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今日はアキが夕方から知り合いの定年退職パーティーに行くらしい。
鏡の前で身支度をするアキを壁にもたれて腕組みしながら七音 は眺めていた。
ダークグレーの三つ揃えのスーツをきっちりと着て、数日前に美容院で整えた髪を綺麗に撫でつけている。
ずいぶんと念入りなのが気に入らない。
「何か、今日、すっげー気合入れてんね」
七音はアキに訊いた。
「うん?そうかな。昔、散々お世話になった人だからね。名物編集長さんだったし、一応、格好つけないと」
臙脂 と深いオリーブ色のネクタイを両手に持って首元に当て選んでいる。
なんか、怪しい。
七音の胸がザワザワと警戒するように波立った。
「その編集長って、もしかして当時の彼氏?」
アキが鏡越しにチラと七音を見て、鏡の中で目を合わせる。
「まあ、そんなとこ」
不機嫌にアキを見つめていた七音は、はぁー、とため息をついた。
「聞きたいの?」
「聞きたくはないけど?」
「もう二十年も前の話だよ」
オリーブ色のネクタイを結ぶと振り向いてアキが七音に近づく。
「そんなに信用ない?」
「そういうことじゃなくて」
アキが目尻に皺を寄せて笑った。
「一緒に行く?君をみせびらかそうか?」
七音はアキの腰を引き寄せた。
「アキさん、浮かれてるし。そのスーツ姿、めちゃくちゃカッコいいから彼氏として心配になんの」
アキが七音の首筋から指を差し入れ髪を梳く。
「七音君が嫌なら行かない」
「また、そんなずるいこと言う」
アキの甘い言葉と冷たい指先に簡単に翻弄され、濃厚に舌を絡ませた。
「楽しんできて。俺も今日は打ち合わせに行かなきゃ」
「うん。なるべく早く帰るからね」
憎いほどの艶めかしい笑顔でアキに言われ、ほんとに頭がおかしくなりそう、と七音はまたため息をついた。
アキが出かけてから七音も打ち合わせに行き、夜になって事務所を出てから足を止めた。
『まあ、そんなとこ』と言ったアキの言葉とあの笑顔が頭を駆け巡る。
20年前ってことはアキさんがハタチぐらいの時か。
児童文学の賞をとってデビューした時の担当?
定年ということは60歳として、当時40歳。今のアキさんと同じ歳。
考え始めると止められなくなってしまう。
今のアキさんとハタチの子が付き合うってことだよな。あり得なくはない。
ってか、実際あったんだよな?なんか、それは・・ヤバい。
七音は自分の妄想にすっかり嵌まって、通りを歩きながら心臓をバクバクといわせた。
一緒に行くって言えば良かった。いや、行くなって言えば良かったか?クソ、あのままベッ ドに押し倒しとけば良かった。
自覚してはいるが、ほぼパニックに陥っている。ホテルの宴会場だと言っていたが、ホテルの名前までは聞いていなかったことを後悔した。この辺りなのは確かなのだが、と思いながらウロウロと歩いていると、チカチカと夜の街の灯りが目に入り、クラクラしてくる。
「バカか、俺は」
一人で走り回っている自分に疲れ果ててため息をついた。
さっさと帰って家でアキさんが帰ってくるのを大人しく待っていれば良かった、そう思った矢先、パッパー、と車のクラクションが聞こえて咄嗟に振り返る。横断歩道を渡るダークグレーのスーツが見えた。
アキが笑いながら横断歩道を駆けて行く。隣の男がアキの首に手を伸ばし、触れると引き寄せて腕を掴むのが見えた。二人で学生のようにふざけて笑いながら縺れるようにして道を渡って行く。
「アキさんっ」
二十歳のアキを見たような錯覚に陥り、七音は近くの人にぶつかりながら二人を追いかけた。横断歩道に踏み出そうとして、激しくクラクションを鳴らされ足止めを食らう。信号が青になるのを待ちきれず、車が止まった瞬間に飛び出した。
二人が向かった方向に首にかけたヘッドフォンが飛び跳ねるのも構わず走って行く。
今、まさにバーの扉を開けて入ろうとするスーツ姿が遠くに見えた。
「アキさんっ」
声が届くよりも先にバーのドアが閉まり、七音は必死で追いかけた。
「どこだ」
いくつかのバーの扉が並んでいて、どこに入ったのか確証が持てず、それらしい店のドアに飛びついた。
「いらっしゃいませ」
と黒服の男が出てくる。
「あの、男、男性がさっき二人で入って来ませんでしたか?」
ハァハァと息を切らした腰履きのジーンズ姿の七音をジロジロと上から下まで見て黒服が
「いいえ」
と慇懃 無礼 に答えた。
「どうも」
店員の態度にイラついてチッと舌打ちをしながら店を出た。
だいぶ頭おかしくなってんな、俺。
そう思いながらも、2店目のバーのドアを勢いよく開けた。
下に降りる数段の階段の先にカウンターが見える。
カウンターに座ってタバコを吸っている男性が二人、驚いた顔でこちらを振り向いた。
息を切らして立ち尽くす七音を見上げた男と目が合い
「七音君?」
と七音を呼ぶアキの声が耳に届いた。
「なんだ、知り合いか?」
と目が合った男がアキに訊いた。ええ、と口元に笑みを浮かべながら隣の男に答える。
「どうしたの。そんなとこ立ってないでこっち座ったら?」
アキがいつもと変わらない様子で話しかけてきて、七音は明らかに場違いな自分が急に恥ずかしくなった。
「あ、いえ、お邪魔みたいなんで帰ります」
「まあ、そう言わずに一杯飲んでけよ、若者」
「奢ってくれるってさ」
「奢るとは言ってねえよ。今日、俺、主賓だぞ」
「主賓が一番に抜け出しといてよく言いますね」
二人の気心知れた感じの雰囲気にムラムラと嫉妬心が湧いて七音は階段をトトッと降りるとアキの横に座った。
「こちら大友 稔 さん。僕の最初の担当編集者さん」
稔がウイスキーの入ったグラスをチラリ、と上げる。
白髪の混じった豊かな髪と浅黒い肌。低くて渋い声。強面の鋭い雰囲気を纏ったなかなかの男前だ。さぞかし人を畏 れさせ、かつ尊敬されてきたであろう風格で、余裕の笑みを七音に見せた。
「こちらは久遠七音君。Seven Timbres の天才ミュージシャンです」
「ども」
七音は軽く頭をさげた。
「何飲む?」
「あー、えーと・・」
アキの前には綺麗な濃い紫色をしたカクテルが置いてある。
「アキさんは何飲んでるの?」
「これは、ダージリン・キール・ロワイヤル」
「相変わらず子供の味覚だなぁ、アキ」
稔がアキのことは昔からよく知っている、と匂わせてくる。
「あ、じゃあ、俺、ウイスキー下さい」
「七音君、ウイスキー好きなの?」
「うん、まぁまぁ好き」
「じゃあ、稔さんが飲んでるのにしたげてよ」
とアキがにこやかに稔に言った。
「お前なあ。これ、いくら・・」
と言いかけて、まあいいや、と呟く。
「同じの、彼に」
そうバーテンに注文する。
「良かったね、すごく良いウイスキーらしいよ」
アキが嬉しそうに七音に笑いかけた。
「ありがとうございます」
「アキィ、ずいぶん尖ったのに惚れられてるじゃねぇか」
アキィと語尾を伸ばした呼び方が七音の癇 に障る。
「あなたほどではないですよ」
サラリとアキが返した。
「何だよ、ノロケか?そういうの、聞かねーよ」
「何言ってるんですか。お孫さんの写真、嬉しそうにみんなに見せてた人が」
稔が渋い顔をする。
「やなとこ見てんじゃねーよ」
「いいじゃないですか、幸せそうでなによりです」
「嫌みか?おい」
「まさか。稔さんはね、僕が新人賞取った時の担当なんだ。まだハタチだったから、凄く怖くてね。未だに僕には怖い人」
七音に少し頭を寄せてアキが話す。
「何言ってんだよ。もう、老兵は立ち去るのみです」
稔の言葉に、アハハッと声を出して笑った。
「冗談でしょ?老兵どころか、大阪の出版社に取締役扱いで引っ張られたらしいじゃないですか。あの出版社、小さいけど、硬派でノンフィクションの良い本出してるところでしょ。あなたがずっとやりたがってたことだ」
あなた、だって、と荒れた気分で七音はウイスキーを口に含んだ。強い香りに濃いトロリとした甘みのある液体が口に広がる。
「うっま」
と思わず声が出た。
フンッ、と稔が鼻で笑った。
「そりゃうまいだろ。そんなん、飲んだことねーだろ。俺だって自分では滅多に頼まねえぐらいのもんだぞ」
「ああ、はい。初めて飲みました、こんなうまいウイスキー」
「はっ、アキィ、こんな若いのと付き合うと、ロクなことねーぞ。息切らして追っかけてくるなんて可愛いことすんのは最初だけだからな」
余計なお世話だ、おっさん、と口に出しそうになってウイスキーを言葉と一緒にゴクリと飲み込む。
「あなたがそれ言いますか」
アキが笑いを含んだ声で言う。
「あの頃の僕よりずっと強いから、七音君は」
トイレ、と呟いて立ち上がりフラリとよろけたアキの腕を七音が掴む。
「アキさん、大丈夫?」
「ああ、ごめん。さっき稔さんがバカみたいに走るから酔いが回った」
「お前のほうが先に走り出したんだろ」
酔いで赤くなったアキの目元に、乱れた前髪が落ちて影を作る。その姿に七音と稔が見惚 れ、お互いそのことに気づいて一瞬、睨み合った。
「今も変わらず、綺麗な奴だな」
稔の言葉に七音はムッとしてトイレに立ったアキの場所に席を移した。
「今は俺のもんだよ、おっさん。人の彼氏に気安く触んないでくれる」
稔が七音をチラリと見て、チッ、と舌打ちした。
「あいつずいぶん生意気なのを彼氏にしやがって」
「あいつ呼ばわりとか、ありえねえんだけど」
七音は鼻息荒く言い放つ。
「大阪の会社に引き抜かれたとか言ってたけど、アキさんの実家があるから大阪選んだんじゃねーの?悪いけどアキさん、大阪には帰さないよ」
「枯れたオヤジにそんな元気ねーよ」
「枯れた?あんたまだまだ現役って感じするけど?」
ははっ、と稔が笑う。
「だと思いたいね」
「で、おっさん、アキさんに何したの?どうせ、ひどい捨て方したんじゃねーの?」
「俺が捨てたこと前提かよ」
「明らかにあんたが悪そうだ」
「ふん、人の事言える面かよ。まあな、そこは言い訳できねえ」
稔はウイスキーを口に含んだ。
「何したんだよ」
「筆を折らせた」
七音のグラスを持つ手にギュッと力が入る。
「あいつ、頭でっかちでな。理想ばっかり語って。そのくせひどく繊細で神経質で、やたらこだわり強くて。見ててイライラしたよ。もっとうまくやれって何度も言ったけど全然だめで。本売るためなら使えるもんは何でも使えって言って、あのビジュアルを利用したんだ。でも、それも散々嫌がって、最後は周りに潰されそうになって書けなくなって。誰かに潰されるよりは俺がってな。身の程知れって、言ってやったんだよ」
チッ、と七音は舌打ちした。
「あんたか、それ言ったの。サイテーだな」
「あいつ、話したのか?」
「いや。でもその言葉は何度も言って、ずいぶんと囚われてんなって思った。だから俺がいらないって言ったんだ、そんな言葉は」
「そうか。まあ、その頃、俺もちょっと腐ってて。もっとやりたいこと山ほどあったはずなのにってな」
「陳腐だな。あんた、そん時いくつ?」
「んー?四十五、か?」
「四十五にもなってハタチのアキさん、潰したのか。そんで今は孫の写真て、あんた妻子持ちだったのかよ。下衆 だな」
「今のお前が思うほど、四十五なんて大人じゃねえんだよ」
稔が憮然として言う。
「二十年前ならボコボコにしてた」
「二十年前って、お前、何歳?」
「・・・八歳」
「八歳にボコボコにされちゃたまんねーな」
稔がグラスを手に大笑いした。
「あれ?楽しそうだね。もう仲良しになった?」
アキが戻って来て嬉しそうに二人に訊く。
お水下さい、とバーテンダーに頼んで七音の横に座った。
「仲良しって・・、お前、ほんと、かわいいな」
稔が呆れた顔でアキを見る。
「ええ?四十のおっさんにかわいいとか、言わないで下さいよ」
「皮肉だよ、バカ」
「そうだぞ、おっさん。人の彼氏に言わないで自分の孫に言え」
「アキィ、ちょっとは躾 けとけよ。コイツ、生意気にも程があるぞ」
「あはは、稔さんがやり込められるところが見られるなんて楽しい」
「お前らなあ、もうちょい年寄りを敬えよ。俺、今日、定年退職したばっかだぞ」
稔の哀愁漂う言い方にアキと七音は笑った。
深夜を回って三人でバーを出るとアキが通りで手を挙げタクシーを止めた。
「稔さん、お疲れ様でした。色々お世話になりました」
アキが稔を労 う言葉をかけ、頭を下げた。
「そういうのヤメろ。ジジイ扱いすんな。まだ続くんだよ人生は」
「はい。あなたの創る本、楽しみにしています」
「お前のもな」
「はい。またいつか一緒に創らせて下さい」
「おう。じゃあな、若者」
稔が七音に視線を投げる。
「ごちそーさま。おっさん、大阪で悪さすんなよ。まだまだ大暴れしそうだからな」
七音は後ろからアキの腰に片手を回して引き寄せながら答えた。
「クソガキが。二度と奢らねぇ、お前には。まあ仲良くやれや」
笑いながらそう言うとタクシーに乗り込む。
「体に気を付けて」
アキは最後にそう言って、タクシーから離れた。
二人で遠ざかるタクシーを見送った途端、七音はグニャリと頭をアキの肩に乗せてもたれかかった。
「うわ、大丈夫?酔ってる?僕らも帰ろう」
アキに支えられるようにして家に帰ると、七音はそのまま、ベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。
「あー、だいぶ酔った。あのウイスキー効いた」
アキが上着を脱いでベッドにあがり七音の胸に頭を乗せる。
「七音君、顔色一つ変えないで飲むから全然、気が付かなかった」
アキの笑う声と振動が七音の胸に伝わってくる。
「ん?何?」
「いや、あのウイスキー、稔さん相手に五杯も飲んじゃうなんておかしくて」
「あれ高いやつ?いくらぐらい?」
「知らない。でもめちゃくちゃ高いやつだと思うよ。多分、一杯、二万ぐらい」
「にまんっ?一杯で?嘘だろ」
七音が驚いて声を上げると、アキがまた笑い出した。
「マジか。俺、十万も飲んだんだ」
「いいよ。いいカッコさせて気分良くしてあげたと思えば」
「そっかな。そうだな。人の彼氏、気安く触った罰だ。」
二十代の頃のアキさんを潰した代償にしては安いもんだ、と思うと少しばかり気分も晴れる。
「見てたんだ。横断歩道の」
「あー、うん。ごめん。ハタチのアキさんを見た気がして、体が勝手に追いかけてた」
「ありがとう、追いかけて来てくれて。稔さんの前だとどうしてもあの頃に戻っちゃって」
「バーにまで乱入して、俺、相当ヤバい奴だよな」
「ううん、嬉しかった。やっぱり行くのやめれば良かった、って思ってたから。七音君がいてくれて、最後にちゃんと稔さんに今の僕を見せられた」
「ほんとに?」
「うん。ほんとに君には驚くよ。今日は二十歳の僕を追いかけて救ってくれたんだから」
アキが上半身を起こして七音の顔を上から見つめる。
「好きだよ」
「もう一回聞きたい」
「七音君の事、すごく好き。誰よりも大切に思ってる」
「俺も、アキさんがすごく好き」
七音はそう言ってアキのワイシャツのボタンに指をかけた。
* * * * *
ようやくアキの眠りも安定してきて、七音の腕の中で朝まで眠るようになった。
七音は目覚めると目の前にあるアキのうなじに鼻を埋める。
「また、加齢臭嗅いでる」
「いいじゃん、彼氏の特権」
アキの痩せた腰を引き寄せ平らな下腹を撫でた。
「あ・・」
息が洩れるアキの唇を塞ぐと、すぐに舌が応えてくる。
「ねえ、挿 れていい?」
「ダメって言ったら信じる?」
「信じない」
手を前に伸ばし、アキのしっかりと固くなった性器を包み込むと溢れた熱い先走りが七音の手を濡らした。
「ほら、アキさんこんなに濡れてるし」
「あ、ダメ」
「それはどっちのダメ?」
「ダメ、やめないで」
内腿に手を滑らせ、少し足を持ち上げるとアキの中に挿入 っていく。深くまで繋がるとまたアキの先端からトロトロと液が溢れた。
「気持ちいい?」
「ん、すごく・・」
「俺も。アキさんの奥に触るのすげー好き」
はぁ、と声を漏らすアキの口元に耳を押し付け、吐息ごと耳の奥に閉じ込める。
奥に触れると、なかなか出られなくなってしまう。もう何度も抱き合っているのに、その度にさらに深く繋がる気がする。
たっぷりと時間をかけ奥を探り、高まり切った熱を思う存分放出させると、七音はベッドから抜け出した。
「風呂入るよね。お湯、ためてくる」
アキをベッドに残してシャワーだけ浴び浴槽に湯を張った。
バスルームから出ると、手早く着替えてキッチンに立つ。
七音はアキが風呂に浸かっている間に卵を茹で、トーストを焼き始めた。
アキの好きなピーナッツバターを冷蔵庫からテーブルに出して、自分のコーヒーとアキの紅茶を準備していると、アキが風呂から上がってきた。
「いい匂い」
「匂いだけはね」
最初は卵を茹でるのすら失敗していたのだが今は爆発させることもなくなった。
「ううん。誰かに朝食作ってもらうのすごく嬉しい。ありがと」
「そう?」
「うん。七音君に会う前の時間がちょっと可哀想になるくらい幸せ」
「そろそろここで一緒に住もうよ。毎日安心して二人で同じ場所に帰って来ようよ」
「そうだね。もうあの小さな部屋に一人で帰るの、僕から止めにしなきゃ。ありがと、長い間、待っててくれて」
アキはそう言ってようやく頷いた。
* * * * *
「おつかれーす」
音楽事務所に顔を出すとなんとなくざわついている雰囲気が肌に刺さった。七音が事務所を見回すと、皆が急に口を閉ざす。
「七音っ、お前っ」
「あ、花丘 。何か、変な感じ・・」
花丘が強張った顔で駆け寄ってきて会議室に引っ張り込んだ。
「アキさんが顔晒されてんだよっ。過去の経歴も出てるっ。見てないか?」
そう言って携帯をグイと見せた。
「なんの話だよ」
七音は差し出された携帯を奪い取るようにして手に取った。
画面上にアキが笑っている顔が映っている。遠くから隠し撮りのような感じのような写真だが、一目でアキとわかった。
「なに・・コレ」
「お前ら、ずっと狙われてたんだよ。すげー数の写真が次々アップされて。アキさんの昔のことまで書かれてる」
花丘が七音の肩を掴んで椅子に座らせた。
「心当たりないか?かなり前から撮られてたみたいだけど、気づかなかったか?」
「いや・・、全然」
画面をスクロールするとアキの顔の写真が次々と出て来る。
最近、二人でスーパーで買い物をしている時から遡 って百貨店でエスカレーターに乗っている時のまである。
隣にいるはずの七音はモザイクがかけられていて、姿がわからないように加工がしてあった。
「なんだよ、これ、キモすぎなんだけど」
ー若葉アキって?作家?ー
ー20年前に人気の文学王子ー
ー隣のモザイクって訳ありなの?ー
ー若い男だってー
ー男?ー
ーわお、パパ活ー
ーこの顔ならアリー
ーナシだろ、キモいってー
ー若い子食い散らかしているらしいですー
ー顔だけは無駄に良いですなー
次々とゾッとするようなコメントが書き込まれていく。
「なにこれ、なんだよコレッ」
「悪いけど社長にお前とアキさんのこと話した。事務所の人が調べてくれてるから大人しく待ってろ」
七音は焦って立ち上がった。
「待て、七音、どこ行くっ」
花丘が七音の腕を掴む。
「家に。アキさん、迎えに行かないと。一人にしておけない」
「わかった、俺が行くから、お前は行くな。お前が狙われてるかもしれないんだぞ」
「俺のことはどうでもいいっ。でもアキさんがコレを見たら・・」
今度こそ、本当に壊れてしまう。
七音は花丘の手を振り切って会議室を飛び出した。
「七音っ、待てってっ」
早く、早く。頼む、家にいて、何も見ないで、そう祈りながら走る。
「アキさんっ!!」
靴を脱ぐのももどかしく家に入った。
シンとして人の気配がない。
キッチンが綺麗に片付いていて、今朝の食器が洗って置いてあった。
ほんの何時間か前まで一緒にいて、さっきまであんなに幸せだった空気は跡形もない。
『人は一瞬でいなくなる時があるから』というアキの言葉が胸を抉った。
あの人を失う、そう思うだけで七音は恐怖で吐き気がした。
ベッドは綺麗に整えられ、洗ったシーツがベランダではためいていて、新しくかけられたシーツからは今朝の匂いすら残されていない。
部屋の中のアキの物が全て消えているのに気が付き、七音は震える手でアキに電話かけた。
お客様の電話は・・、という機械の音声案内が無感情に流れる。
さっきまで腕の中で何度も俺の名前を呼んで、しょぼい朝飯に幸せって言って、やっと一緒に暮らすことに頷いてくれたのに。
それなのに一瞬でいなくなるなんて、そんなこと、あってたまるかよ。
ユウに電話をかけるがこっちも機械の音声案内に繋がり、すぐさま美青 にかける。
「出て、頼む・・」
そう呟いて携帯を握りしめた。
「もしもし?」
「美青っ」
「七音君」
「あのっ、アキさん、そっちに行ってない?連絡つかなくて、でも会いたいんだ、今すぐ」
「今は会わない方がいい」
きっぱりと拒絶されて七音は呆然とした。
「え?何?どうして?何言ってんの?」
「ネット、見たんだろ?」
「見た。だから早く会いたいっつってんだろっ」
「今のところ、七音君のことは一切ばれてない、そうだろ?」
「え?は?そうだけど、そういう問題じゃっ」
「そういう問題だよ。だから七音君はいつも通りにしていて。アキさんのことは今、こっちで対応しているみたいだから」
「いつも通りって、そんなことできるかよっ。アキさんはっ?どこだよっ」
「落ち着いて。これ以上被害を大きくしないようにしたいだけ。わかる?七音君のほうも事務所が対応始めてるんだろ?七音君はそっちの指示に従ってて。アキさんは大丈夫」
「大丈夫な訳ないだろっ。あの人の大丈夫は大丈夫じゃないんだってばっ」
「俺が大丈夫って言ってるんだよ。こっちが落ち着いたらまた連絡するから。悪いけど切るよ」
「待ってっ」
美青の電話が切れた。
「クソッ、クソッ、何でっ。全部ない。何もかも、アキさんも、荷物もっ、全部っ」
七音は叫んだ。
んっ、と七音は喉の奥にせりあがってくる熱い塊を飲み込む。
気をつけろって言われてた。なのにずっと浮かれたまんまで、気にもしなかった。
大人しく待てと言われても待てるはずかない。七音はアキのアパートに向かうために急いで部屋を出た。
1階のエントランスを出たところで
「七音っ」
と呼ばれて足を止める。
「あ・・、花丘。なんで」
「なんでって。お前なあ、待てっつったろーが。お前を追いかけてきたんだよ。暴走しやがって。とりあえず事務所に戻るぞ」
「うん、分かった。俺、アキさんの家行かなきゃいけないから、その後で」
「はあ?ったく。聞こえてねーな。車に乗れ。アキさんの家寄ってやるから。あんま時間ねーぞ」
「え?車?」
「お前の捕獲の為に事務所が貸してくれた。ほら早く乗れって」
花丘の運転する車の助手席でイライラと七音は携帯を見続けた。アキの写真とコメントが止まらない。
「クソッ、止まんない。止まれってっ」
七音は呻いた。
「もう見るなって」
「無理だ。こんなん、無理」
「アキさんち、もうすぐ着くから。お前は車ん中にいろ。俺が行ってくる」
ようやくアキのアパートの前に到着して、花丘が車のドアを開けながら言った。
「いい、俺が行く」
「いや、もしアキさんがいてもお前だとわかったら会ってくれないと思う。俺がアキさんなら今は会わない。だからちょっと待ってろ」
しばらくして花丘が車に戻ってきた。
「いない。まあ、家も特定されちゃってるからな」
「じゃあ、ナナシ」
「え?何?」
「いつも行くカフェ」
「わかった。そこ行ったら事務所帰るぞ。いいな」
大通りに出てから、ナナシに向かう。
「なぁ、七音、大丈夫?」
花丘がチラリと七音を見て訊いた。
「俺は大丈夫だけど、アキさん、アキさんが心配」
「俺にはお前の方が断然ヤバそうに見えるんだけど」
「俺は平気だって。でもアキさん顔出しNGにしてるから。昔、稔のおっさんがひどいことして、アキさん嫌だって言ってたのに。それに同じ部屋に帰る約束したから。早く迎えに行って今日は一緒に帰んなきゃ」
「え?何言ってんの?ちょっと、七音?」
七音はガリガリと親指の爪を噛んだ。
「あ、そこ、左に入って」
七音の指示に慌てて花丘がハンドルを切る。
クネクネと細い道を入り込んで行くがグルグルと一方通行に道を阻まれてなかなか辿り着けず、ようやくナナシの前に車を止めると七音は車を飛び出した。
「待てって、七音っ!」
花丘が叫ぶ。
七音はナナシのドアに飛びついて思い切り引いた。ドアはガツッと音を立て、七音の手に頑なに拒否を示す。七音はガチャガチャと抵抗を続けるドアを引っ張った。
「七音、今日は店、休みなんじゃないか?」
花丘が背後から声をかけた。
「そんなはずない。閉まっていることなんて今まで一度もなかったっ」
ドンドンドンと七音は激しくナナシのドアを叩いた。
「神島 さんっ、開けて下さいっ。聞きたいことがあるんですっ」
「おいっ、七音。閉まってんだって。誰もいねーよ」
「嘘だ。きっといる。中にいるっ。いつもここにいて、いつでも話できるって」
七音は額をドアに押し当ててズルズルとしゃがみこんだ。
「どうしようっ、本当にいなくなったらっ」
七音は声を震わせた。
「七音、一回、落ち着いて」
花丘が七音の肩に手を置いた。
「何も言わずにいなくなったりしないよ。今は対応に追われてるところなんじゃないか?とにかく一旦、事務所戻ろう。そんで、アキさんからの連絡を一緒に待つぞ。な?今、お前、マジでヤバいから」
そう言われて七音はノロノロと立ち上がった。
事務所に戻り、皆がチラチラと七音達を見ている中、うなだれたまま社長室に入る。
「花丘から話は聞いた。七音、若葉 さんとつきあってるのか?」
「・・はい」
「アップされてる写真のモザイクかかってるのは全部、七音だな?」
「そうです」
「出会ったのは、あれだよな?映画の主題歌の依頼の時だよな」
頷くと、はぁー、と社長がため息をついた。
「仕事にかこつけて若手に手出して、最低だな。しかも相手は男って正気・・」
社長の吐き捨てるような言葉に七音の耳がキン、と嫌な音を立てる。
「なんつった?」
立ち上がってテーブル越しに社長に掴みかかった。
ガシャッとテーブルが大きな音を立てる。
「七音っ、よせっ」
花丘と担当が七音に飛びつき、引きはがされた。
「離せっ。アキさんは悪くないっ。俺が付きまとって追い詰めたんだよっ。アキさんをそんな風に言うなっ。アキさんのことを貶 めるなんて許さないっ」
「わかってるからっ、七音っ。頼むから、ちょっと冷静になって」
花丘が後ろから七音を押さえて怒鳴った。
「七音さん、七音さん」
玉名 も縋りついて半泣きだ。
ズルズルと引きずられるようにして社長室を出た。
「タマ、ちょっと、七音見てて。どこにも行かせるなよ。俺、社長ともっかい話してくるから」
花丘がゼエゼエと肩で息をしながら社長室に入って行く。
七音は両手で顔を覆って椅子に座り込んだ。
「ごめんな、玉名。こんな・・」
「僕、ずっと七音さんの味方です。それに僕、アキさんのことも大好きです。だから一緒に頑張りましょう」
すぐ隣で小さく答える玉名の体温が今にも崩れそうな七音の輪郭を包む。
一時間ほどして、花丘と担当が社長室から出てきた。
「タマ、どう?七音、落ち着いた?」
「はい、だいぶ」
「七音、ちゃんと話せるか?社長のアキさんへの誤解は解けたから、これから先のこと話したいんだけど、冷静に話せるな?」
大きく息を吐いて七音は頷いた。社長室に入ってまずは頭を下げる。
「さっきはすみませんでした」
「いや、俺も悪かった。ちょっと言葉が過ぎたな。すまない」
社長の言葉に
「俺のせいだっ」
と七音は泣き崩れた。
「とりあえず、今のところうちはなにも被害は受けてないし、何も起こってはいない。だからしばらく成り行きを見守るしかない。だが、いつ、お前が特定されるかわからない状況だ。下手したらドームもなくなって無期限謹慎を発表しなきゃならい可能性もある」
「俺たちは何も悪いことはしてないのに?」
「まあな、でもさっきの俺の反応を見ても分かるだろ?普通はさっきの俺と同じように考える。若葉さんがあんな風に晒されてしまった今、その相手のお前も無事では済まないだろうな」
「言います、俺たちはちゃんと付き合ってるって。俺がアキさんを好きで好きで追いかけてきたって」
「まあ、理解してくれる人もいるだろうけど、その何百倍も下世話な話でおもしろおかしく言われるだろう。そうなったら、お前、この先二度とステージに立てなくなるぞ」
「俺は別にいい。ステージに立てなくなっても。アキさんがこれ以上傷つかなくて済むならもう立たない」
「バカか。若葉さんはもっとひどい目に遭うっつってんだよ」
「それに、きっとそんなことアキさんが許さないと思う」
花丘が横から言った。
「だからお前の名前が出てないうちはこっちからは公表しないでくれって社長に俺から頼んだ」
七音は涙で濡れた顔を上げた。
「お前は言いたいんだろうけどな、そんなんさせないから」
「なんで?花丘、いつも味方してくれてたじゃんっ」
「だからだよ」
「何言ってんの?アキさんだけ晒し者にして、俺だけ隠れてろって?ちゃんと言う。俺らは何も恥ずかしいことなんてしてない。だっておかしいだろっ、みんな運命の人だとか、ソウルメイトだとか言うくせに、その相手が同性だったとたんにこんな犯罪者みたいな扱いでこっちが隠れなきゃなんないなんてっ」
「わかってるよ。でも、アキさんはどう?お前に音楽捨てさせて、その後、一緒に幸せに暮らせると思うか?アキさんが一番辛くなるんじゃないの?それが一番アキさんを傷つけるのは目に見えてんだろ。あの人はお前の才能、捨てさせるようなこと絶対しないと思う。そんなことしたら、アキさん、その時こそ本当に姿消しちゃうと思わない?」
「何で、こんなことに・・」
好きになっただけなのに。
ただ、あの人に愛されたかっただけなのに。
「い、嫌だ。アキさんを失うのは嫌だ。俺からアキさん、取り上げないで・・。花丘・・、頼む・・」
「社長、俺はSeven と七音を守りたい。でも七音にアキさんを諦めさせるのは無理です。こいつをなんか違うバケモンにしたくない」
「・・・わかった。七音はしばらく花丘の家で謹慎。連絡あるまで勝手なことするなよ。こっちもできるだけの対策練りながらギリギリまで黙秘するが、バレた時は七音を守ることを最優先とする。いいな?」
「はい。よろしくお願いします」
花丘が頭を下げるのを七音は魂が抜けたように見上げた。
「久しぶりだな、七音がうち来るの」
「ごめんな、花丘」
夜になってようやく花丘の家に着き、ソファに座り込みながら七音はぼんやりとした。永遠に悪夢が続いているようで時間の感覚どころか、現実かどうかもよくわからない。
「コーヒー飲むか?」
「うん」
「お前、アキさんのことになるとすげーな。暴走もいいとこ。大爆走。さすがに途中、マジで怖かったぞ」
「なんでかアキさんとのことはうまくいかないんだよ。どうしていいかわかんない。すぐ見失ってコントロールできなくなる」
「まあ、今回のことは予想するのは難しいだろ」
「でも、お前に環境が変わっていくから気を付けろって言われてた。アキさんが傷つくようなことがないようにってことも。お前はちゃんと予測してたろ」
「ただの危機管理ってやつだよ。こんなん予測できるわけねーだろ。しかも狙われるのは七音前提だったけど、今回はアキさんが狙われてるっぽいし。そのわりにはタイミングが俺らのドーム告知が出た後だったり、お前のことはバレないギリギリなのに、情報は結構正確で狙いがよくわからん。巻き込まれているのはお前のほうかもしんねえぞ」
「アキさんが?」
アキさんを傷つけたい誰か?そんな人、いるだろうか。元カレの母親?
いや、電話攻撃だけを四年もしてきた人のやることじゃない。
過去のことを知っているのは、元編集者の稔のおっさん?
アキさんと再会して、俺に渡したくなくなった?
まさかな、そうだとしてもこんな回りくどい方法とる必要ない。それに写真は俺がおっさんに会うもっと前からのものだ。
そうだ、アキさんと出会ってすぐくらいから写真は撮られてる。つきあう前から。
出会った頃からずっと見られていた?
「・・キモい」
七音の全身に鳥肌が立った。
「確かにな。相当いかれてる」
『そのうち刺されるで』
と言ったアキの言葉が頭を駆け巡る。
アキさんは無事なんだろうか。
「ま、今日のところは飯食って早く寝ようぜ。よく考えたら昼食ってねーじゃん」
「うん」
「出かけるのめんどくせえ。ハンバーガーのデリバリーでいい?」
「ああ、全然いい。俺が払う。好きなの頼んで」
「マジで?いいのー?」
やったー、一番高いやつ頼もー、と花丘が携帯を取り出す。
花丘、今日、一言も俺を責めなかった。
「花丘、ほんとにありがとな」
「うわ、なんか、こわいからそういうのやめて。で、お前は何にする?」
「ダブルベーコン」
「いいねー、俺もダブルいっちゃうかー」
こんな時でも温かく良い匂いのするハンバーガーを前にすると急に空腹を感じて、頬張っては喉を詰まらせるようにして飲み込む。
アキさん、ちゃんと食べてるかな。
ユウ、また俺の事怒ってるだろうな。今度こそ口、聞いてくれなさそう。美青も聞いたことがないぐらい冷たい声だった。
「あー、なんで俺、こんなことになっちゃうんだろう。バカ過ぎる」
ソファの上で暗い天井を見上げながら呟く。
アキに会った最初の日にもこうして天井を見上げていた。
アキさんは俺に会ったことを後悔しているだろうか。
追いかけて、強引に追い詰めて、俺の思いを押してけて。
『遠くから眺めているだけのつもりだったんだけどな』
追い詰め過ぎてもうダメかと思った時、アキはそう言って七音の目の前で笑った。
会わなければ良かったって思って欲しくない。
何度も目覚めては浅い眠りを繰り返す。
朝早くにこれ以上、眠れなくなり、起き上がった。
昨日からアキに何度も送ったメッセージは未読のままだ。
昨日に戻れたらいいのに。
幸せな朝がつい昨日まであったことが信じられないくらい昔に感じる。
シャワーを出ると、花丘も起きて来た。
「おはよ。シャワー借りた」
「はよ。俺も浴びてくるかな」
七音は二人分のコーヒーと昨日、コンビニで買ってきたパンをカサカサと袋から取り出した。
「おお?甲斐甲斐しいな。新婚みたい」
「新婚でこれなら、嫌だろ」
「そうか?」
「俺、最近アキさんに朝飯作ってんだ」
「マジかよ。明日は俺にも作って」
パンを齧りながら花丘が携帯を手に取った。
「どうなってる?」
「うーん、七音はまだ特定されてないな」
「アキさんのことは?」
「まだそこはそのままだな。でも、新しい書き込みと写真のアップは止まってるっぽい。ちょっと事務所に電話してみる」
そう言って花丘がベランダで電話をかけ始めた。
「まだまだ家で待機だとー」
何もできないのが腹立だしい。ただ、待っているだけならアキの側にいたい、そう思うといてもたってもいられない。
「な、花丘、やっぱ、俺、もう一回、心当たり回って来る。誰かに会えるかも」
「んー、だめー。外出禁止ー。面会禁止ー。暴走厳禁ー」
ソファに寝転んでいる花丘に瞬殺される。
「だよな」
と肩を落とした七音をソファから花丘が見た。
「俺、初めてお前からアキさんんが男だって聞かされた時、正直、ちょっと引いてさ」
「え?」
七音が花丘に顔を向けた。
「いや、だってさ、そうだろ。いきなりそんなん言われても、ちょっとビビるっていうか。周りにその、同性愛者?とかいないし。ってか、お前、ゲイじゃないだろ」
「まあ、違う」
「だから、最初は何言ってんだこいつって。で、いつもみたいに、どうせすぐ忘れちゃうんだろうなって思ってた」
「あ、そう・・」
「それなのにいつまでたっても忘れるどころか諦めないし。あんな諦め悪いお前、見たことなくて驚いたよ。で、興味津々でどんな人なのかと思って会ってみたら、えらい綺麗な大人男子、登場するしでほんとビックリ」
「え?そうなの?」
「そりゃそうよ。俺の妄想、でかい帽子の金持ちマダムだぜ?」
中華料理の店での話を思い出して少し笑う。
「でも、京極山 でアキさんと話したらめちゃくちゃ良い人でさ。ユウとか美青とかもいい感じで楽しくってだいぶはしゃいで。で、お前とアキさんが一緒にいるとこ見てなんか納得した」
「何が」
「なんかわからん。でも周りのみんなも結構納得してたんじゃないかな」
「うん?意味がわかんねんだけど」
「俺もよくわかんねーんだ」
「なんだよ、それ」
「なんていうか、二人が一緒にいるとこが妙に説得力あって。引力みたいに引き合って、離れられない感じっつーの?そんな人に出会う奴もいるんだな、って思った」
携帯が鳴って花丘が起き上がる。
電話を手にベランダに出ると、しばらく話をしていたが振り向いて七音を手招きした。七音も立ち上がってベランダに出る。
「お前に代わってくれって」
そう言って電話を手渡し、花丘は部屋に戻って窓を閉めた。
画面の表示は登録されていない番号のようだ。
「もしもし?」
七音は警戒しながら電話に出た。
「七音君?」
アキの静かな声が耳いっぱいに響く。
「アキさんっ」
声を聴いたとたん、七音はしゃがみこんだ。
昨日からずっと待ち続けて、聴きたくてしかたのなかった声。
「もしもし?七音君?大丈夫?聞こえる?」
「・・うん」
ズズ、と鼻をすすりながらなんとか答える。
「ごめんね、何も言わずに家、出てきちゃって。電話もできなくて。七音君は大丈夫?昨日、ちゃんと眠れた?」
「アキさん」
「うん」
「今どこにいんの?会いたいよ」
「うん、僕も」
アキがはぁ、と息を吐く音が耳元で聴こえる。
「ごめん、今は会えない。七音君と一緒にいるところずっと撮られてる。誰がこんなことをしているのか調べてもらっているけど、すぐにはわかりそうにないんです。ネットのサイトには削除要請を出してあるけど、一度拡散してしまったものは完全に削除はできないと思う。七音君が特定されるようなことがないように手を打ってはいるから。こんなことになって本当に申し訳ない」
「そんなこと、いいよ。俺のことはどうでも。アキさんは大丈夫?」
「僕は大丈夫」
「安全な場所にいる?なにか危ない目にあったりしてない?」
大丈夫という言葉に不安で頭がグラグラする。
「七音君・・」
アキの声が震える。
「僕の心配はしないで、ね?」
「心配だよ、当たり前だろ。だから一緒にいよう?お願い、どこにいるか教えて?離れてたら心配でたまんない」
七音は携帯を耳に押し当てて耳を澄ませた。
うっ、とアキが喉を詰まらせながら呻く。
その後ろから、微かに固いギターの弦の響きが聴こえた。
フラメンコギターの固い音。この響き、アレックスの店だ。
「ほんと、ごめんね。心配かけて。今は会えない。でも大丈夫だから。だから七音君もいつも通りにしていて欲しいんです」
「アキさん・・。ダメだよ、アキさんの大丈夫は信用できない」
「ごめん、こんなに傷つけるつもりじゃなかったのに」
アキの声が湿る。
「アキさん・・」
ハァ、と息を大きく吐く音がする。
「七音君も気を付けてね。じゃあ」
短くそう言うと電話が切れた。
「アキさん?アキさんっ!」
プー、プー、という音が虚しく耳に響く。
七音は袖で、涙と鼻水でビショビショになった顔をグイ、と拭って立ち上がった。部屋に戻って花丘に携帯を返す。
「ありがと」
「おう。ちゃんと話せたか?」
「うん」
「昼食ったら、事務所に来いってさ」
「わかった」
「昼、またデリバリーでいいかー?カレーでどう?」
「ああ、いいね」
七音は今から自分がやろうとしていることに意識を集中しながら、花丘にそう答えた。
もう味などわからなくなっているカレーをなんとか飲み込むようにして食べ、出かける支度をする。
「そろそろ出かけるぞー」
そう言いながら花丘がトイレに入った瞬間、七音は靴をつっかけ玄関先に置いてあった車の鍵を掴むと部屋を飛び出した。
「花丘、ごめん」
呟きながら駐車場の車に飛び乗り、急いで発進させる。
花丘が気付いて電話をするまでにどのくらいかかるだろう。間に合うだろうか。
とにかく一目だけでも会いたい、会って無事を確かめたら帰る、そう自分に言い訳しながら車のハンドルを握りしめた。
アレックスのバルの駐車場に乗り入れ、車を降りる。
生垣の向こうにバルのドアが見え、その前にアキの背中が見えた。
良かった、無事だ。
「アキさんっ」
バン、と車のドアを閉める音に驚いて振り向いたアキの顔が凍り付いた。
振り向いた拍子に、アキの前に立っていた女の姿が目に入る。
誰だ?あれは・・亜花里 ?
その瞬間、七音は走り出していた。
「お前っ!」
怒りで目の奥がズキズキと痛み、心臓の音が耳鳴りのように聞こえる。
「お前かっ。全部お前の仕業かっ」
「!Alex ! !Ven rapido !(アレックス、早く来て!)」
アキが叫ぶと店の中からアレックスが飛び出してきた。
「!Mierda !(畜生!)」
アレックスがぶつかるようにして二人に手が届く寸前で七音を止める。
「離せっ、こいつと話しさせろっ」
「アレックス、彼を早く中へ」
「Vale (了解)」
「あなたみたいなクズ人間、ナオにふさわしくないっ。気持ち悪いっ!亜花里の方がナオにはいいに決まってるっ!」
亜花里の金切り声が響き、その言葉に七音は怒りで体が震えた。
「お前、お前こそっ、俺とアキさんの人生から消えろよっ。俺とアキさんの生活、汚しやがってっ。アキさんを傷つけやがってっ!許さねえぞっ!」
「!Pera pera Nanao ! !Quieto quieto !(待て待て、七音。止めとけ、止めとけって)」
アレックスに羽交い絞めのように掴まれ店の中へ引きずられて行く。
「申し訳ないけど今すぐ帰って下さい。あなたにはもう彼に関わって欲しくない」
アキが亜花里にそう言っているのが聞こえる。
「あなたに命令される筋合いないわ」
「命令ではありません。お願いしているんです」
「全部あなたのせいよ。亜花里は何も悪くないっ」
ドアが閉まり二人のやり取りが遮断されてしまう。
アレックスに肩を押さえられるようにして椅子に座り込んだ。
嘘だろ・・。
アキさんじゃない、全部、俺のせい。
全ての音が聞こえなくなったかのように静かな店内で七音は呆然とした。
俺がそばにいるだけで、傷つけた?
「七音君?」
アキの静かな声が鼓膜に響き、冷たい指が髪を梳くように撫でる。
いつの間にか目の前に立っていたアキの腰に腕を回して抱きついた。
「アキさん」
「どうしてここだってわかったの?」
「さっきの電話で、アレックスのギターの音が微かに聞こえたから」
「そっか。君はほんとに困った人だね。大丈夫?後で怒られない?」
こんな時でもアキの声は優しくて甘い。
「アキさん、ごめん。アキさんだけ晒し者にして。全部、俺のせいだ。俺が原因だった。アキさん何も悪くないのに。俺がそばにいるだけで傷つけた。でも俺、嫌だ。こんなことでアキさんと離れるの」
「わかってる。離れたりしないよ」
「俺、ちゃんと言う。相手は俺だって。アキさんとはちゃんと付き合ってるって。俺がアキさんを追いかけて・・」
「七音君、聞いて下さい」
アキが七音の言葉を遮って話し始めた。
「僕はそんなこと望んでいません」
「でも、それじゃあ、アキさんがっ」
「七音君がそう言ったところで傷つける人がどんどん現れるだけです。そうなったら七音君のこれからの人生が取り返しのつかないことになってしまう。僕だけじゃない、七音君の周りにいるたくさんの人たちも傷つくことになる。そんなこと、僕が許すと思いますか?わかるでしょう?頭の良い七音君なら」
わかっている。
俺の為に走り回ってくれた花丘や半泣きで味方だからと言ってくれた玉名。
一緒にドームに行きたかったと言った足立さん。
ユウも美青もずっと助けてくれた。
そしてアキさんが誰よりも俺を守ろうとしていることを。
「だけど、こんなままじゃ、アキさんがまた書けなくなる」
「今度は大丈夫。あの頃より、だいぶずるくなったからね。前みたいに諦めたりしないし、もう理不尽なことは受け入れない」
「俺と会ったこと後悔して欲しくない。会わなければ良かったって、あなたに思われたくないよ」
「思ったりしないよ。君が会いに来てくれたことがすごく嬉しいんだから」
アキは体を離すと七音の前髪を掻き上げた。
「しばらくの辛抱だから」
七音はアキを見上げた。
「やだ、ダメだよ。同じ場所に一緒に帰るって約束した」
「大丈夫、二十年も君に会うのを待ってたんだよ。七音君が飛び越えてきてくれたんじゃない。きっとまたすぐ会える」
「ほんと?」
「うん。君が輝いていてくれる限り僕は君を見失わない。ちゃんと君だけを見ているから、だから輝き続けていて欲しいんです」
アキの前髪が七音の顔にかかる。
「愛してる、Mi estrella (僕の星)」
アキはそう囁いて七音の耳たぶに口づけた。
ああ、俺への言祝ぎの言葉・・。
七音はボタボタと涙を零した。
「必ず、迎えに行くからっ。また何度でも会いに行く。だから俺を見ていてっ」
アキの去って行く背中が歪む。
「俺もっ、愛してるよ・・、アキさん」
パタリと閉まったドアに向かって七音は呟いた。
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