」 「それを言うなよ。そこ、気になってるとこなんだからさ」 「あはは、ウケる、二人とも」  七音と美青のまとまらない話を聞いてユウが笑った。 「ウケてる場合じゃないんだけど。ユウが話し聞いてくれるっつーから話したのに」  七音は八つ当たり気味にユウに絡んだ。 「そんなに焦んなくても大丈夫だよ」  断言するユウに七音は前のめりになった。 「え?何で?何でそう思うの?」 「だって、本当にダメならアキさんのことだからとっくに姿消してると思うよ。そう言いながらもまだ七音の前にいるってことは、そういうことでしょ。今はまだタイミングが合わないってだけでさ。もうちょっと待ってみなよ」  ユウはピザの上のピーマンをつまんで除けながら言う。 「姿消す?」 「うん。ほんとに嫌ならね」 『人って急にいなくなる時があるから』というアキの言葉にゾワリとした。もう一ケ月も顔を見ていない。 「アキさん、姿消してないよな」  七音の言葉にユウが笑う。 「だーかーらー、してないってば。アキさん、七音に会いたいんだって。それなのに七音が会いに行かないから元気ないんじゃん」 「そうなの?」 「そうだよ。だってさ、アキさん、初めてSeven(セブン) の歌聞いたとき、珍しくはしゃいじゃってさ」 「へ?そうなの?いつのこと?」 「えー?去年、初めて七音に会ったでしょ?その前だから、おととしくらい?」 「そんな前から?」 「カッシーニの間隙っていう詩、書いてる人がいるって、大喜びでさ」 「大喜び?」 「うん。アキさんのデビュー作って、カッシーニの間隙を目指して冒険する話じゃん?嬉しかったんだと思う」 「は?どういうこと?」  初めて聞く話に七音は衝撃を受けて尋ねた。 「あれ、知らなかった?七音、アキさんの作品、全制覇するって」  ユウが首をかしげて言う。 「あー、そっか。あの本はペンネームで出してたから、わかんなかったんだね」  ユウは立ち上がって色のすっかり褪せてしまった表紙に土星の絵と少年達が描かれている一冊の本を持ってきた。 【星の隙間の物語   天音(あまね) (せい)】 「これ、貸してあげる。今はもう絶版になってて、手に入らないと思うから絶対、汚したりしないでよ。僕もこれしか持ってないんだからね。読んだらすぐ返してね」 「あまの、せい?」 「うん、当時の担当さんがつけた名前らしいよ」 「カッシーニの間隙(かんげき)が・・出てくる?」 「そう。宇宙を旅する話でね、土星の輪っかの間に吸い込まれた友達を探しに行くっていう・・。七音?どした?」  七音の顔が強張っているのを見てユウが驚いた。  待って・・。  カッシーニの間隙は、二十年前にもうアキさんが使っていた言葉だったのか? 「嘘・・」  だって、俺の詩から借りたい言葉だって。  七音の記憶と時間がまた前後してしまったような感覚に囚われ、ドクドクと心臓が音を立てた。 「あ、ごめん。なんか、気分悪い。帰るわ。本、借りていく。ありがと」 「七音君?ちょっとっ」  驚いた顔のユウと美青に礼を言うと七音は急いで家に帰った。  どういうこと?  言葉の貸し借りは重罪って。  俺には甘く響いたその言葉は、アキさんにとってはもしかして、本当に俺を罰する為のものだったのか?  次々に湧いてくる嫌な感情に、思考が追いつかない。記憶の中のあの時のアキの顔は楽しそうで、どこか嬉しそうだった。 「どうして、そんな言葉を・・?」  七音は本を手に取ると、答えを探すかのように急いでページをめくり始めた。   【星の隙間の物語   天音 惺】  いつも一緒の小学5年生の少年3人組、(そら)慧斗(すいと)、そして(せい)。  夏休みにみんなで遊びに行く約束をしていたのに宙が来ない。  慧斗と惺が宙の家に行ってみると、宙の家は消えてそこにはぽっかりと黒い穴が開いていた。  その穴を2人で調べて行くうちに、穴が宇宙へと繋がっていて、宙は宇宙へと落っこちてしまったことがわかった。  2人は宙を見つけに行くためにその穴に深く入っていく。  宇宙を旅していくうちに土星の輪っかの隙間『カッシーニの間隙』に2人は辿り着く。  輪っかの隙間に吸い込まれてしまった宙を探して2人はさらなる深部へと向かう。 そして最深部に囚われていた宙と再会し、3人で脱出するために、宇宙の謎を解き明かしていく。  七音が本を読み終えたのは明け方だった。  ウイスキーをチビチビと飲みながら本を読んでいた七音は読み終えると、酔いと疲れと混乱でソファに倒れ込んで気を失うようにして眠った。  昼をだいぶと過ぎた頃、ようやく目を開ける。頭がずきずきと痛んで、全身がだるい。  しばらく二日酔いの頭でぼんやりとソファに寝転んだまま天井を眺めた。  なぜ、アキがあんなことを言ったのかを何度も考えてしまう。本を読めば少しは何か分かるかと期待したが、何も見つけることができずにますます混乱しただけだった。  起きたばかりで喉が渇いているのに、七音はまた目の前にあるウイスキーで喉を湿らせた。  なんで?  俺がさも自分の言葉のようにアキさんの言葉を使っていたから?  いつ気付くのかと、アキさんは俺を試したのだろうか。  それとも、やはり罰したかった?  人の言葉を借りていることに気付かず、能天気にそばにいる俺を。  アキの言葉が聞きたくて、ずっとアキを求めてきた。  静かな声で俺が動揺するとうんと優しく話してくれて、ちょっとだけ嘘をついたり着地点のおかしな話をしてくれて。  それも全部、本当はいつか、罰を下すためだったのか?  七音の思考はどんどんとアルコールのせいで堕ちていく。  ソファの上でドロドロになった思考と浅い眠りを繰り返し、気が付けば外は暗くなっていた。  こんなになってもまだアキさんに会いたいなんて。  あの静かな声が聴きたいなんて。  嘘ですって、いつもみたいに言って欲しいなんて。  グズグズになった気持ちのまま外に出て、気が付くと、アキのマンションの下まで来ていた。  七音は暗い感情を抱えたまま、インターホンを押した。 「はい」  耳に響くアキの声に感情が抑えられなくなる。 「俺」 「え?七音君?」  オートロックのドアが開き、ヨロヨロと部屋の前まで行くとインターホンを鳴らすより先にドアが開いた。  飛び出してきたアキが驚いた顔で七音を見る。 「どうしたのっ。何かあった?」  七音はアキを押し込むようにして自分もズルリと体を玄関の中に入れた。 「七音君?」 「アキさんのほうが先に使ってたんだね、カッシーニの間隙。二十年も前に。何だ、俺に許可とかって必要なかったじゃん。俺を試したの?いつ気付くかどうか?それとも、俺に重罪を犯してるって警告してた?罰したかった?」  七音の荒れた言葉にギクリとアキの顔が強張った。 「もしかして、デビュー作、読んだの?」  そうだ、俺はどこかで信じていた。  何度突き放されても、アキさんも俺のことを求めてくれているって。  でも、違ってた。  全部、俺の勘違いで、全部、俺の独りよがりで・・。 「嬉しかったのに。俺、一人で舞い上がっちゃった。二人だけの死ぬまでの秘密とか言われて、二人で犯した重罪も結構、シビれたりして。ずっと、俺の事、笑ってたの?バカみたいって思ってた?」 「まさかっ、そんなわけないっ」  アキの冷たい指が酔った七音の頬に触れた。 「ちゃんと説明するから聞いて。お願い」  整った顔が苦し気に歪むのを見て、七音の堕ちた感情が一気にうねる。 「俺を罰したいのなら思い切り罰しなよ。その罰ごとこの手で全部壊してやるよ」  七音は頬に触れているアキの手を力任せに掴んだ。 「痛っ」  アキが痛みに顔をしかめるのも構わず、壁に押し付け無理やりキスをした。歯がぶつかり、無理矢理舌をねじ込むと強く唇を吸う。 「んんっ」  アキが逃げようとするが、七音は力いっぱい押し付けて逃がさなかった。そのままズルズルと二人でしゃがみ込む。七音はアキの両手首を骨が軋むほど強く握って床に押し倒した。ゴツッと嫌な音がして、アキが痛みにウッと息を詰まらせる。 「やめて」  アキが呻く。七音は構わず首筋に強く吸い付き、思い切り歯を立てた。ゴリ、と歯に筋が当たる感触がして、鉄のような味が口に広がる。 「痛いっ、ヤメッ」  アキの小さな悲鳴が聴こえた瞬間、七音の体が後ろに吹っ飛ばされた。しりもちをつき勢いで背中をドアに打ち付ける。 「あ・・」  扉にぶつかった衝撃で七音は我に返った。腹がズキリと痛む。 「あ、七音君、ごめ・・」  蒼白になった顔のアキが首筋を押さえているのを目にして、七音は全身の血の気が引いた。    パニックになり夢中でドアを開け走り出す。 「七音君、待ってっ」  アキの叫び声が聞こえたが、その声から全速力で逃げ出した。  どこをどう走っているのかわからないまま、走り続け、息ができなくなって立ち止ると胃の中の物を勢いよく吐き出す。 「最悪・・」  四つん這いになって何度も嘔吐いては昨日から飲み続けた酒を盛大に吐き出した。胃がひっくり返るかと思うほど吐き尽くし、ヨロヨロと立ち上がると靴にもズボンにもシャツにも吐瀉物をつけたまま電車に乗る。乗客達が眉を顰めて七音を遠巻きに見ているのも構わず、そのままなんとかユウと美青の家に辿り着いた。 「七音君っ?!」  ドアを開けた美青が驚きながらも、部屋に招き入れてくれる。 「誰?うわっ、くっさ。七音っ?!何っ、きったねー!ちょっとっ、怖いんだけどっ」  ユウが入ってきた七音を見てソファの上に立ち上がり叫んだ。 「どう言う状況でそんなんなってんの?」  美青が腕組みをして七音を見る。 「酔って、走って、ゲロ吐いた」 「昨日、急に様子がおかしくなったけど、アキさんに関係してるよな?」  七音は二人に見つめられる中、声を詰まらせながら一部始終を話した。 「サイッテー、サイテー、サイテーッ。七音のバカッ。クズっ、ゲス野郎っ」  ユウが七音に向かって喚いた。 「で、押し倒してどうしたの?まさか、無理矢理・・」 「してない。アキさんに腹、蹴られて、俺、逃げ出して」  はぁー、と美青が息を吐く。 「最っ悪。七音のこと見損なったよ。マジであり得ない。もうちょっと待てって昨日言ったよね!?」 「ユウ」 「それ、どんなにひどいことしたかわかってる?拒否ったのだってアキさんの優しさだからねっ。七音にひどいことさせないようにって七音を守ったんだからねっ」 「ユウ、ちょっと黙って。で?その後は?」 「走って逃げてきて、気分悪くて。もうどうしていいかわかんなくて」 「信じらんないっ、アキさん傷つけて逃げて来るなんてっ。僕、もう一生、七音とは口きかないっ」 「うるさい、ユウ。ちょっとお前、あっち行ってろよ。話が進まない」 「どうしよう、俺、全部壊して、アキさんに嫌われた。アキさん傷つけたっ」  七音は頭を抱えた。 「はぁ?バカじゃないの?嫌いになんかなるはずないじゃん。七音のことめちゃくちゃ大事にしてんのに。そんなんも気づかないなんてさ、ホントにバカ。世界一バカ。宇宙一バカっ。今頃、アキさん、死ぬほど心配してるに決まってるよぉ。なんでわかんないのっ」  ユウは半泣きだ。 「もう、いいって、ユウ。で?アキさんから連絡ない?」 「携帯、失くした」 「は?どこで?いつ?」 「わかんないけど、多分、ここ来る途中。ケツポケに無い・・」 「先にそれ言えって。とりあえずアキさんに知らせないと。俺から連絡するけどいいよね?」  鼻を啜りながら七音は頷いた。  美青がベランダで電話をする姿を滲んだ視界で見つめる。 「アキさんが心配してた。怪我してないかって」  美青の言葉に目や鼻から大量の水分が溢れ出す。 「電話繋がらないから事故にでも遭ったんじゃないかって怖かったって」 「なんで、俺の心配なんか・・」 「今日はここに泊まるって言っておいたから。七音君をよろしくだってさ」 「アキさんは・・、大丈夫?」 「大丈夫って言ってはいたけど、どうだろ。声が震えてたよ。アキさんの大丈夫は信用できないの、七音君もよく知ってるだろ。とりあえず臭うからシャワー浴びてきて。汚れた服、全部洗濯機放り込んどけよ」  美青に言われて浴室に入り、段々、冷静になってくると今度は、もしかしたらアキを失ってしまうかもしれない、という恐怖に体が震えてきた。 「もう、最悪・・」  シャワーから出ると、まだ怒った顔のユウが待っていた。冷たいスポーツドリンクを押し付けられる。 「運命の人に会ったら何があっても手を離しちゃいけないけど、何をしてもいいってことじゃないんだからね。なりふり構わずって、そういう意味じゃないから」  ユウの言葉に七音はうなだれた。 「明日、アキさんに謝りに行って許してもらえるまで何回も謝るんだよ。ま、そんなことしなくっても許してくれると思うけどさー」  美青が準備してくれたソファベッドに腰かける。 「うん」 「わかるよ、七音が辛くって苦しくってしんどくって悔しいの。自分のいない過去がたくさんあんのに、どんなに頑張っても絶対それは取り返せないもんね。だけどさ、それはしょうがないじゃん。アキさんは七音のこと、これ以上好きになるのが怖くてたまんないんだよ。だって今度、大事な人を失ったらアキさんはきっともう耐えられない。だから七音は絶対、絶対アキさんを諦めないで。お願い。僕、二人が一緒にいるとこ見るの大好きなんだ」 「ユウ・・、ごめんな。アキさんはユウの神様なのに」 「ん。大事にしてあげて。じゃね、お休み」 「・・おやすみ」  俺、ほんとバカだな。  どっちが先かとか、どっちの言葉かとか、そんなことどうでも良かったのに。  ずっと同じもの見てたんだってことのほうが奇跡だった。  アキさんと言葉を共有できて嬉しかったこと、もっと大事にしなきゃいけなかった。  共有って分かち合うもんだって、自分で言ったくせに、何で壊していいと思っちゃったんだろう。  七音はグルグルと回る思考に溺れるようにして眠った。 「昨日はほんとにごめん。ありがとう」  目が覚めてあちこちが痛む体を起こすと、キッチンでコーヒーを入れている美青に声をかけた。 「あ、七音君おはよう。二日酔い、大丈夫そう?」 「うん、大丈夫。昨日、全部吐いちゃったし」 「そっか。すげー目は腫れてるけど。まあ、アキさん傷つけたバチが当たったな」  差し出されたコーヒーをしょぼしょぼと瞬きしながら受け取る。 「サンキュ」 「今日、アキさんに会いに行けよ」 「うん。・・まだ間に合うかな」  七音は不安気に訊いた。 「大丈夫だよ。昨日、アキさん、あちこち七音君のこと探してたみたい。大事じゃなかったらそんなことしないだろ」  胸がズキリ、と痛む。 「嬉しいよな、誰かがそうやって自分のこと、心配したり、想ったりしてくれてるの」 「うん」 「アキさんのこと大切にして欲しいのはもちろんだけど、自分のことも大切にしないと。でないとアキさん守れないよ」 「うん、わかった」 「朝飯、食ってく?」 「ううん、いい。携帯買いに行ってアキさんに連絡する」 「うん、そうしな」  洗ってもらった服に着替えて七音は部屋を出るとその足で携帯ショップへと向かった。  新しい携帯を手にしばらく躊躇していたが、思い切ってアキに電話をかける。ずっと七音からの連絡を待っていたのだろう、すぐにアキが電話を取った。 「七音君?」  アキの声で全身が満たされていく。 「アキさん」 「おはよう。よく眠れた?」 「うん」 「良かった。怪我とかしなかった?」 「大丈夫」 「ごめん。七音くんを傷つけた」 「アキさん、俺、ごめんなさい」  アキの謝る声と七音の謝罪の言葉が被る。 「アキさんに会いたい」 「うん、僕も。夜でもいい?今から、取材で出かけなくちゃいけないんです」 「うん。いつでもいい。待ってる」 「分かった。後で連絡しますね」  アキはそう言うと電話を切った。  いつから俺、こんなに制御不能になったのかな、と七音はため息をついた。  あんな風に相手をねじ伏せるようなことをする人間じゃなかったはずなのに、と情けなさを通り越して怖くなる。  ボロ雑巾のようになったメンタルを引きずって一日を過ごしていたが、 9時頃になってしまうけど、いいかな? というアキからのメッセージに、待ちきれなくてマンションの前まで来てしまった。  しばらくぼんやりとマンションの前の石垣に腰かけていると、遠くから駆けてくる足音が聞こえた。 「七音君?ごめん、遅くなった。寒かったでしょう?」  ハァハァと息を切らせながらアキが走ってくる。 「アキさん」  七音は思わず目の前に立ったアキの腰に手を回して抱きつくと腹に顔を埋めた。 「良かった。もう会ってくれないかと思った」  アキの冷たい指が髪の間を梳くように撫でる。 「ごめん、待たせちゃいましたね」 「怖かった。アキさんを失うかもと思ったら死ぬほど怖かった」 「うん。僕も怖かった。昨日、電話が繋がらないし、お腹、思い切り蹴っちゃったから具合悪くなってたらって、怖かったです」 「心配させてごめん」 「ううん、無事で良かった。七音君、夕食は?もう食べた?」  七音はやっとアキの体を離して顔を見上げた。 「まだ」 「僕もまだ。一緒にご飯を食べませんか?もうファミレスぐらいしか開いてないけど何か温かいもの、一緒に食べよう」  アキが七音の前髪を掻き上げ顔を覗き込む。 「うん。行きた・・」  アキの綺麗な顔が近づいてきて、前髪が七音の顔にかかった。一瞬、アキの柔らかい唇が七音の唇に触れ、あっ、と思って唇を追いかけようとした時にはもう離れてしまう。 「じゃあ、行こうか」 「あ、待って」  慌てて七音は立ち上がり、アキの後を追いかけた。  平日の九時を過ぎたファミレスの店内はあたたかい空気で満たされていて、どことなく懐かしい。 「久しぶりだな、ファミレス」 「俺も。昔は花丘達とよく来てたけど」 「へえ、なんか、羨ましいな。ずっと一緒にやってきたメンバーがいるのって」  アキがハンバーグにナイフを入れる。 「アキさんにだって、ユウと美青がいるじゃん」  アキの笑った顔を見てホッとすると急に腹が空いてきた。  ジュウジュウと鉄板の上で音を立てているステーキを頬張り、肉汁とバターの味を噛みしめる。 「そうだね。あの二人がいてくれてすごく助かってる。頼りっぱなしで申し訳ないぐらい」 「昨日、ユウにめちゃくちゃキレられた」 「あはは、想像つく」 「でも、美青のほうが怖かった」 「美青君、怒ると迫力あるからね」 「うん。昨日すげー迷惑かけちゃった」 「そっか。今度、二人にお礼しないとね」 「うん」  今日のアキは黒いタートルネックのセーターを着ている。 「アキさん、それ、もしかして昨日の」  七音の視線に気が付いて、アキが隠すように首元を上げた。 「少し跡がついただけだから、大丈夫だよ」  口の中に血の味がするほど強く噛みついたのだ。少しの痕だけで済むはずがない。  またこの人に大丈夫じゃない大丈夫を言わせてしまった。 「俺、アキさんにひどいことして、拒否られてもしかたない、って思ってる」 「ううん、ひどいことしたのは僕の方だよ。ひどく君を傷つけた」  アキが紅茶のカップに視線を落とした。 「僕、君の歌を聞いた時、すごく嬉しかったんです。二十年前に僕が見たものと同じものを今、見ている人がいるんだって思ったら距離とか時間とかを一気に飛び越してきてくれたみたいで嬉しくてたまらなかった」  カップを包むアキの細い指を七音は眺めた。 「この詩を書いた人、どんな人なんだろうなってずっと想像してて、初めて君にあった時、息が止まるぐらい驚きました。眩しくて、カッコ良くて、まっすぐに君を見ることができなかったな」  明るいオレンジ色の明りの中で静かに話すアキはどこか現実離れして今にも消えてしまいそうに(はかな)(もろ)く見える。 「重罪なんて言ってしまって本当にごめん。七音君がすぐに会いにきてくれて、あの日は本当に嬉しくて君との繋がりをもっと感じたくなってつい口に出してしまった。目の前の君は僕が欲しくてたまらなかった圧倒的な才能を持っていたから。そしてそのことを君は少しも恐れていなかった。嫉妬しながら憧れた。だから何か、二人だけのものが欲しくなってしまったんです。僕こそ七音君に嫌われてもしかたない。身の程知らずだったよ、君を共犯者にしようだなんて。もう、いい大人なのにほんと、どうしようもないね」  七音は光の中にいるアキの姿を見つめた。  アキさんが俺に憧れた?  最初に会った時、警戒されているんだと思った。  いつも俺ばかりが焦がれて、突き放されて、相手にされてなかったはずなのに。  初めからなにもかも勘違いで笑う気にもなれない。 「そんなのいらない」 「え?」  アキが顔をあげる。 「身の程知らずとか、いい大人とか、いらない。もう謝罪もいらない。俺の才能がどうとかもいらない。俺は嬉しかった。アキさんと二人だけの死ぬまでの秘密を持てたこと。俺を共犯者にしてくれたこと」  だけど間違ってなかった。  罰したいんじゃなかった。  アキさんの言葉は全部、優しく甘く、俺を繋いでいた。  初めて会ったあの日のあの裏表紙のラブレターが今、やっと届いたんだ。 「じゃあ、七音君は何が欲しいの?僕は君になにを差し出したらいいんだろう」 「アキさんの時間がもっと欲しい。アキさんの言葉を全部、死ぬまで俺だけの秘密にしたい。俺はあなたに愛されたい。アキさんの声で満たされたい」  アキが泣きそうな顔になる。 「俺の人生から姿を消さないで欲しい。アキさんが消えたら俺、だいぶひどい人間になる気がする」  はぁ、とアキが息を吐く。 「君のこと、遠くから眺めているだけのつもりだったんだけどな。いつのまにこんなに近づいちゃったんだろう。そんなに早い速度でぶつかってくるなんて予想外もいいとこだよ」  アキはそう言って手の平を目に押し付けた。  閉店の時間まで話し続けた後ファミレスを出て七音はアキの手を握った。 「今日は一緒にいたい。アキさんと離れたくない」  なりふり構わず勝負に出る。 「・・うん。じゃあ、今夜は一緒にいましょうか」  目元を赤くしながら言うアキの言葉に七音の心臓が爆発しそうに強く打った。 「ん、そうしよ」  アキが通りに向かって歩き出すと、手を挙げてタクシーを止めた。タクシーに乗り込むと、二人はおかしなくらいぎこちなく無言のまま外を眺める。 「ちょっと、コンビニに行ってきます」  タクシーを降りてアキがようやく口を開いた。 「何か飲み物買ってきます。何がいいですか?」 「あ、じゃあ、水」 「わかった。アイスは?食べる?」  アキの言葉に七音はつい笑ってしまい、二人の間の空気が緩む。 「うん。食べる」 「どんなのがいい?」 「なんでもいい。任せる」  コンビニ近くのシティホテルにアキがチェックインしてくれるのを待って後について行く。  中に入って部屋のほとんどを占領している大きなベッドに少し怯む七音に 「どっちがいい?」 とアキがアイスクリームを差し出した。 「じゃあ、チョコレート」 「うん」  アキはチョコレートを七音に渡しスプーンを咥えながら靴を脱いでベッドに上がると 「なんか、映画やってるかも」 とリモコンを手にテレビを点けた。隣に七音の分のスペースを空け、ヘッドボードにもたれて足を伸ばす。 「ねえ、どうやって番組表出すの」 「ん、見せて」  七音も靴を脱いでベッドに上がりアキの横に座り込んだ。 「はい」  番組表のボタンを押してやると、ふーん、とラムレーズンのアイスを食べながらアキが画面を見る。 「あ、これ、見たかったやつ」 「え?どれ」 「右の、三つ目の」 「何これ。聞いたことない」 「知らない?チリの映画で、ちょっと前に話題になったんだけどさ。すごい変な映画らしい」 「変って?」 「アニメーションなんだけど、あんまり可愛くないっていうか怖い絵で。家出した女の子が森の中で家を見つけてブタと暮らすんだって」  よくわからない説明に七音は吹き出した。 「何それ?すげーマニアック。こっちは?アクション映画だけど」 「うん、いいよ」 「人気のアクション映画、新しいやつやってる」 「こういうのってさ、最初に出てくるアジア人、すぐ死んじゃうよね」 「確かに。最後まで絶対生き残れない」 「そう、主人公とその家族以外は全員死んでもいい、みたいな感じがいかにもアメリカンヒーローっぽい」 「ああ、わかる」 「チョコレート、少し味見させて下さい」 「ん」  七音はアキにアイスを差し出した。 「あ、思ってたより苦い」 「え?そう?そっちも食べたい」 「どうぞ」  差し出されたラムレーズンを口に入れるとラムの香りと甘さが口に広がって、一気に気分が高まった。そのまま、顔を寄せてアキに口づける。  冷たくて甘い唇の感触に夢中になり、離すことができなくなった。  はぁ、とアキの唇から洩れる吐息にたまらなくなり、ベッドに押し倒す。舌が柔らかく絡まってアイスのように溶け合うと、膝をアキの足の間に割り込ませ舌を吸った。 「あ、七音君っ。ちょっと、待ってっ」  胸の下でハァハァとアキが息を荒げている。 「あ、ごめんっ。重かった?苦しい?」  七音はハッとして体を持ち上げた。 「ううん、大丈夫。あの、でもシャワー浴びたいから」  そう言ってアキは七音の腕からスルリと抜け出してバスルームに入って行った。  ぼぅっとした頭のままテレビを眺めてはいたが、内容がちっとも頭に入らない。観るのを諦めてベッドから降り、アイスのカップをゴミ箱に捨てようとして、机の上に乗ったコンビニの袋にコンドームの箱が覗いているのが目に入った。  ああ、そっか。  だからさっきコンビニに行ったのか、と気が付き、今、二人でホテルにいるということが急に現実的になってきて体が熱くなった。シャワールームからバスローブ姿で出てきたアキの艶めかしい姿を見て、顔を赤らめる。 「あ、じゃあ、俺もシャワー浴びてくる」 「はい、ごゆっくり」  アキの返事を背中で聞きながらシャワールームに入り、興奮と緊張で震える手でシャワーの蛇口をひねった。アキの唇と舌の感触がぶり返してきて、下半身が疼き始める。 「あー、やべえ。また手震えてるし」  声に出して状況を確認しながら気持ちを落ち着かせようとするがまるで効果がない。シャワールームの湯気に逆上せてこれ以上入っていられなくなり、バスローブを羽織ると、ボタボタと頭から雫を垂らしながら出た。 「うわ、めっちゃ濡れてるやん」 「中があっつくて」 「こっち来て。ちゃんと頭、拭かないと風邪ひくよ」  ベッドの上に座り、アキにパサパサとタオルで髪を拭ってもらう。 「濡れると癖がすごい出るんだね」 「うん、すげー嫌。アキさんみたいな真っ直ぐの髪、憧れた」 「そう?寝ぐせついたらなかなか直らないし、学生の頃、結構苦労したよ」 「学生の時って?高校?大学?」 「高校生の時」 「高校って、ブレザーだった?詰襟?」 「ブレザー」  ブレザー姿のアキを想像しながら、七音は腰に手を回して膝の上に引き寄せた。 「高校生のアキさん、見たかったな」  アキがタオルを七音の首にかけて長い前髪を掻き上げ唇を触れ合わせる。 「七音君は?ブレザー?」 「俺んとこは詰襟」 「僕も君の詰襟姿、見たかったな」  アキのバスローブの腰紐をほどくと首筋にくっきりとついた噛み跡に唇を優しく押し付けた。 「ごめん、傷つけて。もう二度と傷つけないから」 「うん」 「全部、上書きさせて」  七音はそう囁くと首筋に舌を這わせた。アキが体を震わせて切なく息を漏らす。 「嫌じゃない?触っても平気?」  アキが硬くなった七音の性器に触れた。 「平気。もっと触って」  アキの冷たい指先が擦るのを感じて、ゾワリと快感で鳥肌が立つ。腰が甘く疼いて、アキの手の感触に勝手に浮いてしまう。   息があがってきて、顔をアキの肩に押し付けた。すぐに我慢できなくなりそうな気配に 七音は腰を引いた。 「待って。あんまり、我慢できない」 「いいよ。我慢しないで」 「あ、だめ、早く挿れたくてたまんない」  七音は慌てて、コンドームを手に取ったが震えてうまく袋が開けられない。 「ごめん、手が震えて」  アキが袋を開け、ゴムを被せた。触られた先から透明な液が溢れる。七音が待ちきれずアキの腰を掴むと、アキが腰を上げて性器に手を添え、そしてゆっくりと沈んだ。 「あっ」  七音は声を漏らした。  熱く締まる中に挿入(はい)っていく感触が伝わってくる。アキが七音の首に手を回したままさらに腰を落とした。アキの冷たい指が襟足から髪の中に差し込まれ、全身が甘く蕩ける。 「んっ、アキさんの中、こんなに熱いんだ」  七音はアキを抱えてベッドに倒すと上から覆いかぶさって口づけしながらゆっくりと律動する。アキの足が七音の腰に絡んで引き寄せられた。 「アキさん、好き」  耳元で囁いた。 「うん」 「好き。大好き。頭おかしくなって、どうしていいかわかんないぐらい、めちゃくちゃ好き」  アキの目が潤んで、中がギュウッときつく締まるのを感じる。 「アキさんは?聴きたい、アキさんの言葉」 「七音君が好きです」 「もっと聴かせて」 「七音君しか見えなくなるくらい、好き」 「アキさんの言葉で俺を埋め尽くしてよ」 「君に触れて欲しくてたまらなかった。会った時からずっとっ」  七音の体中の細胞が震え、律動が激しくなる。 「アキさん、気持ちいいっ」 「七音君、もっと奥。一番奥まで触ってっ」  アキの言葉に七音は思い切り突き上げた。 「ごめん、すぐイキそうっ」 「七音君、七音君っ」  二人は深く繋がったまま、お互いを強く抱きしめると熱い想いを迸らせた。            *   *   *   *   *  目が覚めると、アキの無防備な首が目の前にあった。  俺の大好きな人。俺の恋人。  七音は後ろから腰に手を回して体を寄せるとアキのうなじに顔を埋めた。アキの首筋から立ち上る匂いを吸い込むと、昨日のことを思い出して腰が疼く。 「七音君、あんまりおっさんの寝起きの加齢臭、嗅がないで下さい」  アキの言葉に七音はフフッと息を吐いて笑う。 「起きてた?」  七音は上半身を起こし後ろからアキの顔を覗き込んだ。 「そんなに吸われたら起きますよ」  七音はまだ目を閉じたままのアキの唇に自分の唇を押し付ける。 「んっ」  アキが手を伸ばして七音の頭を抱え、舌を絡ませた。 「シャワー浴びないと」  アキが起き上がろうとするのを、七音は上からのしかかり胸の中に留める。 「もうちょっと」 「ダメ、チェックアウトの時間に間に合わない」  七音は腕の中で笑っているアキを見つめた。 「モーニング食べに行きませんか。今日は七音君と一緒に朝食、食べたい」 「うん、行く」 「じゃあ、起きて。支度しないと」  目尻に皺を寄せるとアキは腕の中から抜け出した。  近くの喫茶店でモーニングを食べた後、またナナシで落ち合う約束をして、一旦それぞれの家に帰った。ほんの少しの時間でも離れていると不安になる。   支度を済ませると大急ぎでナナシに向かい、窓際のいつもの席でアキを待った。 「七音君、早かったですね」 「うん、待ちきれなくて」  ナナシでコーヒーを飲みながらアキとゆっくりと話をするのは1ヶ月ぶりだ。1ヶ月もの時間を無駄にしてしまった気がして、ひどく後悔する。 「そう言えば神島(かしま)さんってさ、謎だよね」  もうすっかりナナシの常連になった七音の呟きに、アキがパッと子供がおもしろいものを見つけたような時の顔をして食いついた。 「そうなんです、謎なんです」 「あれ、アキさんでもそうなの?長い知り合いかと思った」 「アレックスとは昔からの付き合いみたいなんですけどね」 「ああ、知り合いに教えてもらったってアレックスのこと?」 「うん、そう。僕の好きそうなカフェがあるよって教えてもらって。かなり通い詰めてるけど未だ謎なんです」 「いくつぐらいなんだろう」 「僕の三つ上らしいですよ」 「へえ、じゃあ四十四か」 「どうやらフランス語を話せるみたいで」 「フランス語?」 「でも名前はドイツ系」 「ドイツ系?神島って本名じゃないの?」 「本名です。神島ウルリヒ」 「ウルリヒ?あ、そういえばアレックスがウリって呼んでたな。ハーフ?」 「でしょうね。はっきりとは分からない。この店のデザートは神島さんが開発しているらしいんです」 「じゃあ、パティシエってこと?」 「もしかしたら、昔、フランスに修行に行っていたのかもしれません」 「パティシエにしてはあのガタイは半端なくね?かなり鍛えてるように見えるんだけど」 「そうなんです!格闘技をやっているっぽくて」 「なんだよ、ますます謎じゃん」 「だからね、僕の推測では、フランスの元外国人部隊に所属していたパティシエ・・・」 「なーに、お二人、超ラブラブで」 「わあっ」  ヒソヒソと頭を寄せて話していたアキと七音の後ろからユウに突然声をかけられ、二人は飛び上がった。 「ユウ君っ」 「あ、美青も」 「なんだ、すっかり仲直りしてんじゃん」  ユウがにんまりとしながら美青の引く椅子に腰かけた。 「あの、一昨日はほんとにありがとう。ご迷惑をおかけしました」  七音は二人に深々と頭を下げた。  どんなに謝ってもこの失態は死ぬまで、いや、死んだ後でもユウにからかわれるに違いない。 「そーだよ、すっげー大変だったのに。ねえ美青?」 「まあ、ちょっと心配したけど、二人とも元気そうで安心しました。あ、神島さん、ブレンドお願いします」 「あ、僕、今日はホットチョコレートでー」 「かしこまりました」 「ごめんね、僕が悪いんだ。二人ともありがとう」 とアキも頭を下げる。 「二人して(かば)い合っちゃってえ。にしてもさ、ほんと久々に見たよ、あんなゲロまみれの人。よくあれで電車乗ってこれたね」 「えっ?」  アキが驚いて顔を上げ、七音を見た。 「あれ?言ってないの?酔って走ってゲロ吐いてうちに来たの。めちゃくちゃくっさくてさー。涙と鼻水でグッチャグチャだったの、超ウケる」 「大丈夫だったの?それで?」  アキが七音に訊いた。 「もう全っ然平気っ」 「どこがだよー。もう、どうしていいかわかんないー、って情けない声出してたくせに」 「あー、ほんっとにごめんなさい」 「まあ、僕はアキさんが幸せなら、それでいいんだけど」  そう言うとユウがヒョイとアキのタートルネックの首に指をかけて中を覗き 「キスマ、エッロ」 とにんまりとする。  アキがアッと小さく声を漏らし、首に手を当てた。七音はアキの肩を後ろからかばうように抱え、二人で顔を赤くしてユウの顔を見る。 「二人して照れちゃって、かーわい」  ユウが嬉しそうに目を細める顔が天使のように可愛らく悪魔のように怖い。 「美青っ、ユウが悪い顔してるっ」  七音は悲鳴のような声を上げた。 「おい、ユウ、いい加減にしろ。悪趣味だぞ」  美青がチラリと視線を投げ、 「まあ、なんだかんだ言って一番浮かれてるのはユウですから。しばらく我慢してやって下さい」 とブレンドを啜りながら言うと、ふん、とユウが不満げに鼻を鳴らした。 「だって、二人ともお互い好きなのバレバレなのに、なかなかくっつかないんだもん」 「バレバレ?だったの?」  アキが目だけを出して両手で顔を覆いながら言う。 「バレバレ。だだ漏れ。中学生みたいでこっちが恥ずかしかったよ。ねー、美青」  それを聞いて七音は耳まで赤くなった。 「ん?まあ、確かに漏れてはいたけど、別に恥ずかしくはなかった」 「冷静に言われるほうがむしろ恥ずいんですけどっ」 「迷惑と心配をかけたお詫びに、ユウ君と美青君になにかお礼しなくちゃ。何にしよう?今度、みんなでアレックスの店に行く?ご馳走します」 「え?ほんとー?アレちゃんの店かぁー。どうする美青?」 「別にお礼なんていいですよ。大したことしてないですから」 「ええー?せっかくだしー。七音のお世話したのはたしかだしー」 「世話したのはほぼ俺だろ」  ユウがホットチョコレートをかき混ぜながら考える。 「じゃあさ、これからうちで鍋しない?久しぶりにアキさんの鳥のつみれの鍋、食べたい」 「あ、それなら俺も賛成」  美青も即座に同意する。 「ええ?そんなんでいいの?もっといいやつにしてよ。なんかそれじゃあお礼になんない」 「そんなことないよー、しばらくアキさんの鍋、食べてないもん。それに最近は七音に盗られて僕、アキさんと一緒に過ごせてないし」 「俺もアキさんの鍋食べたい。アキさんの料理食ったことない」  七音も身を乗り出した。 「七音は帰れ」 「なんでだよっ」 「アキさんの僕らへのお礼なんだぞっ。七音がきたら、七音ばっかり得じゃんかぁ。ずるいっ」 「いーの、俺は。アキさんの彼氏なんだから。それに、俺は二人よりも出遅れてるんだからハンデもらわないと」  七音はアキの後ろから片手を回して抱きかかえた。 「はぁ?もう彼氏(かれし)(づら)ぁ?ぜんっぜん、出遅れてないし。むしろ出し抜いてんじゃん!美青ー、何とか言ってやってよっ!」 「アキさん、調味料って何がいるんでしたっけ?」 「えーとね味噌とみりん、鶏がらスープの素も欲しい」  四人でごちゃごちゃと会話を交差させながらナナシを出て、スーパーに買い物に行く。 「アキさん、僕、つみれたくさん食べたい」 「うん。いっぱい入れよう。いつもより多めに鳥ミンチ買うね」  ユウがはしゃいでアキにまとわりついている後ろからカートを押して七音と美青は歩いた。 「ありがとな、美青」  七音は改めて美青に礼を言った。 「ああ、一瞬、どうなることかと思ったけど、うまく収まって良かった」 「自分でも怖かったよ。あんなの初めてで。俺、あんななっちゃうんだって正直ビビった」 「まあ、そうなる時もあるよ」 「えー?美青にはないだろ?いつも、ちゃんと自分をコントロールしてさ。すげえよ」 「そうでもないよ。いつも必死」  無表情のままそう言う美青の顔を七音は驚いて見た。 「え?そうなの?」 「まあな。天才の側にいる凡人ってのはその隣でずっと努力し続けなくちゃならないから。そんなこと誰も気にしてなくてもな」 「それって・・」 「まあ、ユウの前ではそうするって決めてるからいいんだけど。おい、ユウ、そんな変なスナック菓子、買うなって」 「これだけ。お願い。新発売の、後でみんなで食べたいんだもん」 「しょうがないな。今日だけな」  やった、と嬉しそうに袋菓子をカートに入れる。 「よし、こんなもんかな。後は飲み物」  アキが声をかける。 「今日は、七音はお酒禁止ねー」 「ええ?鍋だろ?ビールぐらい許して」 「んじゃあ、一本だけ」 「でかいやつ」 「七音のくせに」 「なんだよ、最近、なんか俺の扱い雑じゃね?」 「自業自得ー。ここ何日か七音には振り回されっぱなしなんだかんね。アキさんは?何にする?」 「今日は白ワインにしようかな。ジンジャーエール割で飲みたい。あ、締めは?雑炊か、うどんか、ラーメンか」 「うどんがいいなー」 「俺は卵入れた雑炊がいい」  ユウと美青がそれぞれ言う。 「七音君は?何がいい?」  アキが七音を見上げた。 「うーん、じゃあ俺はラーメンで」 「ふーん、じゃあ、今日はラーメンにしといてやる。七音はアキさんのお鍋、初めてだから特別に選ばせてやるよ」 「何でユウがそんなに偉そうなんだよっ」 「だって偉いもん」 「お前ら、うるさいぞ。早くラーメン選んで来い」  カートいっぱいの買い物をして4人でユウたちの家に向かう。 「久しぶりですね、アキさん、うち来るの」 「そうだね、最近、全然来てなかった」  アキと美青がキッチンで早速、準備を始めるのを横目に 「はい」 とユウが七音にビールを持って来る。 「サンキュー。何か手伝わなくていいのかな?」 「なんか手伝えんの?」 「いや、無理だけど」 「だよね」  七音とユウは乾杯して飲み始めた。 「ここの家賃って、どうしてんの?折半?」 「ううん、美青が払ってくれてる」 「え?全額?」 「うん。もともと美青が住んでて僕が転がり込んだから。そのまま」 「へえ」 「僕、部屋借りるの難しいし」 「ふーん、そうなんだ」 「七音はアキさんと一緒に住むつもり?」 「えっ?いやまだ全然、そんなことは考えてなかった・・けど」  そうか、俺んちで一緒に住むのもアリか。  機材をいくつか片付けて整理すれば充分二人で暮らせるはず、と妄想が膨らむ。 「いいかも、それ」  ユウはチラと七音を見た。 「まあ、あの極小アパートにアキさんを一人で帰らせるよりは全然いいか。でも、あんまアキさんに無理させないでよね」 「え?無理って?」 「今日見たアキさんの首、キスマじゃないよね。噛んだ痕でしょ。あんなアザ、だいぶ強く噛まないとつかないと思うんだけど。あれ、昨日じゃなくて一昨日(おとつい)、襲った時の?」 「あー、うん。あれは、ほんとに反省してる」  相変わらずの勘の鋭さに七音はギクリとした。 「アキさん超幸せそうだから何も言わないけど。二度とあんなひどいことしないでよね。ただでさえ、アキさんへの体の負担は大きいんだから」 「体の負担?」 「うん、七音とアキさんは年齢差もあるし、体格差も体力差だってあるでしょ。僕なんか、美青が本気出したら骨の一本や二本、簡単に折られちゃうってこと」 「あ・・・」  酔って掴んだアキの手首の骨の軋む感触が手の平に蘇る。 「・・わかってる。二度としない」  もしあの時、アキさんが腹を蹴り飛ばしてくれてなかったら俺、どうしてただろう、と思うとゾッとする。 「まぁ、今回のことで十分分かったと思うけど。ゲロまみれで泣いてたからねー、七音。 七音があんなに余裕無くすなんてほんとウケる」  あー、しまった、写真撮っておけば良かった、とユウが上機嫌で呟いている。  何もかも壊してしまえ、と思ったけど、そうじゃない、俺が壊れるのをアキさんが守ってくれたんだな、とキッチンで美青と白ワインを飲みながら楽しそうに話しているアキを見た。 「ユウはそういう嫌なことされたことあるの?」 「え?美青に?ないない。美青は絶対にしない、僕を傷つけるようなこと。美青は僕を傷つけるくらいなら自分を傷つけちゃうタイプだもん。美青の前には何回かあったけど」 「え?前って?」  美青が初恋の人だと言っていたからてっきり美青だけだと思っていたが、そう言えば、10代で再会した、とも言っていたことを思い出した。 「勝手にユウが付き合ったのは美青だけだと思ってた」 「うーん、まあ、ホントに好きになったのは美青だけだけど。別に美青としかしたことないってわけじゃないし」 「え?あ、そうなんだ」 「うん、僕、中学生の頃からフラフラしててさ、田舎の家に帰るのが嫌でこっちで色んな人の家に泊まったりしてたんだよねー。そん時に」 「ひどいことされたの?」 「うーん、まあ、何度か」 「何度かって・・」 「今は幸せだよ。美青は僕のスパダリだからね」 「・・そっか、美青はユウの初恋の人だもんな」 「まーねー。七音はアキさんと両想いになれて良かったね」 「うん。ありがとな。二人がいなかったら無理だったかも」 「ほんとだよ。無理矢理したって何にも気持ち良くなんかないもん。だーい好きな人に想われ返されて大事に受け入れられながらすんの、超悦かったでしょ?」  一昨日の一部始終が脳内再生されて顔を赤くしながら七音はコクコクと頷いた。 「だよねー、わかるー。で?初めてのアキさんとの夜、どうだった?蕩けた?」 「と、とろっけたっ」 「とろっけた?きゃはは、やーだー、七音のスケベッ」 「スケッ。っだよっ、ユウがやらしい訊き方するからだろっ」 「よだれ垂れてるよ?」 「は?あ?垂れてねーわっ。スケベ上等っ。初恋舐めんなよっ」 「わ、開き直ったっ」  中学生のように騒ぐ二人に 「おーい、お前ら、もうすぐできるぞー」 と美青の声が聞こえた。 「やったー。お腹すいたー」  美青の側に駆け寄り腰に手を回すユウの口に箸でつまんだおつまみを入れると、美青が嬉しそうに笑う。  へえ、美青、あんな顔して笑うのか、なんだかんだ言って幸せそう、と七音は羨ましくなった。 「七音君?食べるよ。早くこっちおいで」  今度はアキが七音を呼ぶ声がする。 「今、行くー」  あー、俺は今、アキさんと付き合ってんだ。  呼ばれた声にニヤけた顔で七音も立ち上がった。 「あー、腹いっぱい。鍋、うまかった」 「ほんと、今日はよく食べた。一人だと鍋なんてしないし。楽しかったね」  二人で並んで真夜中の通りをゆっくりと歩く。 「ね、今日、このままうち来ない?」  七音はアキの指先に自分の指を絡ませながら訊いた。  もう、こっそり触れなくてもいいんだ、なんせ俺は初恋を成就させたのだから、と、誰かに見せびらかしたくなる。 「ユウ君たち見て羨ましくなった?」 「うん。すげー羨ましい。俺もアキさんと一緒に同じ部屋に帰りたい」 「あはは、影響受けすぎ。今日は帰るよ。着替えとか持ってないし。また今度」 「ほんとに?」 「うん」 「じゃあ、明日」 「明日?」 「うん。仕事終わったら一緒にメシ食って、一緒に俺んちに帰るのはどう?」 「ん、わかった」 「やった。決まり」  こんなにわがままなことも、もう言ってもいいんだ。  付き合うってすげえ破壊力。  七音はアキの細い指を離さないよう、しっかりと握り直した。

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