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 付き合い初めて二か月たち、アキが七音(ななお)の部屋に泊まる日が増えてきた。一緒に暮らそう、と言ってみたがそれに関しては考えてみる、と言われたまま、アキは自分の部屋と七音の部屋を行き来している。  一人で七音の部屋にいるのを嫌がって七音が仕事で出てしまう時はアキも大抵、自分の極小アパートに帰ってしまう。  家で待ってて欲しいのに、と思うのだが、あまり追い詰めないように必死で制御している最中だ。 「ねえ、アキさん。腹減らね?何か食べに行かない?」  ヘッドフォンを外すと、パソコンに向かっているアキに声をかけた。 「んー、そうだね」  うーん、とアキも仕事を中断して伸びをした。 「でも食べに行くのも面倒くさいなぁ」 「じゃあ、デリバリーにする?」 「デリバリーか・・」  気乗りしない返事をしてアキは立ち上がると、冷蔵庫に半ば頭を突っ込みゴソゴソと漁り始めた。 「俺、何か買ってこようか?」 「七音君、スパゲッティーってある?」 「え?スパゲッティー?うーん、どうかな」  棚をいくつか開けて探すと、使いかけの袋が見つかった。 「あ、あった」 「賞味期限、大丈夫?」 「あー、うん。大丈夫」 「ナポリタンならできるけど、食べる?」  アキが七音を見上げる。 「え?すっげー食べる」 「すっげー食べる?」  へんな日本語、と七音の言葉に笑いながらアキが湯を沸かし包丁を取り出した。 「アキさん、ナポリタンなんか作れるの?」 「そんな本格的なものじゃないよ。ケチャップで混ぜるだけのやつだからあんまり期待しないでね」  なにもできないくせに料理をするアキの周りを腹を空かせた猫のようにウロウロとつきまとう。 「七音君は料理はしないの?」 「全然」 「いつも作ってもらってたんだ?」 「うん、まあ。あれ?もしかして俺の過去のことが気になる?」 「いや、そのわりには調理道具が一通りあるから誰かが作ってたのかな、って思っただけ」 「なんだよ」 「ええ?なんだよって、何」 「アキさんはハビエルさんに何か作ったりしたの?」 「したよ。お好み焼きはよく作ったかな」 「へえ、スペイン人もお好み焼き食うんだ」  聞いたはいいが、聞くと落ち込む。 「うん、好きだったよ。あと、餃子とか。七音君は?お好み焼きと餃子、好き?」  七音が落ち込んだことにアキはすぐに気づいて優しい話し方になった。 「・・好き」 「聞いて落ち込むなら聞かなければいいのに」  やっぱりバレている。 「でも聞かないままだと妄想ばっか膨らむから」 「難儀(なんぎ)やな」 「アキさんは俺の過去、気になんない?」 「んー、あんまり」  あっさりと言うアキに七音は小さくため息をつく。 「過去より今のほうが気になるかなあ。今の七音君が会う人の話は、聞くとちょっと気になる時がある」  七音の顔が一瞬でニヤけた。付き合い始めても、七音の感情はまだまだ制御不能ですぐに乱高下する。 「へえ、そうなんだ」 「なんですか」  並べた皿にアキが赤く染まったスパゲッティーを盛り付けていく。 「いや、別に」 「ふん、ニヤけとらんと、はよ食べるで」 「やった。いただきます」 「はい、どうぞ」  七音は早速、熱々のナポリタンを口いっぱいに頬ばった。 「うっま。何これ」  ケチャップの甘さにピーマンの苦み、ベーコンの香ばしい脂が口いっぱいに広がり、思わず声が出た。 「また、大袈裟なんだから」  アキもスパゲティーをくるくるとフォークに巻き取り、口に入れる。 「いや、マジでうまいんだって」 「七音君は?何作ってもらってたの?」  アキに訊かれて七音はしばらく考えた。 「えーと、あれ?あんま覚えてないな」 「ええ?覚えてないことないやろ。あんなに調理器具揃えて、結構作ってもらったんじゃないんですか?」 「えー?あ、照り焼きチキンとか」 「ちゃんとしたもの作ってもらってるじゃない。ナポリタンよりよっぽど手が込んでる。料理上手だったんですね」 「そうなのかな。なんか、料理上手な自分を見せたい感じだったけど」 「ふーん。それって最後、話が雑音に聞こえた人?」 「ああ、そうそう。で、最後、カバンで思いっきり殴られたんだった。今、思い出したわ」 「ええ?大丈夫かいな。気ぃつけな、いつか刺されるで」  七音は笑いながらナポリタンをたっぷりとフォークに巻き取り口に入れ 「んー、すげー幸せ」 と心の底から言った。               *   *   *   *   * 「えー、ついにSeven(セブン) Timbres(ティンブレス)のドーム公演が決定しましたっ」  音楽事務所に七音と花丘(はなおか)玉名(たまな)の三人は呼び出され、恐る恐る社長室に足を踏み入れると、社長から直々にそう発表があった。 「え?東京すか?」  七音が間の抜けた質問をする。 「そう。東京ドーム」 「マジか・・・」 「やっべ、信じらんねぇっ」 「やったっ、やったぁぁ」  叫んで立ち上がり、抱き合うと大騒ぎとなった。社長や担当者、事務所の社員たちと握手をして、喜び合う。  担当者からこれからのスケジュールや仕事内容を一通り説明されるがほとんど頭に入らず、何がなんだかよくわからぬまま三人は事務所を後にした。 「よしっ、今から祝杯あげようぜっ」  花丘の号令で興奮冷めやらぬまま居酒屋に入った。 「それでは、ドーム決定おめでとうっ、俺たちっ!乾杯っ」 「カンパイッ」 とジョッキを掲げ、改めて祝杯を上げる。  ボルテージを上げたまま何杯もジョッキを空にして、あっと言う間に三人ともしたたかに酔った。 「なあ、そんで七音は今、アキさんとちゃんと付き合ってるわけ?」 とふいに酩酊状態の花丘に訊かれた。 「え?あ、うん。ちゃんと報告してなかったっけ。俺、今、アキさんとめちゃくちゃ真剣なお付き合い・・」 「いやいや、そこじゃなくてよ」 「はあ?お前が訊いたんだろがっ」 「ドームも決まったし、これから忙しくなりそうでしょ?」 「うん」 「忙しいだけじゃなくて、周りの環境も変わってくるんじゃないかと思うんだけどさ、色々、嫌なこと言うやつも出てくるかもしれないじゃん?まあ、お前自身が傷つくのは仕方がないとしても、アキさんが嫌な思いしないとは限んないからさ。それ、お前、大丈夫?」 「アキさんが嫌な思いって?え?俺が?大丈夫か?」  考えてもみなかったことを訊かれて急激に酔いが醒めていく。  アキさんが傷つくような嫌なこと?  それは、俺と、男と付き合っている、ということ?  ユウが父親に絶縁されている、という話を思い出し、アキが元カレの母親から罵倒され続けている理由にぶち当たった。  相手が女だったら、二人とも許されていたことだったのか?  ユウはおばあちゃんと一緒にシュークリームを食べて、アキさんは不眠症にならずに済んだ?  それは、そんなに悪いこと?誰かがひどく傷ついたり、傷つけられたりするのか?  アキさんは俺が側にいたら、傷ついてしまうこともあるってこと?  俺が大丈夫かどうかなんて・・。 「よくわかんね、かも」 「お前自身が言いたくないこととか、言われたくないこととかは、はっきり言ってどーでもいいと思うんだよ?どうせお前、聞かないだろうし。でも、アキさんに影響出ることがあるかもしんないってこと、気にしたおいたほうがいいと思うワケ」 「あ・・」 「隣にいる人が傷つくの見るって、思ってる以上にダメージ食らうんだよ」 「俺・・それ、ヤバいかも」 「だろ?だよな?」 「いいですっ。恋する七音さん、カッコいいですっ。マジで惚れ直しますっ」  玉名がなぜか泣きながら七音に抱き着いてきた。 「え?うわ、玉名?泣いてんの?なんで?」 「だってぇ、七音さん、すごく幸せそうで嬉しいんれすよぉ。アキさんにメロメロになってる七音さん、可愛いし凄く色っぽいしぃ。前よりすごーく優しいしぃ。めちゃくちゃ好きれす。サイキョー」 「サイキョーってなんだよ。最高の間違い?それとも最も強いって意味?」 「それわぁ、んー、どっちれもいーれふゅ」 「どっちでもいいんかよっ」  玉名の間の抜けた答えに七音と花丘は大爆笑した。           *   *   *   *   *  ドーム公演が決まってスタジオでの作業時間が長くなってきた頃、ようやくアキが七音 の家に長く居着くようになった。  録音作業を終えて急いで家に帰り、ドアを開けると部屋の中はシンとしている。 「アキさん?」  ベッドルームを覗くとアキが眠っていた。  ギリギリまで原稿を書いてベッドに倒れこんだのだろう、耳にはイヤホンが突っ込まれたままで、パーカーがダラリとベッドから半分落ちている。最近、どんどん睡眠時間が短くなってるアキを起こさぬよう、イヤホンはそのままにしてそっとパーカーを手に取りベッドルームを離れた。  キッチンに戻り、スーパーで買ってきたものを袋から出して冷蔵庫にしまっていると 「七音君?」 とアキの掠れた声がベッドルームから聞こえてきた。しまった、やっぱり起きたか、と七音は心の中で舌打ちをする。 「アキさん、ただいま」  ん・・、とアキの声がして、ゴトッ、という物が落ちる音の後にゴスッ、ゴスッと聞きなれない音がした。 「アキさん?」  呼びかけながらベッドルームに向かおうとすると、アキが耳からイヤホンのコードをぶら下げ、その先に繋がった携帯を引きずりながら歩いて来た。  「うわ、アキさん、ストップッ」  そのまま進もうとするアキを抱きとめて耳からイヤホンを抜き引きずっている携帯を拾う。 「ごめん。せっかく寝てたのに起こしちゃったね」 「ううん、起きてたよ?」 「いやいや、完全にバグってんな」  七音はそう言いながらまだベッドの温もりの残るアキの体を抱きしめる。  最近のアキはよく眠れていないせいで寝起きがひどく悪い。自分でも眠っている感覚が薄れていてよく分からなくなっているようだ。  昨日も夜中の3時頃に携帯が鳴っていた。アキがパソコンに向かっていた体をビクリと震わせ 「ごめん」 と言いながら携帯を手にベランダに出て行くのを、またか、と思いながら七音は見ていた。  何日も続いている夜中の電話がアキの睡眠を妨害しているのは明らかだ。  どうにかしなければ体も精神も持たないな、そう思いながら 「じゃあこのまま一緒に昼寝しよっか」 と薄くなったアキの体を抱え上げた。 アキさんのことで相談がある とメッセージを送って、仕事の後、ユウと美青(みお)の家に寄った。 「どしたの?喧嘩でもした?喧嘩の仲裁はお断りだからねー」 「あー、いや、最近、アキさんの体調良くなくてさ」 「え?どうしたの?」 「最近、スペインから毎日、電話かかってきてて、アキさんがうまく眠れてない。どんどん眠れなくなっちゃってさ、どうしていいかわかんなくて」 「ああー」  ユウと美青が声を揃えた。 「ハビちゃんの命日が近いんだよね。毎年、この時期になると電話がひどくなるの」  ユウが嫌そうに顔を(しか)めた。 「ああ・・そうなんだ。そっか」 「昼間に寝てないの?昼は電話かかってこないだろ?」 「うーん、ウトウトはするけどね。すぐ起きちゃって。昼間は昼間で仕事の電話がかかってくるし」 「そっか。来月には少し落ち着くと思うんだけどな」  美青もため息をついた。 「いっつもこんなになるの?もう見てらんないんだけど。去年は気が付かなかったんだよなあ」 「去年はアキさん、大阪に帰ってたからな。七音君に見せたくなかったんじゃない?俺らがアキさんちゃんと眠れてるか心配するわけ、わかっただろ?」  美青にそう言われて頷く。 「うん、よくわかった。こんなにひどいとは思ってなかったからさ、ナメてたわ。どうにかしないと。このままにしておくわけにはいかないと思うんだけど、どうしていいかわかんねー」  七音は両手で顔を擦った。 「じゃあさ、もういっそ、七音が電話出ちゃえばいいじゃん」 「は?俺が?」 「うん、七音が出てさ、もうかけてくんなーって、怒鳴ってやれば向こうもビビってかけてこなくなるんじゃない?」  ユウが無邪気に言う。 「ええ?でも俺、スペイン語わかんないし」 「そうだよ、それに勝手にアキさんの電話に出るとか、無理じゃないか?」  美青も驚いて言う。 「えー?別にいいじゃん。どうせ向こうはさ、アキさんが何も言い返さないのをいいことに言いたい放題なんでしょ?こっちの言うことなんて聞いてもないんだろうし。だったらこっちも向こうの言うことなんてわかんなくて良くない?日本語でもなんでも七音の言いたいこと言ってやりなよ。俺たちの幸せを邪魔するなーってさ」 「ええー?」 「アキさんは悪くないって七音もそう言ってたじゃない。もう無理矢理にでもお互い解放させなきゃ。でも、今それできるの七音だけだよ。アキさんは絶対にあいつを突き放せない」  「そっか、そうだよな」  アキさんは何も悪くない。だけど、自分に縋りついてくる手を離せないでいる。それは、相手にとっても苦しいことなのかもしれない。  美青が淹れてくれたコーヒーを飲み干すと 「そうだな。できるだけのことやってみるよ」  そう言って二人の部屋を出た。  今の自分にしかできないこと、やらなければならないことを考えながら早足で歩く。 「ただいま」  家に帰ると、ソファでアキが横になっていた。 「お帰り」  七音の顔を見てホッとしたように起き上がる。 「寝てた?」 「ううん、今日の晩ご飯、何しようか考えてた」 「もう決まった?」 「まだ」 「じゃあ・・」  何か食べやすくて栄養があって、自分でも作れそうなもの、と七音なりに考えた末、 「卵かけご飯、作ろっか?」 と提案してみると、アキがおかしそうに笑った。 「それ、料理なの?」 「立派な料理だろ。うまいし、栄養満点だし」 「確かにおいしいけど。じゃあ、今日は卵かけご飯じゃなくて、親子丼にしましょうか」 「親子丼っ!?ハードル高っ。作ったことないけど、頑張るよ」 「あはは、僕が作るから安心して。でも、買い物行かないと材料がないな」 「いいよ、俺、行ってくる。アキさん寝てなよ」 「ううん、僕も行く。今日は一日外に出てないし、ちょっと出たい。他にも色々、買いたいものあるし」 「そう?じゃあ、スーパー行くか」  近所のスーパーで買い物を終えてブラブラと家に向かう途中 「あ、ごめん」 と先を歩いていた七音に後ろからアキがぶつかった。 「大丈夫?荷物、持つよ」 「ん、ありがと」  目尻の皺が深くなって、目の周りがどす黒い。 「うん、早く帰ろ」  アキのその顔を見て、七音は今夜強硬手段を取ろうと決めた。  ほかほかと湯気の上がる炊き立ての米にトロリとだしたっぶりの卵をかけると、二人で向かい合わて座る。 「いただきます」  手を合わせ、早速、口に入れた。 「うっま」 「七音君は何でもうまいうまい言いすぎ」  アキがハフハフと熱そうに口に手を当てた。 「相方の手料理にはなんでもうまいって言ったほうがいいってネット番組で芸人が言ってたよ」 「芸人?なんでも、って言うてもうてるし」  二人で笑いながら優しい味の親子丼を食べる。 「これはいいんだ」 「何が?」 「だって、米が汁に浸ってるじゃん。そういうの許容できないんじゃなかったっけ?」 「親子丼は大丈夫。牛丼もかつ丼も。だって、これ、こういう食べ物でしょ。別々だったらおかしいでしょ。それ、別の食べ物じゃないですか」 「いや、カレー最初に全部混ぜるのは後戻りできないから怖い、っつったのアキさんだから。そっちのほうがおかしいだろ」 「そうかな」 「そうだよ」 「七音君、つまんないことよく覚えてますよね」 「アキさんの話は全部覚えてるんだって」 「あー、しょうもない話、しすぎたな」  アキがぼやく。 「じゃあ、明日はカレーにしようぜ。全部混ぜたカレー食べさせたげるよ」 「それは・・、遠慮します」 「なんで。試してみたらアキさんの怖いもの一つ減るかもよ?」 「・・・そっか。考えてもみなかったな。怖いものを減らすってこと」  アキはそう言って少し笑った。  夜中の三時になって携帯が今夜も鳴った。  肩を強張らせてアキが携帯に飛びつく。 「ごめん」  そう言ってベランダに出ると、背中を向け、携帯を耳を押し当ててうつむいている。  七音はベランダの窓をそっと開けアキに近づくと、後ろから携帯を取り上げた。  驚いて振り向くアキがストップモーションのように見える。  七音はアキの携帯を手に部屋に戻ると、窓を閉め、鍵をかけた。  バンッ、とアキが窓に手をついて張り付くように七音を見る。恐怖で目がいっぱいに開いているアキに背を向け、携帯に耳を当てた。  電話の向こうで女が狂ったように何か叫んでいるのが聞こえてきた。  ああ、これがアキさんの耳を、心を汚し続けてきた音か、と思うと猛烈に腹が立ってくる。  窓を叩く音がしてチラリと振り向くと、アキの目が潤んで、顔が蒼白になっているのが見えた。 「お前何様だよ」  七音は静かに低い声で言った。電話の向こうがシンと静かになる。 「Quien(キエン)?(誰?)」  先ほどとは別人のように小さい声が聞こえた。 「お前何様だって訊いてんだよ!」  七音は大声で電話に向かって叫んだ。  ドンドンと激しく窓ガラスを叩く音がして 「やめて、七音君。ここ開けて。お願いっ」 とアキが叫んでいるのが窓越しに聞こえる。 「ふざっけんなよ、てめえ。頭おかしいだろ。こんなんことして何が楽しいんだよっ。いい加減にしろっ。自分勝手に雑音垂れ流しやがって。アキさんの気持ち考えたことあんのかよっ。アキさんのことどんだけ苦しめたら気が済むんだっ」  七音は思いつく限りの言葉を投げつけた。  一瞬の沈黙の後、ブツッ、ツーツーと電話が切れる。  携帯を耳から離し、着信履歴を見た。ズラズラと毎日の着信が残っているのを目にして、こんなにもかかってきていたのか、とゾッとする。スペインからの番号を一斉に消去し、その番号をブロックした。  アキと窓越しに目が合うと、七音は携帯をソファにポイと放ってゆっくりと窓に近づき、鍵を開けた。 「何したっ!」  窓を開けた途端、七音に掴みかかり、ソファ上の携帯を取ろうとするアキを後ろから抱きとめる。 「放せっ、返せっ。携帯っ、返してっ」   七音はギュッと抱きしめながら床に座り込みアキを膝の上に抱え込んだ。 「もういいだろ。アキさん、もうやめよう、こんなこと」 「君には関係ないっ。離してっ。何でこんな勝手なこと。ひどいっ」  アキが叫びながら暴れる。 「うん、ひどいことした。ゴメン。でも、もう見てられないよ。もうやめよう。もう、手を離してやろうよ。このままだと、お互いを苦しめるだけだよ」  ううっ、とアキが泣き出す。 「僕が悪いの?僕が彼女を苦しめてるって言いたいの?」 「違うよ。アキさんは何も悪くない。でも、もうお互いの手を離さないと相手だって苦しいまんまなんだよ。アキさんだって苦しいだろ。このままだと誰も幸せにならないよ」  パタパタとアキの涙が床に落ちる。 「違うっ。僕だけこんなに幸せで。僕だけ、またこんなに幸せになってしまって・・。やっぱりダメだよ・・。許されない・・」 「アキさんが罪悪感、感じることなんてない。誰かに許してもらう必要なんてないんだって。相手の悲しみを癒すために罰を受けることなんてないんだよ、アキさん。そんなこと、もうやめなくちゃ。大丈夫だよ、いつかきっとわかってくれるから。ね?」  激しく嗚咽を漏らし震えるアキの体を七音は強く抱きしめた。  そのまま一時間ほど泣き続けたアキが力尽きた様子でぐったりと体を預けてくる。 「ベッド行こっか。少し眠ろう」  アキを抱えてベッドまで連れて行く。しっかりと布団で包み、立ちあがろうとした七音の手をアキが握った。 「行かないで。一緒にいて」  掠れた声でアキが言う。 「わかった。電気消してくるから、ちょっとだけ待ってて」  部屋を暗くして七音が隣に潜り込むとアキが身を摺り寄せてくる。抱き寄せるとすぐにスゥスゥとアキの寝息が聞こえてきた。  アキの濡れた目元を手の平で拭うと、そっと息を吐き七音も目を閉じた。  昼頃、七音が目覚めた時、アキは腕の中でまだ深く眠っていた。形の良い唇から漏れる 密やかな寝息がアキらしくてたまらなく愛おしい。七音はアキを起こさないよう、そっと ベッドを抜け出した。 「あ、もしもし、ユウ」  ベランダに出て、ユウに電話をかけた。 「あ、七音。お疲れ。どうだった?」 「うん、言ってやった」 「え?うそ。マジでやったの?」  電話の向こうでユウが楽しそうに笑う。 「やるじゃん、七音。で?何て言ったの?」 「えー?ふざけんなっ、いい加減にしろって」 「日本語で?」 「当たり前だろ」 「そしたら?」 「電話切られた」 「きゃはは、やるねぇ。で、番号ブロックした?」 「うん、で、消去した」 「グッジョブ。んでアキさんは?」 「まだ寝てる。昨日はすげー泣いてちょっとかわいそうだったけど」 「そっか、しょうがないよ。別れる時はお互い傷ついちゃうもん。でももう眠れてるならすごいじゃん。効果抜群だったね」 「そうかな。これで収まるといいけど」 「収まるでしょ。向こうもいい加減、気付いたんじゃない?これってすごい暴力なんだって」 「そうだな。だったらもっと早くにこうするべきだったよ」 「まあ、そうだけど。でも、七音にしかできなかったことだよ。ちゃんとできたじゃん、七音」 「ん、ありがとな」 「またみんなで一緒にご飯食べよ」  じゃあね、と電話を切ると七音は久しぶりに緩んだ肺で息を吐いた。     よほど、寝不足がたまっていたのだろう、アキは昏々と眠り続けた。さすがに夜の九時になって心配になり、七音はそっとアキの髪を撫でながら声をかけた。 「アキさん」  アキが、スゥ、と大きく息を吸って目を開ける。 「大丈夫?」 「七音君」  アキがシバシバと子供のようにまばたきをする。ひどく目が腫れていて、目が開きにくそうだ。 「今、何時?」  乾いた唇から掠れた声が洩れる。 「九時。夜の」  ふん、とため息のような息をもらしてから 「夜の?」 と言って、ガバッと起き上がった。 「何時間寝たの?」 「えー、16時間?」 「嘘やろ」  アキが慌ててベッドから降りようとしてよろめく。 「おっと」  七音が掴んだ腕にアキが縋りついた。 「今日、何曜日?原稿の締め切りっ」 「違うよ、大丈夫。締め切りは明日」 「あ、良かった。そっか、ごめん」 「水、持ってくるね。喉乾いたでしょ」 「うん。ありがと」  手渡された水をゴクゴクと飲むとアキはようやくしっかりと目を開け、はぁ、と大きく息を吐いた。 「めっちゃ寝た」 「うん、すごい目が腫れてる」 「ほんと。目が開きにくい」 「何日もほとんど眠ってなかったんだから当たり前だよ」 「それにしても16時間も寝るなんて。なんか体、痛いし」 「ちょっと暴れたからね」 「とりあえずシャワー浴びてくる」  アキは立ち上がってフラフラとバスルームに入っていった。  まずは何か食べさせないと、と七音がキッチンでゴソゴソしているとアキがバスルームから出てきた。 「あ、腹減ってるよね。何か食べられそう?色々買ってきたんだけど、おかゆとか。レトルトだけど」 「病人じゃないんだから普通に食べられるよ」  アキが笑う。 「あ、そっか。惣菜とかを買ってくれば良かったんだ、ごめん。デリバリーのほうがいい?」 「ううん、ありがと。買い物行ってくれたんだね」  アキが冷蔵庫を漁り始める。 「じゃあ、焼そばでもいい?」 「え?全然いいけど。あ、じゃあ手伝う」 「うん」  アキの隣でキッチンに立ち、慣れない手つきで野菜を切る。 「彼女、どんな様子だった?」  しばらくしてアキが訊いた。 「うーん、なんかひたすら叫んでた。何言ってるかさっぱりわかんなかったけど」 「だろうね。彼女も泣いてたでしょ」 「泣いてたけど、それよりやっぱり叫んでたな。気が狂ったみたいに」 「そっか」 「あ、でも、俺が日本語で怒鳴り返したらびっくりしたみたいで、黙っちゃって。んで、最後にぴえん、って」 「え?なんて?」  アキが七音を見て真顔で訊き返す。 「え?だから、ピエン、って言ったと思う」 「・・ピエン?」  アキの口元が震える。 「あれ、もしかして言っちゃいけないようなひどい言葉?」  七音が緊張したその瞬間、ブフッと、アキが吹き出した。体を折り曲げて笑っている。 「え?何?」 「それ、ピエンじゃなくてキエン、 誰?って訊いたんだと思います」 「キエン・・。あ、お前誰だよって、向こうも訊いてたのか」  フフッと七音も笑い出す。 「だよな、ピエンっておかしいもんな」  アキが涙を浮かべて笑っている。 「あー、おかしい。ピエンってなに?」 「いや、だって、似てんじゃん。ピエンとキエン」  ジュッという音にソースの匂いが立ち上る中でアキが笑い続ける。 「笑ったら急にお腹空いてきた。焼きそばに卵乗せようか。目玉焼きがいい?オムレツがいい?」 「えっ?焼きそばにオムレツ?いや、目玉焼きがいい」 「知らない?オムそばっていって、薄焼き卵で焼きそばを包んだやつ。巻かずに半熟のオムレツ乗せるんですけど」  アキがコンコン、と卵をカウンターの角にぶつけて割り、目玉焼きを焼き始める。 「オムそばは知ってる」 「ぼっかけ焼きそばのオムレツのせっていうのが関西にあって美味しいですよ」 「へえ、ぼっかけ」  よし、できた、といいながら焼きそばに目玉焼きを乗せる。ソースの焦げた匂いが食欲をそそり、七音も急に空腹を感じて唾がわいた。 「うっまそ」 「よし、食べよ」  目玉焼きを割るとトロリとオレンジ色の黄身が流れ出る。七音は卵と焼きそばを口いっぱいに頬張った。 「あー、うま。ソースが胃に染みる」 「うん、夜食の焼きそば、悪くないね」 「最高」  また大げさな、とアキが笑ってから、焼きそばを食べる箸を止めた。 「・・、ごめんね、七音君。嫌な役目やらせて」  そう言って目を伏せる。 「本当はわかってた。手を離さなくちゃいけないこと。でも、自分からは怖くて長い間できずにいたんだ」 「うん。アキさんが怖がりなこと、知ってるよ」 「傷つけられてるほうが楽だったから。幸せを感じるのも怖かったくせに、七音君を諦めることもできなくて。自分勝手だよね。ほんと、申し訳ないと思ってる」 「もう、いいよ。やめよ。俺、謝罪の言葉はいらないって、前に言ったよね?」 「あ・・、うん。す・・」  すみません、と反射的に言おうとするアキの顔を七音は眉をツィと上げて見た。  七音のその顔にアキが気づいて口ごもると、ごまかすように 「す・・・まぬ?」 と呟やき、ブホッと七音は吹き出した。 「なんて?」  ゴホゴホと噎せてしまう。 「なにが?」 「いやいや、ムリムリ。なんだよ、すまぬって。急に侍出すなって」  アキも(こら)え切れずに吹き出した。 「だって、侍出したかったわけじゃないけど、七音君が追い詰めるから、つい出てきた」 「つい出てくるようなもんかよ」  アキの小学生並みの言い訳に二人で腹を抱えて笑う。 「あー、ほんとに最初っからアキさんのそういうとこずるいよな。急に変なこと言い出すんだから」  そうだ、俺は初めて会った時からこの人のことを好きになってたんだ、と改めて認識する。 「今度、大阪に帰る時、一緒に連れて行ってよ」 「うん?いいけど?」 「一緒にうまいもん食って、アキさんが通ってた高校とか、初めてデートした場所とか、見てみたい」 「そんなの見てみたいの?」 「いいだろ。ちゃんと見ときたいの。俺のいない時間のアキさんも」  過去にどんなことがあったとしても、これから何が起こっても、俺はこの人を絶対に離さない。  アキの笑う顔を見ながら七音はそう強く思った。          *   *   *   *   *  スタジオに籠っていた時にデビュー前からずっとSeven(セブン) Timbres(ティンブレス)の担当の一人だった社員が退社するらしい、と花丘に聞かされ七音は驚いた。  控えめで穏やかな性格で、メンバーのことを何かと気にかけてくれていたから、メンバーもみな慕っていた人だ。  ドームが決まった時も誰よりも喜んでくれたその人が、ドーム公演を前に退社すると聞いて、裏切られた気分になり七音は不機嫌になった。  他の担当や社員に訊いても、はぐらかされるばかりで誰も教えてはくれず、苛立った気分のまま七音は送別会で本人に詰め寄った。 「足立さん、何で急に辞めちゃうんすか。ちょっと、俺、腹立ってんすけど。ドーム決まってこれからも一緒にずっとやっていくんだと思ってました。あの、何か嫌だったんなら、今、はっきりと教えて下さい」 「あれ?七音君、珍しいね。そんな風にはっきり訊いてくるなんて」 「別に責めてるつもり・・、いや、やっぱちょっと責めてます。なんか、ずっとモヤモヤしちゃってて」  七音の正直な言葉に足立が笑った。 「いやいや、大丈夫。ごめんね、僕も一緒に行きたかったんだけど。ちょっと、病気が見つかって」 と言われて、七音はハッとした。 「病気・・、ですか?」 「うん、僕もびっくりしてさ。色々調べたんだけど、治療が大変そうなんだよね。会社は待ってるって言ってくれたんだけど、待たせてるって思うのも自分的に嫌だなぁ、と思って。だから思い切って辞めて、治療に専念することにした」 「え?そんなに?治療に専念しなくちゃいけないくらいの病気?」 「うん、胃にね、あんまり良くない腫瘍が見つかったの」 「それって・・」 「でも発見が早かったから手術すれば完治も可能なんだって。だから早く復帰するためにも治療に専念することに決めた」 「あ、どうしよ。俺、自分勝手に・・」 「いやいや。僕が言わないでくれって、言ったからね。誰も教えてくれなかったんじゃない?まあ、僕一人がいなくなっても、業務が滞ることはないし、このままそっと触れないでおこうと思ってたんだけど。まさか七音君に直接聞かれるとはね。最近、七音君、少し変わったね」 「え?俺?」 「うん。なんだろ、うまくいえないけど。ちゃんと、迷ってる感じがする」 「え?それ、ダメじゃね?」 「ううん。いい意味だよ。迷って、ちゃんと答え出そうってしてる。前は迷うことなく捨ててるとこあって、すごくもったいないなぁって思ってたから。人の気持ちとか、自分の気持ちとかも簡単に捨てなくなった」 「・・そうなのかな」 「うん。そういう七音君、すごくいいと僕は思う」 「あ・・、あの。俺、すごく好きな人ができました」  七音はなぜかそう言ってしまった。 「うん、なんとなくそうかなって思ってた」 「俺、でも、なんか気持ち(こじ)らせちゃって、その人に酷いことしたことあって。その時、友達に自分を大切にしないと大事な人のことも守れないぞって言われて」 「うん」 「だから、あの、足立さん、自分を大切にしてすげえなって。俺、足立さんの選択、間違ってないと思います」 「ありがとう。七音君にそんなこと言ってもらえるなんて嬉しいな。ドームのステージに立つ七音君がどんな風になってるか楽しみだ」 「ドーム、やっぱ足立さんと一緒に行きたかったな」  足立は少し泣いていた。 「すみません。こんなことしか言えなくて・・」  七音はそう言うのが精一杯だった。   「ただいま」  部屋に帰ると、ベッドルームの明りだけがまだついているのが見えた。 「お帰り。朝まで飲んでくると思ってた」  アキがヘッドボードにもたれて本を読んでいる。 「んー」  七音はシャツとジーンズを脱ぎ捨てベッドに入り、アキの足の間に体をモゾモゾと滑り込ませると腰に手を回してアキの腹の上に頭を乗せた。  アキの冷たい指が髪を梳くように頭を撫でる。 「気持ちいい。もっと撫でて」 「でかいネコみたい」 「足立さん、ガンだって。だから辞めるんだって」  七音はアキの腹に顔を伏せたまま言った。 「・・そう。だいぶ悪いの?」 「わかんない。早く発見できたから大丈夫って言ってたけど。治療に専念するって」 「そっか。つらいね」 「俺、勝手に一人で足立さんに腹立てて、なんで一緒にドーム行ってくれないの、って、言っちゃって」 「うん」 「でも、足立さん、怒んないで、そう言ってくれて嬉しいって笑ってた」  七音の息が熱くアキの腹にかかる。 「そっか。肺に砂が溜まるみたいに重くなって苦しいね」 「どうやったら息、できるようになる?」 「僕は、その人と何て言葉を交わしたかな、って考える。別れ際に、なるべく言祝(ことほ)ぎの言葉をかけるようにしたいなって思うんだ」 「ことほぎの言葉?」 「うん。言うに祝うって書いて、言祝ぎ。言葉で祝うって意味。まあ、今回は祝う言葉はあんまりふさわしくないけど。でも相手を元気づける言葉。前に進む勇気を(たた)えてくれるような、そんな言葉」 「・・、俺、そんな言葉言えなかったよ」 「そんなことないんじゃない?少なくとも、足立さんは七音君に嬉しいって、言ったんだから、ちゃんと言えてると思うよ。君は僕に何度もくれたもの」  アキの静かな声がザリザリとやすりでこすられたような七音の気持ちを段々と滑らかにしていく。  元気づける言葉、勇気を称える言葉を言えてたらいいな。  アキに髪を撫でられながら七音はトロリと蕩けるように眠った。  目が覚めるとアキの姿はなく、シンとした、それでいて温かい空気が部屋中に満ちていた。  七音の携帯が充電されていて、『図書館に行ってきます』というメモが貼られている。  ジーンズに入れっぱなしになっていた携帯を出して充電してくれたらしい。すぐにアキにメールを打った。 今、どこ? 市立図書館です 行っていい? いいよ。自習室にいます  シャワーを浴びて、出かける用意をすると早速、図書館に向かう。  市立図書館など入ったことのない七音は石造りの古めかしい入り口前でウロウロと躊躇(ちゅうちょ)した。 図書館ついたんだけど、ここって誰でも入っていいの? いいですよ。入った所の案内所で初めての人は名前と住所書けば入れます  七音は石段を上がり、図書館の中に入ると案内所に向かい 「あの、初めてなんですけど」 と、声をかけた。 「はい、どちらへ行かれますか?」 「自習室へ」 「はい、自習室は3階です」 「あ、はい」  数秒、受付の女性と無言で向き合う。 「あの、住所とか書かなくてもいいんですか?」 「貸出カードを作られますか?」 「あ、いいえ」 「はい、ではそのまま3階までどうぞ」  そう言われ、またアキに嘘をつかれたことに気が付いた。 「やられた」  俺が昨日落ち込んでたからだ、と七音の口元がフッと緩む。  俺、アキさんと出会う前、どうやって生きてきてたんだろう。もう、全然思い出せない。  どうやって仕返しをしようか考えながら自習室に辿り着き、中を覗くと一つ一つのブースになった机が並んでいて、数人の頭が見えるがブースの衝立で顔までは見えない。  一番奥のブースからピョコ、とアキが顔を出したのを見つけ、ゆっくりと近づいた。 「アキさん」 「いらっしゃい。住所書いた?」  アキが小声で訊いた。 「書かねーよ」  隣のブースの椅子を引き寄せて座りながら不機嫌な声で答える。  笑いをこらえるアキの唇に七音は自分の唇を押し付けた。 「んむ」  アキが慌てて七音の胸を押して唇を離す。 「ちょっ。何してんのっ」 「アキさんがまた嘘つくから。仕返し」  七音はアキの赤くなった耳元で囁いた。 「高校生じゃあるまいし」 「高校生の時こんなことしてたの?やらし」  ふふ、とアキが息を漏らす。 「君となら高校生活やり直してもいいな」 「んじゃあ、もう一回」  二人はブースに隠れてもう一度、唇を合わせた。  

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